|コラム||森家史料
森家年譜 3【森 忠政(本源院殿)】
−天正13(1585)〜寛永11(1634)−
更新 2009/9/20

《年譜》
年 号 西 暦 干 支 天 皇 将 軍 事 項 森家当主
天正13 1585 乙酉 正親町 豊臣秀吉(関白)
足利義昭(将軍)
金山 ☆是春 伴惟安・惟利父子、初めて森家へ出仕す〔実録5〕。
☆是歳 忠政、佐々内蔵助成政討伐のため、羽柴秀吉に従軍。越中津幡にて初陣〔実録5、大系図〕。
☆10.6 豊臣秀吉・徳川家康・忠政等参内す。忠政、従五位下右近丞に叙任す〔史料11-21、実録5、大系図、寛政〕。
忠政(16)
☆是歳 可成弟宗兵衛可政の次男左兵衛(可澄)、金山にて誕生。母は高木氏〔可政〕。
天正14 1586 丙戌 正親町
後陽成
秀吉(関白)
義昭(将軍)
金山 ☆7.11 豊臣秀吉、関白拝賀のため参内。忠政供奉す〔実録5〕。 忠政(17)
天正15 1587 丁亥 後陽成 秀吉(関白)
義昭(将軍)
金山 ☆2.朔 豊臣秀吉、九州征伐のため出陣す〔実録5〕。
☆2.6 忠政、従四位下に昇り、侍従に任ぜられる。これより「右近大夫忠政」と称す〔史料綜覧11、実録5、大系図、寛政〕。また豊臣秀吉より「羽柴」の称号を与えられる。また桐紋も拝領す〔大系図、寛政〕。
☆3 忠政陣代林長兵衛為忠、池田輝政とともに日向平野村兵部居城山崎城を攻める〔実録5〕。
☆4.朔 豊臣軍、筑紫分のうち目白城を攻める。寄手羽柴小一郎秀長・同小吉秀勝・忠政陣代林長兵衛為忠・丸毛三郎兵衛・尾藤甚右衛門・立花左近将監宗茂〔実録5〕。
☆12.21 忠政、米20俵の地を美濃大仙寺に寄進す〔史料綜覧11〕。
忠政(18)
天正16 1588 戊子 後陽成 秀吉(関白)金山 ☆4.10 忠政、宮中へ四品の御礼を申す〔お湯殿の上の日記〕。
☆4 忠政、後陽成天皇聚楽第行幸に供奉。また歌会にて和歌を詠ず〔実録5、大系図〕。
☆是歳 忠政、摂津茨木城主中川瀬兵衛清秀女「チボ」と婚姻す〔中川氏御年譜−文化・幕末撰定−、中川氏系図、実録5・6、大系図〕。
忠政(19)
天正17 1589 己丑 後陽成 秀吉 金山 ☆11.21 忠政、豊臣秀吉より金山7万石の朱印状を賜る〔実録5〕。
☆12.26 忠政、美濃永保寺及び願興寺の屋敷地の年貢を免除す〔史料綜覧11〕。
忠政(20)
天正18 1590 庚寅 後陽成 秀吉 金山 ☆3.28 豊臣秀吉、徳川家康と共に伊豆山中城の地形を巡視し。長窪城に入り織田信雄に同国韮山城攻略を命ず。蜂須賀家政・福島正則・長岡忠興・蒲生氏郷・中川秀政・忠政・戸田勝重等、これに属す。又羽柴秀次をして、中村一氏・田中吉政・堀尾吉直(吉晴)・山内一豊・一柳直末等を率いて山中城を攻略せしむ。なお、家康を小田原口の先鋒とし、元山中の間道より進ましむ〔史料綜覧11〕。
☆3.29 豊臣軍、伊豆韮山城を攻める。忠政参戦す〔実録5〕。
☆3 豊臣秀吉、塙直政子長光(母は柴田勝家女−大野木殿)を成敗す〔実録6〕。
忠政(21)
旗本他 ☆是歳 可成弟、宗兵衛可政長男次郎兵衛重政(次郎家)、はじめて徳川家康に拝謁す〔可政、寛永、寛政〕。
天正19 1591 辛卯 後陽成 秀吉
秀次
金山 ☆10.11 忠政、美濃永保寺に地を寄進す〔史料綜覧11〕。
☆是歳 忠政女子松(のち池田備中守長幸室)、美濃金山に生まれる。母は中川清秀女チボ〔実録6、大系図〕。
忠政(22)
旗本他
天正20
文禄元

★12.8  改元
1592 壬辰 後陽成 秀次 金山 ☆4 忠政、朝鮮出兵につき、2000人を率いて肥前名護屋に在陣す。また、名護屋旅館造営を命ぜられる。担当場所は三の丸・冠木門・追手門〔実録5、大系図〕。 忠政(23)
旗本他
文禄2 1593 癸巳 後陽成 秀次 金山 ☆4.23 忠政の長男重政(大膳亮)、金山に於いて誕生す。母は側室山内氏(香々美)〔実録6、大系図〕。 忠政(24)
旗本他
文禄3 1594 甲午 後陽成 秀次 金山 ☆正 豊臣秀吉、伏見小幡山に築城す。忠政等諸大名、普請を命ぜられる〔実録5〕。
☆2 忠政、鵜丸太刀(三條小鍛冶宗近・2尺1寸)・牛玉・鹿玉を御師出口信濃を通じて伊勢神宮に奉納す。使者大洞弥次右衛門〔実録5、大系図〕。
☆是春 忠政、大和大納言秀長養女(実名古屋因幡守女)と婚姻。豊臣秀吉より鎌倉一文字の刀を賜う〔実録5・6、大系図〕。
☆7.22 豊臣秀吉、母大政所発病につき肥前名護屋より京へ戻る。忠政は名護屋に残る〔実録5〕。
☆8.21 豊臣秀吉、西笑承兌の伏見大光明寺建立勧進につき諸大名に馳走を命ず。忠政は30石を馳走するよう指示あり〔相国寺本坊文書〕。
忠政(25)
旗本他 ☆是歳 森宗兵衛可政(可成弟)の男子采女(可春・采女家祖)誕生す〔可政〕。
文禄4 1595 乙未 後陽成 秀次 金山 ☆正.3 豊臣秀吉、上野草津湯治につき旅路の上野・信濃両国に於ける諸城の警備を諸将に命ず。忠政は信濃上田城(真田昌幸居城)警備を命ぜられる〔浅野268〕。
☆7.20 忠政等諸大名、御ひろい(豊臣秀頼)に忠誠を誓う旨の血判起請文を出す〔大阪城木下家文書〕。
☆是歳 忠政女郷(のち関成次妻)、金山にて誕生。母は山内氏(香々美)〔実録6、大系図〕。
忠政(26)
旗本他 ☆是歳 可成弟、森宗兵衛可政次男左兵衛可澄(左兵衛家)、徳川家康に仕える〔寛永、可政、寛政〕。
文禄5
慶長元

★10.27  改元
1596 丙申 後陽成 秀吉(太閤) 金山 ☆2.朔 忠政、京大仏築地普請下命を金山の重臣へ報じ、指示を与う〔実録5〕。
☆8.2 可成室妙向尼、金山にて卒す(73歳)。法名「勝壽院殿釋妙向禅尼」、墓所美濃金山妙願寺〔実録3、大系図〕。
☆11.3 忠政、大塚兵太郎に知行を宛行う〔史料綜覧11〕。
忠政(27)
旗本他
慶長2 1597 丁酉 後陽成 秀吉 金山 ☆是歳 忠政女黒(のち岩・森正信妻)、金山にて誕生。母は山内氏(香々美)〔実録6、大系図〕。 忠政(28)
旗本他
慶長3 1598 戊戌 後陽成 秀吉 金山 ☆8.18 豊臣秀吉、伏見城に於いて卒す(62歳)。忠政、前田利家邸に於いて秀吉遺物「國秀」御腰物・御小袖・羽織等を拝領す〔実録5、大系図〕。
☆是冬 徳川家康・石田三成確執ありて忠政、長岡(細川)忠興とともに伏見向嶋徳川屋敷に3日間詰める。家康より賞詞あり〔実録5、大系図、寛政〕。
☆是歳 忠政女宮(四条殿・池田長幸再室)、金山に於いて誕生す。母は豊臣秀長養女〔実録6、大系図〕。
忠政(29)
旗本他
慶長4 1599 己亥 後陽成 金山 ☆4.8 山城伏見の忠政亭火災。延燒して徳川秀忠の亭に及ぶ〔史料綜覧11〕。 忠政(30)
旗本他
慶長5 1600 庚子 後陽成 金山

川中島
☆2.朔 徳川家康、信濃川中島の田丸直息を美濃兼山に移して同国惠那・土岐・可兒三郡の地を与え、同国兼山の忠政を信濃川中島に移し、更級・水内・埴科・高井四郡の地を与える(13万7500石)。これにより忠政、海津城主となる〔史料綜覧11、実録5、伝記坤、家康文書中、大系図、寛政、信濃18〕。
☆2.23 忠政家臣林長兵衛友重、信濃水内郡山千寺に禁制を出す〔丸山正一外4名共有文書、信濃18〕。
☆2.27 豊臣氏奉行前田玄以・増田長盛・長束正家、田丸直昌をして河中嶋御蔵米を忠政へ渡付せしむ〔田丸文書、信濃18〕。
☆3.15 忠政、海津城に移る。また重臣林長兵衛為忠をして徳川家康・秀忠へ謝せしむ(実録所収文書には25日とあり)〔実録5、大系図〕。
☆3.25 忠政、海津城へ入城す(実録本文には15日とあり)〔実録5〕。
☆3 旧海津城主春日周防の一族、磔に処される〔実録5〕。
☆是頃 忠政側室お竹(香々美・山内氏)、信州に於いて6歳の幼児「又左衛門」を養う(のちに忠政子重政草履取)〔実録5〕。
☆4.2 徳川秀忠、忠政へ川中島入国を賀す〔実録5〕。
☆4.6 徳川秀忠、川中島入国の祝儀として忠政へ金子100枚・鉄砲100丁を贈り、懇意の旨を報ず[実録5]。
☆是頃カ 石田三成、忠政を味方に引き入れようとするも忠政許容せず[寛永]。
☆5.9 これより先、忠政、林長兵衛をして徳川秀忠に太刀・馬代銀等を贈らしむ。秀忠、これを謝す〔実録5〕。
☆5.18 徳川秀忠、信濃河中島の忠政へ使者を遣して、起居を候せしに答え、陸奥會津の上杉景勝の動静を報ず〔実録5、史料綜覧11〕。
☆6.朔 徳川秀忠、忠政へ家康今月上旬関東下国の予定を報ず〔実録5、信濃18〕。
☆6.6 徳川秀忠、忠政へ家康下国は今月中旬に変更の旨を報ず〔実録5〕。
☆6.16 徳川家康大坂城を出て東下す〔実録5〕。
☆6.28 徳川秀忠、忠政へ家康16日大坂発を報ず〔実録5〕。
☆7.9 忠政、孫六に命じて川中嶋四郡の「かわや」をして籠舎番及び城内掃除等を勤めしむ〔続舊記集下、信濃18〕。
☆7.19 徳川秀忠、前軍を率いて江戸を発し、会津に向かう。榊原康政・松平忠康(後の忠吉)・蒲生秀行・忠政等も従う〔板坂卜斎覚書、黒田家譜〕。
☆7.21 徳川家康、江戸を発す〔大洲加藤文書、秋田文書〕。忠政、宇都宮に着陣す〔実録5、家康文書中〕。徳川秀忠、古河着〔実録5〕。
☆7.22 徳川家康、宇都宮着陣を報じた忠政へ書を遣わし着陣を労い、且つ近日着陣を報ず〔実録5、家康文書中〕。徳川秀忠、宇都宮着陣を報じた忠政へ書を送り、昨日古河着と家康21日江戸発を報ず〔実録5〕。
☆是頃 忠政、家康の近臣本多佐渡守正信へ書状を遣わす〔実録5、家康文書中〕。
☆7.24 是より先、信濃上田の真田安房守昌幸と長子伊豆守信幸・次子左衛門佐信繁(幸村)、徳川家康に従いて下野に進む。昌幸、西軍に応じ、信繁と共に上田に帰る。是日、家康、信幸を賞し、又、信濃松本の石川康長・松城(松代)の忠政をして、各其封に帰り、昌幸に備へしむ〔史料綜覧11〕。
☆7.25 忠政眼病を患うにつき徳川秀忠、書を以て病状を問わしむ〔実録5〕。
☆7.30 西軍、伏見城攻略。籠城の木下若狭少将勝俊、城より脱出し、のちに剃髪して長嘯子と号す。勝俊室梅(可成女)は夫の行為を見限って和歌一首を贈って剃髪し、「寶泉院」と号す〔実録3、大系図〕。
☆是頃カ 忠政、川中島へ帰国す。
☆8.2 徳川家康、忠政へ返書を遣わし、信州表の処置に聊爾なきように命じ、且つ川中島帰国の安否を問う〔実録5、家康文書中〕。
☆8.4 徳川秀忠、忠政へ書を送りて家康の指示に従うよう命ず〔実録5〕。
☆8.5 石田三成、信濃上田城主真田昌幸・信幸・信繁(幸村)に軍状を報ず〔真田家文書、信濃18〕。
☆8.6 石田三成、真田昌幸に軍状を知らせ、且つ恩賞を約し、忠政への遺恨は格別と報ず。また昌幸長子信幸の去就を問う〔信濃18、長國寺殿御事蹟稿9、実録5〕。
☆8.17 是より先、忠政、徳川家康へ上方へ同道したき旨を申出ず。家康、これを賞するも、忠政同道を停め、且つ領内守備を命ず〔実録5〕。
☆8.21 是より先、真田信幸、下野小山より上野沼田に帰り、陸奥会津及び信濃境の守備を定め徳川家康に報ず〔史料綜覧11〕。これより先、忠政、徳川家康へ初鮭を進上す。家康、忠政へ初鮭到来を謝し、且つ上方出馬を26日と報ず〔古文書集7、家康文書中、史料綜覧11〕。徳川家康、忠政へ先日報じてきた事は虚説であろうとし、秀忠近日出馬につき相談するよう返書す〔実録5、家康文書補遺〕。宇都宮在陣の徳川秀忠、忠政へ家康近日上方出馬を報じ、且つ川中島領の仕置に油断なきよう命ずる〔実録5、家康文書中〕。
☆8.23 徳川家康、西尾隠岐守吉次をして忠政へ書状を遣わし、信州表の儀は秀忠と申し合わすよう命ずる〔実録5、家康文書中〕。
☆是頃 忠政、上方よりの書状を徳川家康に送致し、且つ自身も上方同道希望を申し入れる〔実録5、家康文書中〕。
☆8.24 徳川秀忠、宇都宮を発し、西上の途につく。本多正信・榊原康政・大久保忠隣・忠政等も従う〔黒田家譜〕。
☆8.27 徳川家康、忠政へ秀忠に信州表の処置を申し付けてある旨を報ず〔実録5、家康文書中〕。
☆9.1 これより先、忠政、徳川秀忠の陣に参陣すべく、このことを報ず。この日、秀忠、これに答え忠政へ近日信州表出陣の旨を報ず〔実録5〕。
☆9.2 徳川秀忠、下野より信濃に入り佐久郡小諸城に着陣す〔但馬出石仙石家譜、信濃18〕。
☆9.3 徳川秀忠、佐竹義宣家臣葦名平四郎に上田城主真田昌幸が赦免を請うたことを報ず〔佐竹文書〕。この日、昌幸、態度を変じる〔実録5〕。
☆9.4 徳川秀忠、忠政へ真田昌幸変心の旨を報ず〔実録5〕。
☆9.5 徳川秀忠、真田昌幸の属城信濃小県郡砥石城を陥落せしめ、真田信幸に守備を命ず〔浅野、信濃18〕。
☆9.6 徳川秀忠の諸将等、上田城を攻める〔寛永、寛政、信濃18〕。忠政は真田押えとして川中島にあり〔実録5〕。
☆9.8 徳川秀忠、美濃出立のため兵を小諸に引かんとし、その旨を忠政へ伝え、忠政に境目堅固すべきことを命ず〔実録5〕。
☆是頃カ 忠政、徳川家康・秀忠へ西上を請う〔譜牒餘録55関備前守、家康文書中〕。
☆9.11 徳川秀忠、忠政に美濃参陣を促す〔実録5、信濃18〕。
☆9.12 朝、徳川秀忠、家康の命に従い、忠政へ領界の仕置を待って参陣すべき事を告ぐ。使者山岡五郎作〔実録5〕。これより先、忠政、徳川秀忠へ鮭を贈る。秀忠、これを謝し重ねて境目仕置を待って参陣すべきことを告ぐ〔実録5〕。
☆9.15 徳川秀忠、忠政の西上を停め、境目の仕置を命ず〔実録5〕。
☆9.16 徳川秀忠、美濃に参陣のため小諸を発し、下諏訪を経て木曽に入る。
☆9.22 これより先忠政、信濃上田城主真田昌幸に備える。又、徳川家康・秀忠父子に入京せんことを請う。是日、家康、信濃の忠政へ信濃在国の必要を延べ、真田氏に備えるべきことを命ずる。使者永井右近大夫〔譜牒餘録55関備前守、家康文書中、史料綜覧11、実録5〕。
☆9.23 徳川秀忠、忠政の西上を延引すべき事を命じ、且つ伏見参着を報ず〔譜牒餘録55関備前守、家康文書中、実録5〕。
☆9.27 徳川秀忠、忠政へ書を遣わして境目仕置を命じ、且つ上洛無用を告ぐ。使者大久保忠隣〔実録5〕。
☆9.晦 徳川秀忠、忠政の信州表の一揆成敗を賞し、且つ家康へ取りなす旨を報ず〔実録5〕。
☆10.6 徳川秀忠、忠政へ上方平均を報ず。使者大久保忠隣〔実録5〕。
☆10.15 森家重臣各務兵庫助元正、信州長沼城に於いて卒す(59歳)。法名「鉄梅院殿長春居士」〔実録5〕。
☆10.21 徳川秀忠、忠政の上洛を止め、信州表の仕置を命ず。使者大久保忠隣〔実録5〕。
☆12.7 忠政、信濃飯繩社等に地を寄進す〔史料綜覧11〕。
☆是歳 忠政女菊(鳥居忠恒室)、川中島に於いて誕生す。母は豊臣秀長養女〔実録6、大系図〕。
忠政(31)
旗本他 ☆9 可成弟森宗兵衛可政、関ヶ原の戦いに従軍す〔可政、寛永、大系図〕。森左兵衛可澄(左兵衛家)、関ヶ原の合戦に従軍す〔寛永、可政、寛政〕。
☆9.15 可成弟宗兵衛可政、従五位下對馬守に叙任す〔可政〕。
☆是歳 旗本森可政嫡子次郎兵衛重政(次郎家)の子(のちの次郎兵衛重継)、大坂に於いて誕生す。母は家女〔可政〕。
慶長6 1601 辛丑 後陽成 川中島 ☆是歳 石川備前守、金山市場を犬山城へ移す〔実録5〕。 忠政(32)
旗本他
慶長7 1602 壬寅 後陽成 川中島 ☆10.16 忠政、信濃八幡村の八幡社に社領を寄進す〔史料綜覧11〕。
☆是歳 忠政男子虎松、川中島に於いて誕生。母は豊臣秀長養女〔実録6、大系図〕。
忠政(33)
旗本他
慶長8 1603 己卯 後陽成 徳川家康(将軍) 川中島

津山
☆ 2.6 忠政、伏見状に於いて徳川家康より信濃国の領地を改めて美作一国18万6500石余を拝領す。家康、第六子忠輝を下総佐倉より信濃松城に移し、12万石を与える(「実録5」では秀忠より美作拝領とあり)〔実録5、史料綜覧11、大系図、寛永、寛政〕。
☆2.14 これより先、忠政、近衛信尹へ太刀・馬等を進上す。是日、信尹、これを謝し、且つ忠政の美作下国を祝す〔実録5〕。
☆2.20 忠政、伴伊兵衛・同久六・河村庄助をして美作に先行せしむ〔実録5〕。
☆3月中旬 忠政、美作国請取のため播州杉坂越にて美作吉野郡へ向かう〔実録5〕。
☆3.21 忠政、美作入国。吉野郡下庄村庄屋七郎右衛門宅に一泊す。七郎右衛門・戸坂村平左衛門・川上村喜左衛門、忠政に拝謁す。庄屋たちより忠政へ鍬柄・馬船の献上あり〔実録5〕。
☆3.25 徳川家康、参内す〔細川1-31〕。
☆3.26 忠政、苫西郡院庄村古城跡に屋敷を普請せしむ〔実録5〕。
☆3.27 忠政、院庄着〔実録5〕。
☆5.3 美作院庄普請地割場にて家中名護屋九右衛門(山三郎)と井戸宇右衛門、闘争に及び双方死す。これにより忠政、院庄普請を止む〔実録5〕。
☆是頃 信州川中島にて後始末の森家重臣林長兵衛為忠(道休)、美作への途上、名古屋・井戸闘争を聞きて森家を退身す〔実録5〕。
☆是歳 忠政、城地選定のため美作国内を巡見し、鶴山を城地に定める〔実録5〕。忠政、備中拝領の台命を蒙れども拝辞す〔大系図〕。忠政、徳川家康より愛染國俊の脇差・青木肩衝の茶壺・銀つくりの鉄砲2挺を拝領す(「寛政」では元和2年)〔大系図、実録5−鉄砲の記載なし〕。
忠政(34)
旗本他 ☆3.25 旗本森左兵衛可澄(左兵衛家)、従五位下筑後守に叙任し、大和国添上・添下・山邊のうちに於いて1000石を加増される〔可政、寛政〕。
慶長9 1604 甲辰 後陽成 家康 津山 ☆2.11 忠政、美作久米郡誕生寺に、敷地及び寺領を寄附す〔史料12-1〕。
☆3.11 忠政、美作の諸社寺に、社領寺領を寄附す〔史料12-2〕→忠政、美作木山寺に寺領27石余を寄進す〔美作木山寺文書〕。忠政、美作一宮(中山神社)に社領30石を寄進す〔美作中山神社文書〕。忠政、美作総社に社領30石を寄進す〔美作総社文書〕。忠政、美作誕生寺に寺領35石を寄進す〔美作誕生寺文書〕。忠政、美作二宮(高野神社)へ社領30石を寄進す〔美作高野神社文書〕。
☆是春 忠政、新に城を美作鶴山に築城を開始し、鶴山を改めて津山と称す〔実録5、史料12-2〕。忠政、津山鎮守として徳守大明神を建立す。普請奉行桜井弥右衛門康正・大工井上次郎左衛門〔実録5〕。
☆是頃 忠政、美作国中の検地を命ず。奉行伴半兵衛直次等〔実録5〕。
☆10.2 忠政、美作の寺社へ寄附領の折紙を発給す〔実録5〕。
☆11.2 忠政、封内美作東北条郡に貢米の制を下す〔史料12-2〕。忠政、美作の諸社寺に、社領寺領を寄附す〔史料12-2〕→忠政、美作木山寺に寺領70石を寄進す〔美作木山寺文書〕。忠政、美作一宮(中山神社)に社領70石を寄進す〔美作中山神社文書〕。忠政、美作総社に社領70石を寄進す〔美作総社文書〕。忠政、美作誕生寺に寺領50石を寄進す〔美作誕生寺文書〕。忠政、美作二宮(高野神社)へ社領70石を寄進す〔美作高野神社文書〕。
☆11.16 美作徳守大明神、普請成就〔実録5〕。
☆是歳 美作国苫南郡院庄に於いて忠政三男忠廣誕生す。母は豊臣秀長養女〔大系図、寛政〕。忠政、伴藤右衛門惟利をして、鶴山八幡宮を美作久米南郡臨山へ移さしむ〔実録5〕。
忠政(35)
旗本他 ☆ 6 可成弟宗兵衛可政(次郎家)、従五位下對馬守に叙任す〔寛政〕。
慶長10 1605 乙巳 後陽成 家康
秀忠
津山 ☆ 2 忠政、江戸城修築を命ぜられる[寛政、実録5]。
☆9.16 忠政、津山城に於いて大般若経真読せしむ。忠政、大般若経所蔵の美作久米南郡弓削庄下神目村薬王山豊楽寺へ永代高10石を与える[実録5]。
忠政(36)
旗本他
慶長11 1606 丙午 後陽成 秀忠 津山 ☆正.15 忠政、法度三ケ条を領内に頒つ[実録5、史料12-3]。
☆是歳 忠政女兼(のちの本多忠義室)、作州に於いて誕生す。母は豊臣秀長養女[大系図]。
☆5.3 忠政室豊臣氏、津山に於いて卒す。法名「智勝院殿月桂宗清大禅定門」[大系図]。
☆是歳 武兵衛家関武兵衛の子(のちの森淡路可信)、誕生す[可政]。
忠政(37)
旗本他 ☆是歳 森對馬守可政嫡男次郎兵衛重政(次郎家)、江戸に於いて将軍秀忠に拝謁す[可政、寛永]。
慶長12 1607 丁未 後陽成 秀忠 津山 ☆是春 忠政、駿府城石垣普請手伝を勤む[実録5]。
☆5.3 忠政室於岩(豊臣氏)、逝去す(33歳)。法名「知勝院殿月桂宗清大禅定尼」、墓所津山龍雲寺(後の本源寺)[実録5・6]。
☆7.14・15 津山川向河原に於いて忠政室知勝院供養の万燈会始まる[実録6]。
☆9.2 津山城下洪水。家少々流る[実録5]。
忠政(38)
旗本他
慶長13 1608 戊申 後陽成 秀忠 津山 ☆2 忠政、江戸城修築を勤む〔寛政〕。
☆是春 津山城普請奉行薗四郎右衛門、内山下今村与一右衛門屋敷前に置いて、かねてより遺恨ある足軽たちに襲撃されるも撃退す。忠政、その首尾よきを賞して50石加増し、足軽共を成敗す〔実録5〕。
☆8 忠政、霊夢によって鶴山八幡宮を伴惟利に命じて美作田中郷北村に建立せしむ〔実録5〕。
☆8.15 美作鶴山八幡宮、正遷宮〔実録5〕。
☆10.14 午刻、美作久米南郡八伏村谷奥石山に於いて、忠政家臣各務四郎兵衛(8千石・真島郡高田城代)と小沢彦八(千石・忠政相聟)闘争に及び、彦八死す。また、細野左近も死す〔実録5〕。
☆10.15 昨日喧嘩による重傷の各務四郎兵衛、切腹す(37歳)〔実録5〕。忠政重臣大塚丹後、津山城内の門を閉じ、厳重にせしむ〔実録5〕。
☆10.19 午刻、各務吉左衛門正保他高田の士、津山城門を無理に通る。大塚丹後、一連の一件を江戸の忠政に報ず〔実録5〕。
☆是冬 忠政、美作西北条郡山北村屋ごへ鶴山八幡宮を?し仮社を造り、神体・神宝等を移す〔実録5〕。
忠政(39)
旗本他
慶長14 1609 己酉 後陽成 秀忠 津山 ☆是歳 忠政、丹波篠山城普請手伝を命ぜられる〔実録5〕。 忠政(40)
旗本他 ☆是歳 森對馬守可政嫡男次郎兵衛重政(次郎家)、従五位下伊豆守に叙任す〔可政、寛永、寛政〕。
慶長15 1610 庚戌 後陽成 秀忠 津山 ☆是歳 忠政、普請手伝の為、丹波篠山に赴く[実録5]。普請小屋番所にて忠政家中林六内(600石・使番)、河村助六(400石・使番)と闘争に及び殺害す。六内は斎民部弟内山左吉・真屋太郎作に成敗される。忠政、左吉に切腹を命じ、太郎作に美作の親元(新九郎)に蟄居せしむ〔実録5〕。
津山に於いて森家家臣関民部少輔成次に男子兵助誕生す(後の長継)。母は忠政女郷〔実録7、大系図、寛政〕。
忠政(41)
旗本他
慶長16 1611 辛亥 後陽成
後水尾
秀忠 津山 ☆是歳 忠政、八幡宮再建立〔実録5〕。
☆8 八幡宮遷宮〔実録5〕。
☆是歳 忠政長男重政の女子「捨」(のち妙願寺二代淨公室)、美作苫南郡真経村に於いて誕生す〔実録6、大系図〕。忠政、養母「大野木殿」(柴田勝家女・塙直政室)を引き取る〔実録5・6〕。
忠政、名古屋城普請御手伝を負担す〔実録6〕。池田長幸室於松(忠政女)、男子(のちの出雲守長常)を産む〔実録6〕。
忠政(42)
旗本他 ☆是歳 旗本森對馬守可政嫡孫治郎兵衛重継(重政嫡子・次郎家)、はじめて将軍秀忠に拝謁す[寛永、寛政]。
慶長年中 ☆森可政子勝右衛門成正(福岡家)、父の縁故によって福岡城主黒田長政に仕える[可政]。
慶長17 1612 壬子 後水尾 秀忠 津山 ☆4.24 美作国、雨雹にて洪水。商家・民屋少々流る〔実録5〕。
☆6.20 忠政、駿府に至り家康に謁す〔史料12-9〕。
☆ 7.13 忠政次男虎松、死去(11歳)。法名「青松院殿金岫宗玉大童子」、墓所江戸広徳寺〔実録6、大系図、寛政〕。
☆是歳 忠政、旗本で叔父の對馬守可政を執政に乞う。これにより可政、采地を嫡子伊豆守重政に譲りて津山に赴く〔実録5、可政、大系図、寛永、寛政〕。
☆11.5 忠政、叔父の對馬守可政(可成弟)に美作英田郡・勝南郡のうちに於いて5000石を宛行う〔可政〕。
☆是歳 忠政家臣関民部少輔成次の次男次郎八(後の関備前守長政)、美作国に於いて誕生す〔寛政〕。伯耆黒坂城主関長門守一信改易につき関家中武具取除くを忠政、美作大庭郡久世村にて武具を留め置く〔実録5〕。
忠政(43)
旗本他 ☆5.11 可成弟森對馬守可政(次郎家)の妻高木右近(蒲生氏郷家臣、または左吉政清とも)女、卒す。法名「栄光院殿妙胤禅定尼」〔可政、大系図〕。
☆11.8 福岡城主黒田長政、森勝右衛門成正(福岡家)に鞍手郡野面村の内に於いて1000石を宛行う〔可政〕。
☆是歳 旗本森對馬守可政、忠政に請われて執政となり、家督を嫡男伊豆守重政に譲り津山へ赴く。可政次男左兵衛可澄(左兵衛家)には領地を分与す〔可政〕。
慶長18 1613 癸丑 後水尾 秀忠 津山 ☆7.16 池田長幸室於松(忠政女)、美作吉野郡古町平内家に於いて死去す(23歳)。法名「趙州院殿月底周光大禅定尼」、墓所同所竜堂寺。のち同所真言宗円明寺に改葬す〔実録6〕。
☆是歳 忠政女菊、池田左衛門督忠継に嫁す〔実録6、大系図〕。
忠政(44)
旗本他
慶長19 1614 甲寅 後水尾 秀忠 津山 ☆2.11 肥前唐津城主寺沢広高、駿府に抵る。また、忠政・阿波徳島城主蜂須賀至鎮等、相踵で駿府に抵る[史料12-13]。
☆10.7 丹後宮津城主京極高知・若狭小浜城主京極忠高・忠政・筑後柳川城主田中忠政等、江戸より駿府に抵り家康に謁す。家康、各に帰国を命じ、次の令を待たしむ[実録5、史料12-15]。
☆10.11 徳川家康、駿府を出馬[実録5]。
☆10.16 忠政、居城を発し大坂に向う[史料12-15]。忠政家老等、江戸より大坂へ馳せ登る[実録5]。
☆是頃 幕府村瀬左馬助等、忠政へ軍法法度を出す[実録5]。
☆10.23 徳川秀忠、江戸を出馬[実録5]。
☆10 忠政、家中へ陣中法度を出す[実録5]。
☆11.6カ 忠政ほか中国勢、翌日にかけて大坂着陣。忠政軍は大坂野田・福島近所新地表に陣す[実録5]。
☆11.7 池田忠継、神崎川を渡り、中島の敵を落として進撃。大和田を取る。池田玄隆(利隆)・忠政・備中庭瀬城主戸川達安等も中島に進む。また、有馬豊氏も吹田より中島に進む[実録5、史料12-15]。
☆11.25 忠政軍、仙波口より豊臣軍を攻撃す。翌日晩まで鉄砲せり合いあり。忠政軍に戦死・負傷者出る[実録5]。
☆11.26 夜、忠政家中、伊藤喜左衛門・安藤甚左衛門をして天満川を越え、標木を立てしむ[実録5]。
☆11.27 午刻、忠政、軍法に背き小姓等を連れて戦場を視察するも、大坂城中より鉄砲を撃ちかけらる。忠政、幕府使番城織部の制止により陣に戻る[実録5]。
☆11.30 幕府上使水野日向守、忠政の陣へ赴き川越延引を叱る[実録5]。
☆12.朔 朝、池田玄隆(利隆)・池田忠継・忠政、有馬豊氏等、進んで天満に入る[実録5、史料12-16、史料12-20、大系図、寛永、寛政]。是日、仙波口の忠政、加藤嘉明と陣替す。忠政は大仁村八間屋の辺へ移る[実録5]。
☆12.3 徳川家康、本多正純に命じ諸軍を巡視せしめ、池田忠継・忠政をして船場に陣せしむ[史料12-16]。
☆12.24 御?の祝として忠政、徳川家康・秀忠陣所へ参る[実録5]。
☆是歳 忠政、江戸城石垣普請御手伝を勤む[実録5]。
忠政(45)
旗本他 ☆ 旗本森筑後守可澄(左兵衛家)、大坂冬の陣に従軍す[寛政]。
慶長20
元和元

★7.13  改元
1615 乙卯 後水尾 秀忠 津山 ☆2.23 備前岡山城主池田忠継卒す(17歳)。法名「竜峯院殿雲台元祥大居士」〔実録6〕。徳川家康、兄池田玄隆(利隆)及び忠政(忠継岳父)に備前の仕置を命ず〔史料12-17〕。
☆4.4 徳川家康、駿府出陣〔実録6〕。
☆4.5 忠政、津山出陣。大坂仙波口に陣取る。留守居は対馬守可政〔実録6〕。
☆4.10 徳川秀忠、江戸出陣〔実録6〕。
☆4.14 在美作の忠政、安藤対馬守重信に大坂出陣を問い合わせる〔実録5〕。
☆4.21 徳川秀忠、伏見着〔実録6〕。
☆5.朔 忠政、近江多賀明神へ大坂陣無事の願文を奉ず〔実録6〕。
☆5.6 八尾・道明寺の合戦〔実録6〕。申下刻、徳川家康、忠政へ手薄の矢尾口へ廻るよう命ず〔実録6〕。
☆5.7 忠政、大坂夏の陣に参戦、仙波口に陣して敵の首級208級を得る〔実録6、大系図、寛永、寛政〕。晩、忠政、小出与右衛門をして森可春討取の布施屋飛騨等敵首200余を天王寺の本陣に持参せしむ〔実録6〕。これより先、美作誕生寺住持澤誉、陣場に使僧中之坊文徴を遣わし忠政へ杉原を贈る。是日、忠政、これを謝す〔美作誕生寺文書、実録6〕。これより先、美作本山寺住持真如院も久保坊・南坊を使僧として忠政へ陣中見舞す〔実録6〕。
☆5.7 大坂城落城〔実録6〕。
☆5.27 森采女可春(采女家)、大坂の陣に際して上本町にて布施屋飛騨を討取し功により忠政より500石加増される〔可政〕。
☆12.6 忠政家臣関民部少輔成次妻於郷(忠政女)、美作にて卒す(21歳)。法名「溪花院殿春岳宗永大姉」(三玄院の位牌には「永甫宗劫禅定尼」とあり)、墓所津山神王山溪花院〔実録6、大系図〕。
☆是歳 忠政嫡男忠廣、はじめて将軍秀忠に拝謁す〔大系図、寛政〕。忠政、辰田与兵衛をして原小一郎を1500石にて帰参せしむ〔実録6〕。忠政、幕府へ美作領内にはキリシタンが居ない旨を報告す〔日本切支丹宗門史〕。
忠政(46)
旗本他 ☆是歳 旗本森筑後守可澄(左兵衛家)、大坂夏の陣に従軍す〔寛政〕。
元和2 1616 丙辰 後水尾 秀忠 津山 ☆2 池田忠継死去により忠継室菊(忠政女)、実家に戻る。のち鳥居忠恒に嫁す〔大系図〕。
☆4.17 徳川家康、駿府城に於いて死去(75歳)〔実録6〕。
☆8 忠政、家中へ「大坂陣中善打入之誓詞」提出を命ず。加増・処罰の者あり〔実録6〕。
☆11 忠政、上笠茂兵衛・坂井助左衛門をして家康位牌を美作来迎寺に安置せいむ〔実録6〕。
☆是歳 忠政、徳川家康より愛染國俊の脇差・青木肩衝の茶壺・銀つくりの鉄砲2挺を拝領す〔寛政−慶長8年説あり〕。
忠政(47)
旗本他 ☆是歳 旗本森筑後守可澄(左兵衛家)の嫡男左兵衛(可久)、駿河府中に於いて誕生す[可政]。
元和3 1617 丁巳 後水尾 秀忠 津山 ☆是春 津山城南西に武士町出来。南新座町と称す〔実録6〕。
☆5.26 徳川秀忠、忠政へ津山18万6500石の判物・領知目録を発給す〔寛政・寛文印知集・実録6〕。
☆12.27 忠政、各務五左衛門へ知行100石を与える〔津山郷土博物館文書〕。
☆是歳 忠政、秀忠より北澗の墨跡・新藤五の脇差を拝領す〔寛政〕。
忠政(48)
旗本他 ☆5.26 旗本森伊豆守重政(次郎家)・旗本森筑後守可澄(左兵衛家)も采地の御朱印を拝領す[寛政]。
☆是歳 旗本森伊豆守重政嫡男次郎兵衛重継(次郎家)、西丸御書院番となる[可政、寛政]。
元和4 1618 戊午 後水尾 秀忠 津山 ☆ 6.5 忠政長男大膳亮重政、美作苫南郡真経村に於いて死去す(26歳)。法名「瑞應院殿桂林俊芳大禅定門」、同所新原谷槙尾畝に葬る(のち作州久米郡誕生寺へ改葬)〔実録5・6、大系図、寛政〕。 忠政(49)
旗本他
元和5 1619 己未 後水尾 秀忠 津山 ☆3 江戸出府中の諸大名に帰国を許さる。忠政も帰国を許される〔細川1-187〕。
☆6.9 忠政、広島城主福島正則改易につき松平(池田)新太郎光政・松平宮内少輔・本多美濃守・池田備中守等と共に広島城請取を命ぜられる〔実録6〕。忠政、執政の對馬守可政へ広島城出陣下命を報ず〔実録6、可政〕。
☆6.10 忠政、江戸を発す〔実録6〕。
☆6.22 忠政、津山着〔実録6〕。
☆6.24 忠政、出陣す。真島郡鹿田に一宿す〔実録6〕。
☆6.25 津山藩勢、備中中津井に勢揃す〔実録6〕。
忠政(50)
旗本他
元和6 1620 庚申 後水尾 秀忠 津山 ☆是歳 忠政、大坂城普請手伝を勤む。この普請場にて森家足軽と田中筑後守吉成家来口論す[実録6]。 忠政(51)
旗本他 ☆是歳 旗本森筑後守可澄(左兵衛家)次男宗兵衛三信(のち采女家養子)誕生す[可政]。
元和7 1621 辛酉 後水尾 秀忠 津山 ☆正.28 本願寺准如上人、可成室妙向尼画像に賛す〔実録3〕。
☆6.25 大和郡山城主松平忠明・備前岡山城主池田忠雄・森忠政、江戸を発して国に帰る。是日、忠雄・忠政共に物を秀忠に献上す。秀忠、年寄をしてこれに答える〔史料12-38、史料12-48〕。
☆7 忠政女菊(もと池田忠継室)、鳥居左京亮忠恒へ嫁す為、津山を発す〔実録6〕。
☆9.24 佐竹義宣(久保田城主)、鷹おさえをしない宗忠政へ許可を得たので、鷹場の鷹遣につき家臣達に指示を与える〔梅津5〕。
忠政(52)
旗本他
元和8 1622 壬戌 後水尾 秀忠 津山 ☆3.16 忠政、各務五左衛門へ30石を加増す〔津山郷土博物館文書〕。
☆4.9 忠政、参勤す〔梅津5〕。
☆4.16 忠政姉寶泉院(於梅・木下俊勝室)、京都村雲屋敷に於いて卒す。法名「寶泉院殿桂岩宗昌大姉」、墓所大徳寺三玄院[実録3、大系図]。
忠政(53)
旗本他 ☆是歳 旗本森伊豆守重政(次郎家)、御使番を勤む[可政]。
元和9 1623 癸亥 後水尾 秀忠
家光
津山 ☆6.16 津山藩執政森對馬守可政(可成弟・忠政叔父)、津山に於いて死す(64または63歳)、法名「竹林院殿前對州大守普隠賢公大居士」、京都東山建仁寺の常光院に葬る[可政、大系図、寛政]。 忠政(54)
旗本他
元和末年 ☆忠政家臣大条丈八郎、森家を退身す[実録6]。
元和10
寛永元

★2.30  改元
1624 甲子 後水尾 家光 津山 ☆正.2 忠政嫡子忠廣、伊達政宗(仙台城主)・佐竹義宣(久保田城主)・上杉定勝(米沢城主)・毛利秀元(長府)等、江戸城西丸の家光のもとへ伺候す〔梅津5〕。
☆是春 越前松平忠直改易につき忠政、万一の備として家中指物などを改む[実録6]。
☆4.19 忠政、家臣浅田次郎右衛門へ越前の儀につき出陣の用意等を心得るよう命ず[実録6]。
☆是春 忠政女婿本多能登守忠義、津山に参る[実録6]。
☆11.上 忠政、忠廣結納の使者として家臣伴氏を松平(前田)利常の許へ遣わす。伴氏、利常より了戒の刀を賜る[実録5]。
☆是歳 忠政、大坂城石垣普請御手伝を勤む[実録6]。
忠政(55)
旗本他
寛永2 1625 乙丑 後水尾 家光 津山 ☆11.15 伊達政宗(仙台城主)、殿中にて忠政嫡子忠廣と会う。のち政宗、忠廣に19日に待つ旨を報ず〔政宗君記録引証記30下〕。
☆11.18 伊達政宗(仙台城主)、忠政嫡子忠廣に明朝待つ旨を報ず〔政宗君記録引証記30下〕。
忠政(56)
旗本他
寛永3 1626 丙寅 後水尾 家光 津山 ☆ 正.23 松平(前田)肥前守利常女亀鶴姫を秀忠養女として忠政嫡男忠廣に嫁せしめらる旨仰出らる〔寛政、大系図には24日〕。
☆ 正.24 松平(前田)肥前守利常女亀鶴姫を秀忠養女として忠政嫡男忠廣に嫁せしめらる旨仰出らる(「寛政」には23日)。森采女可春(采女家)、貝桶受取となる。御礼の使者吉原安左衛門〔実録6、可政、大系図〕。
☆是歳 将軍家光上洛につき忠政供奉す〔寛政〕。☆8.19 忠政、天皇二条城行幸に当たり従四位上に叙し、左近衛権中将に任ぜらる〔梅津6、実録6、大系図、寛永、寛政〕。忠政嫡男忠廣、従四位下に叙位す〔大系図、寛永、寛政〕。
☆8.22 夜中、佐竹義宣(久保田城主)家臣岡半右衛門、義宣家老梅津政景の許へ此度の諸大名叙位の書立わ差し越す。忠政は中将とのこと〔梅津6〕。
☆8.27 諸大名、将軍家光の右大臣任官を賀すため、淀城に出仕す〔梅津6〕。
☆9.3 佐竹義宣(久保田城主)家老梅津政景日記に二条城行幸奉迎の供とした忠政の名あり〔梅津6〕。
☆9.6 家光、主上等奉迎のため参内す。忠政供奉す〔梅津6〕。
☆10.5 忠政、伊達政宗(仙台城主)へ書状を以て諸白大樽5を贈る。政宗、忠政へ礼状を出す〔政宗君記録引証記30下、伊達治家記録32〕。
☆11 大御所秀忠養女(前田利常女)、忠政嫡男忠廣忠廣へ入輿。土井大炊頭利勝・酒井讃岐守忠勝、輿貝桶の役を勤む〔寛政〕。忠政嫡男忠廣、営中に於いて将軍家光より鉈切長光の刀・當麻國行の脇差を賜る〔実録6、大系図、寛政〕。
☆12.16 忠政、津山龍雲寺(のちの本源寺)に寺領100石を寄進す〔美作本源寺文書〕。
☆是歳 忠政、将軍家より北澗墨跡・新藤五脇差を拝領す〔実録6〕。
忠政(57)
旗本他 ☆是歳 徳川秀忠上洛につき旗本森對馬守重政(對馬守可政嫡男・次郎家)供奉す[寛政]。
 徳川家光上洛につき旗本森左兵衛佐可政(左兵衛家)供奉す[寛政]。
寛永4 1627 丁卯 後水尾 家光 津山 ☆3.15 木下勝俊女「お梅」(母は可成女寶泉院)、死去(17歳)。法名「春光院殿萬華紹上大姉」〔実録3〕。
☆3 忠政、美作国中知行物成を四ツ秤とする〔実録6〕。
☆4.14 作州内山下屋敷にて忠政養母大野木殿(柴田勝家女・塙直政室)、死去す。法名「生光院殿心誉祖栄大姉」、墓所誕生寺〔実録6〕。
☆6.17 可成女子で関小十郎右衛門共成室、美作津山に於いて卒す。法名「碧松院殿岑月宗高大禅定尼」、津山東海山龍雲寺(のちの本源寺)に葬る〔実録3、大系図〕。
☆9.4 忠政、細川三斎(忠興)の所へ参る。三斎、来る14日の自邸の能に忠政を招く〔細川2-574〕。
☆9.5 細川三斎(忠興)、嫡子忠利へ忠政を能へ招いた旨を報ず〔細川2-574〕。
☆10.4 細川三斎(忠興)、浅野長晟(広島城主)・忠政・杉原長房(豊岡邑主)・平野長泰(寄合)を15日の茶会に招く〔細川2-580〕。
忠政(58)
旗本他 ☆是歳 旗本森左兵衛佐可政(左兵衛家)嫡男九一郎可久、はじめて大御所秀忠に拝謁す[寛永、可政、寛政]。
寛永5 1628 戊辰 後水尾 家光 津山 ☆7.14 江戸城に於いて御能有り。忠政拝見す。この時、地震あれども忠政動ぜず〔実録6〕。
☆11.29 忠政、美作豊楽寺に寺領10石を寄進す〔美作豊楽寺文書〕。
☆是歳 忠政、美作鶴山八幡宮に社領20石を寄進す〔実録5〕。
忠政(59)
旗本他
寛永6 1629 己巳 後水尾
明正
家光 津山 ☆4.26 忠政嫡男忠廣、前田利常邸に於いて将軍家光より板橋辺に鷹場を賜り、忠廣室(利常女)は白銀200枚・巻物20巻拝領す〔大系図、寛政〕。
☆4.29 大御所秀忠、前田利常邸に御成。忠廣室(利常女)、秀忠より真紅30斤・白銀200枚を拝領す〔大系図〕。
忠政(60)
旗本他
寛永7 1630 庚午 明正 家光 津山 ☆8.4 忠政嫡男忠廣室徳川氏亀鶴姫、逝去す(18歳)。法名「浩妙院殿天惣日眞大姉」、池上本門寺に葬られる〔梅津7、史料綜覧12、大系図、加賀藩史料、寛政〕。忠廣室死去につき佐竹義宣(久保田城主)・義隆父子、江戸城本丸及び西丸に出仕す〔梅津7〕。
☆10.3 明朝西丸にて御数寄につき佐竹義宣(久保田城主)、小出與右衛門を頼んで忠政に使す。直に返事有り〔梅津7〕。
☆10.4 大御所秀忠、佐竹義宣を数寄に招く。相客伊達政宗・島津家久・忠政・上杉定勝〔梅津7〕。
☆11.8 家光、佐竹義宣(久保田城主)を明朝の数寄に招く。義宣家老梅津政景相客の伊達政宗・島津家久・忠政・上杉定勝にこのことを報ず〔梅津7〕。
☆11.9 佐竹義宣(久保田城主)、将軍家光より茶に招かれる〔梅津7〕。
忠政(61)


旗本他 ☆6.23 老中酒井忠勝・土井利勝・酒井忠世、旗本重政へ肥後の動静等を報ず〔可政〕。
☆是歳 旗本森伊豆守重政(次郎家)、将軍家光に拝謁す〔可政〕。
寛永8 1631 辛未 明正 家光 津山 ☆正.19 大御所秀忠、島津家久・池田忠雄・忠政・毛利秀就・細川忠利・伊達忠宗を来たる21日の茶会に招く〔細川家文書〕。
☆正.21 朝、大御所秀忠、江戸城西の丸に於いて茶会を催す。忠政ら諸大名参る〔東武実録、徳川2〕。
☆正.22 朝、大御所秀忠、江戸城山里に於いて茶会を催す。忠政・京極高広・蜂須賀忠英・山内忠義・堀尾忠晴・寺澤広高ら諸大名参る〔徳川2〕。
☆2.2 将軍家光、島津家久・池田忠雄・忠政・毛利秀就・細川忠利・伊達忠宗を明3日の茶会に招く〔細川家文書〕。
☆2.3 朝、将軍家光、江戸城本丸に於いて茶会を催す。忠政ら諸大名参る〔徳川2〕。
☆2.4 朝、将軍家光、茶会を催す。忠政・京極高広・蜂須賀忠英・山内忠義・堀尾忠晴・寺澤広高ら諸大名参る〔徳川2〕。
☆是歳 肥後熊本城主加藤忠広改易につき忠政、城受取の稲葉丹後守正勝へ森田又兵衛をして合力を申し出るも無用の沙汰となる〔実録6〕。
忠政(62)
旗本他 ☆3.25 旗本森左兵衛可澄(左兵衛家)、従五位下筑後守に叙任す[寛永、寛政]。
☆是歳 旗本森對馬守重政(次郎家)、御使番となる[寛永、寛政]。
寛永9 1632 壬申 明正 家光 津山 ☆正.24 大御所秀忠薨去につき、忠政、遺物として白銀5000枚を拝領す〔実録6、大系図〕。
☆7.24 忠政、増上寺台徳院霊廟に石燈籠両基を奉献す〔足利龍泉寺森忠政寄進石燈籠銘文〕。
☆8.12 細川忠利、森家江戸屋敷来訪。森家家臣近藤勘右衛門・長兵衛正次の武功を咄す〔実録6〕。
☆是歳 忠政、池田備中守長幸宅へ参る〔実録6〕。
忠政(63)
旗本他 ☆正.25 永井尚政・酒井忠勝・土井利勝・酒井忠世、旗本森重政(次郎家)へ昨日大御所秀忠薨去を報ず[可政]。
☆是歳 旗本森左兵衛佐可政(可政分家)嫡男九一郎可久、将軍家光に拝謁す[寛永]。
寛永10 1633 癸酉 明正 家光 津山 ☆正.15 夜、忠政家臣関成次長男兵助、霊夢により名を「家継」と改める〔実録7〕。
☆正.16 忠政家臣関成次長男兵助家継、霊夢を見るも父成次は悪夢と申す〔実録7〕。
☆8.22 忠政嫡男忠廣、死去す(30歳)。法名「顕徳院殿光甫宗本大禅定門」、江戸下谷圓満山廣徳寺に葬られる〔『細川』5-1143、大系図、寛永、寛政〕。
☆ 8.24 森忠廣死去につき将軍家光、阿部豊後守忠秋をして忠政を弔問せしむ〔寛政〕。
☆9.6 細川三斎(忠興)、子の越中守忠利(熊本藩主)に森忠廣死去等を報ず〔『細川』5-1143〕。
☆12.28 忠政養子兵助家継(長継)、従五位下に叙し、内記と称す〔寛政〕。
☆是歳 幕府より忠政へ出雲・石見・隠岐(堀尾山城守跡)拝領の内意あり。忠政、野呂彦助等出雲浪人を召し抱える〔実録6〕。
☆是歳 忠政家臣関成次の子兵助家継(忠政外孫・のちの長継)、忠政養子となる〔寛政〕。
忠政(64)
旗本他 ☆ 5.7 旗本森對馬守重政(次郎家)、死す(53歳)、法名「祥鳳院殿前對州大守本光宗瑞居士」、谷中瑞應山南泉寺に葬る〔可政、寛永、寛政〕。
☆5 旗本森對馬守重政(次郎家)嫡子治郎兵衛重継、父の遺跡を継ぐ〔寛政〕。
☆7.11 旗本森重政(次郎家)室紀伊(各務兵庫元正女)、死去。法名「箭室妙智信尼」〔可政〕。
寛永11 1634 甲戌 明正 家光 津山 ☆正 忠政、将軍家光上洛につき供奉を命ぜられる〔大系図〕。
☆2.4 忠政養子兵助家継(長継)、津山を発駕〔実録7〕。
☆2.6 忠政養子兵助家継(長継)、播磨飾西まで到達のところ忠政より津山へ帰着すべしとの飛脚参るも、そのまま江戸へ向かう〔実録7〕。
☆2.20 忠政養子兵助家継(長継)、江戸着。茅町伊勢屋に滞在す〔実録7〕。
☆3.7 将軍家光、来たる9日の茶会に前田利常・島津家久・忠政・毛利秀就・細川忠利・伊達忠宗を招く〔細川家文書〕。
☆3.9 朝、将軍家光、茶会を催す。忠政ら諸大名参る〔徳川2〕。
☆3.15 忠政養子家継(養子)、はじめて将軍家光に拝謁し内記長継(以後長継と記載)と称す〔実録7、寛政〕。
☆4.18 長継付の侍として15名が津山を出立す〔実録7〕。
☆5.朔 長継付侍、江戸着〔実録7〕。
☆5上旬 忠政、江戸発駕〔実録6〕。
☆5中旬 忠政、津山に帰国〔実録6〕。
☆6.26 来る7月11日将軍家光上洛につき忠政、津山を発す〔実録6〕。
☆7.朔 忠政、上洛し、京都小川通妙顕寺(法華宗)を宿とす〔実録6、大系図〕。
☆7.5 忠政、発病す(「大系図」等には6日、大文字屋宗味宅にて発病とあり)〔松井 〕。
☆7.6 細川三斎(忠興)、子の越中守忠利(熊本藩主)に森忠政重病等を報ず〔細川5-1203〕。
☆ 7.7 忠政死す(65歳)。法名「本源院殿前作州太守羽林中郎先翁宗進大居士」、京都紫野大徳寺塔頭三玄院に葬られる〔細川5-1204、史料綜覧12、実録6、大系図、寛永、寛政〕。森家家臣伴半之丞、忠政の死を江戸の長継へ注進のため発足す[実録6]。のち遺物として愛染國俊小脇差・青木肩衝・北澗墨跡を将軍家に献上される〔大系図〕。細川三斎(忠興)、子忠利(熊本藩主)に忠政死去等を報ず〔細川5-1204〕。

☆7.12 
☆7.16 老中酒井忠勝、森家留守居近藤吉兵衛・平井半左衛門を呼び出し、忠政死去につき、長継上洛を命ず〔実録7〕。
☆7.19 長継、申上刻、江戸発。急ぎ京都へ向かう〔実録7〕。
☆7 家臣関成次次男式部長政(長継実弟)、京都二条城に於いてはじめて将軍家光に拝謁す〔寛政〕。
☆8.朔 幕府より長継へ明朝二条城へ登城するようにとの差紙到来〔実録7〕。
☆8.2 長継、二条城に於いて将軍家光より忠政遺領を賜る。長継、将軍家光へ襲封を謝す。このとき家臣7人(森可春・関成次・大塚主膳等)も拝謁す。また、領国へ行く暇も賜る〔実録7、大系図、寛永、寛政〕。
☆8.4 将軍家光、長継へ養父忠政遺領安堵の判物を発給す〔寛文印知集〕。
☆8.8 長継、二条城へ登城。領地の判物を頂戴す〔実録7〕。
☆9 〔実録7〕。
忠政(65)
長継(25)
旗本他 ☆是歳 将軍家光上洛につき旗本森左兵衛佐(左兵衛家)供奉す〔寛政〕。