----- ファム・ファタールと羊の夢


   >>> 7



 男がすうっと息を吸い込んだ瞬間、閉じられていたネリネの目がゆっくりと開いた。
 初めは寝ぼけてぼんやりしている瞳が、目の前に向けられている物に焦点が合うと、大きく見開かれた。
 お互い、凍り付いたように息をひそめる。
 どのくらい時が過ぎただろうか。あるいは一分も経っていないのかもしれない。
「私をこの場で殺すのですか」
 声にならないほど小さくネリネが問いかける。男はごくりと喉を鳴らしただけだった。
 ネリネは男の目をじっと見つめる。大きく息を吸い込むと、覚悟を決めたのかネリネは目を閉じた。それと同時に、こめかみの横を涙の粒が転がり落ちる。
 男は顔をしかめた。
 微かにネリネが震えているのが分かる。
 こつ、とネリネの額に銃口が当たった。
 眉間にしわを寄せて男はネリネを見下ろしていたが、やがてゆっくりと顔をネリネに近づけ始めた。
 ネリネに心臓の音はあるのだろうか。
 一瞬、そんなことを考えて、間近にネリネの顔を見る。
 男は銃を額から離した。
 それから。

 唇をネリネのそれに押しつけた。

 ネリネはぴくりと体を揺らした。
 男には予想通りの感触。
 ネリネには予想外の展開。
 深く口づけ始めるとともに、男の体がネリネにのしかかってくる。ネリネは男の体を引き剥がそうと腕を引き上げたが、手はいつの間にか男の胸元を、引き寄せるように掴んでいた。
 なぜ、そうしてしまったのかネリネには分からない。
 男の手がネリネの体に触れたとき、ネリネの瞼の裏でちりっと何かが火花を放った。だが、それは不快なものではなかった。
 ひたすら甘く、誘うように香しく、そしてそのまま引きずられる。
 禁断の果実にかじりついたときの心境はこんなものなのだろう。
 男にとっては久しく忘れていた行為。
 滑らかなネリネの体は白く、艶やかで男を魅了する。熱に浮かされたように、男はその体に口づける。その度にネリネは息を漏らした。
 ゴトウとネリネの間には何も無かったことはすぐに分かった。男がネリネの初めての相手だった。その証すら、人間と何ら変わりが無くて男はめまいが起きそうだった。
 本当は人間なのかもしれない。
 抱きながら、何度も男にそんな希望が飛び交う。
 行為の最中、ふっとお互いの目が合った。息を弾ませながら、ネリネがそっと男の頬を両手で挟んだ。
「こんなに近くで見ても、あなたの目は私を映してはいないのですね」
 ネリネが寂しそうに笑った。
 男は何も答えずにネリネの唇を塞いだ。
 ネリネは求められるままに体を投げ出していた。
 なぜ男が自分を抱くのか、それについては考えるのをやめた。考えようとしても、男から与えられる快感で全て押し流されてしまう。
 ひとつだけ、確信したことがあった。 
 男はネリネが持っている物を持っていない。
 車の中からネリネを見上げながら微笑んでみせたあの顔は、作り物だ。何か感じたものを出したり仕舞ったりするような部分が、男には欠けているのだとネリネは気がついた。気配やクセを無くす訓練を受けた以前から、男にはそういう要素があったのかもしれない。本来なら、ネリネのような機械にはそれはないとされている。だが、備わっているはずの男にはそれがない。
 『心』が。
 ネリネの目から思わず涙がこぼれた。
 男は驚いて動きを止めた。
「……やめないで、続けて」
 男は黙ってネリネの涙を指で拭う。
「私たちには、お互い大切なものが欠けていますね」
「それは言うな」
 男は指先をネリネの唇に押し当てた。再び涙が溢れる。 
「もう、いいから。泣くな」
 ネリネは真っ直ぐ男の目を見た。
「名前を」
 唇に押し当てられた手を取る。
「あなたの名前を教えて下さい」
 躊躇した後、掠れた声で男が答えた。
「リュウザキ、……リュウザキタカヤ」
「リュウザキ、タカヤ」  
 ネリネは確かめるように繰り返した。
 シッと呟きながら、また男が指で唇を押さえる。
 まるで唱えてはいけない呪文のように、男はそれ以上はネリネに言わせなかった。

 ネリネは機械で、男はその機械を回収する役人。
 二人の間でそのことが抜け落ちていた頃、男がネリネのうなじに見つけた。直径5ミリほどのやけどの跡のような、一見、傷と見間違える部分。
 男の背中に針が刺さるような衝撃が走る。
 その部分に触れると、ネリネが弾かれたように体を強張らせた。
「そこは、触らないで」
「知っているのか」
「何を? 分からない。でも、触られたくない」
 ネリネは身を捩って逃れようとする。
 そうプログラムされているのか、ネリネがそう感じるのか。
 男はさらに確信を求めて、ホクロのように僅かに盛り上がったその部分に集中する。
「やめて、お願い」
 懇願するネリネを背後から抱きしめるように、男は動きを封じた。
 かさぶたを剥がすようにそっとめくると、ぷつりと微かな音を立てて、針のように小さな穴が二つ並んで覗いた。傷とは違う。その部分は、男が今まで対峙してきた相手に必ず見つかった。
 外部への入出力端子だった。
 ネリネが完全にロボットだと証明された瞬間、男は息を飲んだ。
「……私を、騙したのですか」
 ネリネの低い声が男の体に響く。
「確かめるために、こうして……」
「違う、そうじゃない」
 男はネリネの背中に額を押しつけた。叫び出しそうになるのをこらえ、強く抱きしめる。そうだと分かっていたのに、ショックが大きいのは行為の後だからだろうか。
 蔑んでいた相手に僅かでも溺れた反動。
 もしネリネがセクサロイドとして機能していたなら、男はその相手も一緒に片付けただろうと考える。だがそれは、嫉妬からくるものだとしても、恋愛感情とは違う。  
「違う……」
 男は自分に言い聞かせるように、ネリネを抱きしめる腕に力を入れた。
 騙されているのは自分かもしれない。
 例えそうだとしても、男にとってはもはやどうでもいいことだった。


*   *   *


 ネリネが目を覚ましたとき、部屋に男はいなかった。
 起きあがった拍子に何も身に付けていないことに気付き、ネリネは慌てて毛布を掴んで胸元まで引き寄せた。
 体のあちこちで、感触が残っている。頭に鈍い痛みを感じて、ネリネは顔をしかめた。毛布を体に巻き付けてベッドから抜け出すと、裸足のままひやりとした床を歩く。テーブルに置いてあるミネラルウォーターを飲みながら、部屋をぐるりと見渡してみるが、これといって何も変わってはいない。
 だが、ネリネは自分が変わった、と感じた。
 自分は人間ではないのだと認めざるを得なかった。うなじにそっと手を当てる。ほんの少し盛り上がった部分は、自分がロボットである証拠だった。
 男がその証拠を見つけた時、ネリネはこのまま殺されると思った。しかし、男は背中越しにネリネを抱きしめたまま、眠ってしまった。
 男が眠った後、ネリネは男が自分を抱いた理由をぐるぐると考え続けた。あの時、男は寝ているネリネの額に銃口を突きつけた。そこで殺されてもおかしくない状況だったにもかかわらず、そうしなかったのは確固たる証拠を見つけるためだったのだろうか。貪るように求めたのは、全て演技だったのだろうか。
 任務の為なら、男は何の躊躇いもなくロボットを抱くのだろうか。人間ではなく、機械なのだと罵り嘲った自分を。
 振り払っても湧いてくる疑問をぶつけたかったが、抱きしめる男の腕がなんだか自分にすがりついているようで、ネリネは男に尋ねることは出来なかった。苦しげに吐く息を背中に感じて身動きが取れなかった。
 ネリネは椅子に腰掛けると、背もたれに体を預けた。
 もしかしたら、気付いてはいけないことに気付いてしまったのだろうか。
 男がネリネにロボットだということを認識させたように、ネリネは男に『心』がないことを認識させてしまったのではないだろうか。
「リュウザキ、タカヤ」
 男の名前を呟いてみる。名前を呼ばせないのは、情が移るからだろうか。自分自身を物のように扱えば、『心』が無くても違和感はない。
 寂しい人だ、とネリネは思った。 
 とても寂しくて、哀しい人。
 男への恐怖心がすでに無いのと同様、この状況も苦痛ではなくなっていた。むしろ、このまま続いてもいいとさえ思っていた。どこかで期待すら抱いている。
 パソコンの画面で、ゆらゆらと波のように揺れている線画のスクリーンセーバーを見つめる。ちりちりとまた頭に痛みを感じてネリネは眉間に皺を寄せた。
 一瞬、視界から色が消えてモノクロになった。ちょうど店に取り付けられているような監視カメラの荒い画像に似ていたが、目を懲らそうとした瞬間に元に戻った。何度も瞬きをしたり、目をまぶたの上からぎゅっと押してみたりしたが、それきりだった。何事もなかったかのように目の前の光景を映し出してはいたが、何か自分のものではないような気がしてネリネは急速に不安感に包まれる。
 ほんの僅かな時間に、自分の目が映し出したモニター画面のような機械的な映像。それが何度もネリネの頭の中で再現されていくうちに、鼓動が激しくなった。
 今のは何? そう自分に問いかけて、いつかのゴトウの言葉が浮かんだ。
『やっぱり視覚神経の一部に障害があったか、補修しておこう』
 その会話をネリネが聞いていることに気がついた時の反応、そして、目の前が暗転したように突然視界が途切れたこと。
 さらにどくんと心臓が跳ね上がった。
 ゴトウの元へ定期的に通っていたのは、検査のためではない。機械の自分は、メンテナンスが必要だったのだ。
 先生は私を騙していた……?
 暖かみのある柔らかい笑みを浮かべながら、時おり眼鏡を押し上げてネリネを見つめるゴトウの顔が浮かんだ。だが、それはすぐに男の寂しげな笑みにすり替わった。
「リュウザキタカヤ」
 ネリネはもう一度呟いた。心臓がぎゅっと締め付けられるような、今まで体験したことのない感覚に襲われる。ネリネは床にくずおれた。またちりっと頭の中がスパークする。
 私はこのままどうかしてしまうんだろうか。
 男は、直接的にではなく、間接的にネリネを破壊しようとしているのだろうか。
 ネリネは肩で息をしながらうずくまる。
「私を狂わせて、姿をくらますなんて、酷い人」
 思わず口に出すと、さらに息苦しくなって、ネリネは目を閉じた。


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