----- ファム・ファタールと羊の夢


   >>> 13



 どのくらい経ったのだろうか。
 扉が静かに開いた。こつこつと響く足音は、先ほどと比べて随分と軽い。
 リュウザキは首を動かして、その音を立てる主を見た。白いふんわりとした服に身を包み、足元はやはり白のローヒール。無表情で静かにリュウザキの元へ近付いてくるのは紛れもなくネリネだった。
 リュウザキはネリネが無事なことを知ると安堵した。そしてネリネの格好をまじまじと見た。
 ゴトウはやはり何も分かってない、と彼は内心呆れつつもほくそ笑んだ。ネリネに白を着せるならもっとすっきりとした大人っぽいデザインが似合う。靴だってヒールがある方が足が綺麗に見える。ネリネはゴトウが思い描き続けた『キミコ』よりもずっと魅惑的だ。それはあの体を、あの声を知れば誰もが思い知る。ゴトウはまだ本当のネリネを知らないままなのだろう。
 どんなロボットよりも人間の男を惑わすファム・ファタール、それがネリネだ。
 リュウザキはぼんやりとネリネを見つめた。ふと、ネリネが手にしている物を見て、彼はゴトウの言葉の意味を悟った。鈍く光るそれは仕事の相棒、ネリネの額に突きつけた自分の銃だ。
 体中がみしみしと音を立てているようで、リュウザキは苦痛で喘ぎながら上半身を起こした。ネリネは目の前にすっとしゃがみ込んで真っ直ぐリュウザキを見つめた。
「私はあなたを殺します。いいですか?」
 頬に手を当てて、覗き込むようにしてリュウザキを見つめてくるその瞳には、何も映ってはいない。
 リュウザキはごくりと息を飲んだ。
 俺はこんな目でこいつを、世界を見ていたのだろうか。
「私はあなたを殺します。いいですか?」
「いいわけないだろう」 
 ようやくリュウザキは答えた。ネリネは腑に落ちないように小首を傾げた。
「お前は誰だ?」
「クラハシキミコです」
 ああ、とリュウザキは呟いた。やはりゴトウはネリネを消し去ってしまったのか。
「ここはどこだ?」
「国立東京第五病院の地下です」
「なぜゴトウは俺をここへ連れてきた?」
「ここなら死体があっても問題はないからです」
「なぜだ?」
「死体解剖室だからです」
 リュウザキはその言葉にひやりとして金属のテーブルを見た。
「まだ新しいでしょう? ここの病院で死亡者が出ることは殆ど無いから、誰もここへは来ないそうです。だから彼はあなたをここへ連れてきたのです」
「怪我はなかったか?」
「怪我? 誰が怪我を?」
「分からなければ別にいい」
 リュウザキは溜息をついてうつむいた。しばらく彼はようやく閉ざしていた口を再び開いた。
「俺は誰だ?」
「REAの職員です」
 淡々とネリネは答え、リュウザキはそれを聞いてふっと息を漏らした。ネリネの中にリュウザキについての記憶は残されていないようだった。
 以前の彼なら何とも思わなかっただろう。それでも構わないと言えば、今は嘘になる。
 どうかしている、相手はもう主人に操られるままの機械なのに。
 そう思いながらリュウザキはさらに問い続ける。
「お前に与えられた仕事は?」
「あなたを殺すことです」
 感情などおくびにも出さずネリネは銃を持ち上げた。
 確かに、リュウザキの心は痛んだ。その点に関してのゴトウの予測は正しい。
「お前はあの時、何を言おうとした?」
「あの時……?」
 リュウザキは自嘲気味に笑った。
「もういい……」
 リュウザキは左手でネリネの頬に触れた。ひんやりとした肌。まるでロボットのように生気の感じられない、滑らかな感触。
 ……ああ、こいつはロボットだった。 
 リュウザキはそう思い直すと、やんわりと目を細めてネリネを見つめた。
「本来のお前はこうあるべきだったんだ。じゃなければ俺も迷いはしなかった」
 そう言うとリュウザキはネリネにそっと口付けた。
 そこで初めてネリネは戸惑いの表情を見せた。
「いいさ。所詮思い残すことなんか何もない」
 またするりとネリネの頬を撫で、体を壁に預けると、リュウザキはその身をネリネに投げ出すように目を閉じた。
「私はあなたを……」
「構わない。俺もお前も、命令に従うだけだ。そうだろう?」
 ネリネがぎこちなく銃を構えた。リュウザキはその気配を感じた。銃口が額に押し当てられる。リュウザキは、その衝撃に備えるように大きく息をすると止めた。目を閉じたまま、待つ。もはやネリネになら殺されても本望だと思い始めていた。

 あの時、迷わず引き金を引いていたら今頃どうなっていたんだろう?

 だが、後悔はしていなかった。
 この体に絶え間なく襲いかかる痛みが消えるのならば、それはそれでいいことなのかもしれない。それをネリネが消してくれるのならば。
 いつまでたっても何も変化がないことに、リュウザキは吸い込んだ息をゆっくりと吐くと、訝しげに目を開けた。
 ネリネは微かに震えていた。口を固く閉じて、必死に何かに耐えているように見えた。
「どうした? こっちは丸腰の上に、ゴトウに散々痛めつけられてるから抵抗もできない。何を躊躇うことがある?」
「分かりません」
 ネリネは小さく唸ると、頭を押さえるようにしながらうずくまった。
「頭の中が、何かが邪魔をして、混乱して、手が動かないのです」
「バグは治ったんじゃないのか?」
 ネリネは首を横に振った。
「やめて……、違う、殺さないで、……これは命令です。ああ、もう構わないで」
 うずくまりながら、銃を構えようとする右手を、左手が押さえようとしている。まるで一人芝居をしているようにリュウザキには見えた。
「……ネリネ?」
 思わずそう呼ぶと、ネリネはハッとしたように顔を上げた。
「出来ません、私には出来ません。あなたを殺すようなことは」
「ネリネなのか?」
 ネリネの目から涙がするりと流れ落ちた。
「でも、止められないのです。体が、言うことを聞かないのです」
「俺のことなら、もういい」
「駄目です。お願い」
 そう言うと、ネリネはリュウザキに縋り付いた。リュウザキの鼻先に、ふわりとネリネの匂いが漂った。
「あなたを殺してしまう前に、私を殺して下さい」
 耳元でネリネは振り絞るように声を上げた。
 リュウザキはネリネの背中を抱いた。震える体をいたわるように、そっと撫でた。それに反応して、ネリネは声を押し殺しながら泣き出した。
「お前はあの時、何を言おうとした?」
 再び問いかける。
「……私はただあなたと、一緒にいたいだけでした」
 泣きじゃくりながらネリネは呟いた。そうか、とリュウザキは静かに答えた。
「銃を、貸してみろ」
 ネリネはリュウザキから体を離すと、渡すまいと押しとどめようとする右手から、もぎ取るようにして銃をリュウザキに手渡した。
「今回の任務での、俺の見解を言おうか?」
 リュウザキはネリネの瞳を真っ直ぐ見つめた。その瞳には、自分の姿が映っている。
「お前はロボットじゃない」
 その瞬間、ネリネは微笑んだ。リュウザキの言葉を噛みしめるように頷くネリネの目から、再び涙が頬を伝い落ちた。
 ネリネはロボットじゃない。プログラムでもされていない限り、ロボットが自ら自傷行為に走るなどということはありえない。ましてや殺してくれと懇願するような真似などロボットが出来るはずもない。
 ネリネはロボットじゃない。
 リュウザキは心の中で何度も呟く。
 なのになぜ自分は銃を向けなくてはいけないのだろう?
 リュウザキは左手でぎこちなく銃を構えると、ネリネは目を閉じた。
「何をしている!!」
 リュウザキはドアへ目を向けた。ゴトウが唖然としたように立ちつくしている。その顔から血の気が引いていたが、おそらくリュウザキが殺されていると信じて疑っていなかったのだろう。
「アンタのプログラムにはバグが多すぎるな」
「やめろ、撃つな!」
 ゴトウが駆け寄ろうとした瞬間、今度は迷うことなくネリネの額を撃った。ネリネの体はあっけなく床に倒れた。合間に悲痛なゴトウの叫び声が響く。胸にもう一度。また悲鳴。そして腹にもう一度。
 ゴトウが再び彼女の体に触れることが出来ないように。
 その体の感触、声、見つめる瞳からこぼれ落ちる涙。全てを自分だけのものにして記憶に留めておく。誰にも触れさせないように。
 本当のネリネをゴトウには教えない。味わせない。
 ネリネが身に付けていたワンピースが赤く染まっていく。倒れた体からは鮮やかな血が流れ出し、それはわずかな床の傾斜に沿って排水溝へ吸い込まれていった。
 ネリネは赤が一番似合う。
 ふいにリュウザキはそんなことを思った。初めてネリネを目の当たりにしたときも、赤い服を着ていた。本当はあの時から狂わされ始めていたのではないだろうか?
 だがそれも全て終わってしまった。
 リュウザキの瞳から光が消えた。鉛のようなどんよりとした瞳。
 銃をしまうと、ゆっくりと立ち上がる。
 ゴトウに銃を突きつけてみるが、変わり果てたネリネを見つめたまま茫然と床に崩れ落ち、リュウザキに目もくれていない。 
 ドアに鍵は掛かっていなかった。
 リュウザキは部屋を出る前に横たわるネリネをもう一度見つめた。
「あの時こうしていれば、苦しまずに済んだのにな、お互いに」
 ぽつりとそう呟いてドアを閉めると、彼は体を引きずるようにしてひと気のない廊下を歩き出した。


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