----- 君たちは嘘つき


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 保苑幸(ほその ゆき)はひと気のない廊下を物憂げに歩いていた。
 教生としてこの高校に来る羽目になったのはいいが、なんだって全校生徒の前で、壇上に立って挨拶を始めようとした瞬間に倒れるやつがいるのか。
 しかも自分の面倒を見てくれる、社会科教師の神田のクラスの生徒だというのだから何とも妙な巡り合わせだ。
 さっさと連れて帰ろう。
 幸は保健室と書かれた文字を見つけ、目を細めると髪の毛を掻き上げた。


 その時、及川妃奈子(おいかわ ひなこ)が保健室で目を覚ました。
 小さく息を吐くとベッドの布団を引き上げて目を閉じる。
 こういう日に限って全校生徒がグラウンドに並んで行われる朝礼があったり、月のものが一番辛い日だったりする。まだ初夏とはいえ、照りつける日差しの中での直立不動は妃奈子の体力を奪うのには充分だった。
 寝返りを打つと黒い艶のある長い三つ編みが揺れる。時間を確かめようと腕を引き上げた。妃奈子の白くて細い腕には似つかわしくないメンズの腕時計が、一限目が終わる頃を指していた。
 そろそろ起きあがって教室に戻るべきか、とまだ重い頭で考えを巡らせていると、突然、軽快なノックの音とほぼ同時に入り口の開き戸が開く。
 妃奈子は思わず体を強張らせた。


「教生の保苑です。一年二組の及川妃奈子の様子を見てくるように、担任の神田先生から言われて来たんですが」
 幸は事務的に保健医にそう告げた。20代後半といった風情の彼女は、長身の若い男がやって来たことに少し驚いたような顔をしたがすぐ取り直す。
「いつもの貧血だから大丈夫だとは思うけど。もうそろそろ起きてくる頃かしら。及川さん起きてる?」
 カーテンのしきりの向こうから保健医に呼びかけられて、妃奈子が「はい」とかすれた声を上げた。カーテンの一部を開けて保健医がするりと入っていく。入り口の近くに所在なさげに立つ幸の耳に、起きあがれそう? などと話す声が聞こえた。カーテンの隙間から華奢な女の子の姿がちらりと見える。
 やがて保健医がさっとカーテンを開け放した。妃奈子は起きあがっていて、緩められた制服のブラウスのボタンを掛けながら、ベッドからすべり降りてきた。


 授業中の廊下はしんと静まり返っている。幸は妃奈子とともに歩いていた。
 間近で見る妃奈子は思ったよりも背が高い。色白に黒髪という対比が綺麗な顔をいっそう引き立てていた。まだ本調子ではないのか唇の赤みが薄い。
 時折、妃奈子が幸の歩幅についていけずに早足になるのに気付いて、幸は歩くスピードを落とした。お仕着せのようなぱりっとした濃色の細身のスーツのポケットに、落ち着かなくて手を突っ込む。タバコの匂いが幸の動きに合わせて空気に揺らぐ。それが漂うのか、妃奈子が鼻をくすんと鳴らす。
「このまま教室に連れていけばいいのかな?」
 幸は振り返ると妃奈子の方を見つめた。妃奈子は思わず距離を置く。
「…ああ、俺が壇上に立った途端にぶっ倒れてたから分かんないか。神田先生のところに付くことになった教生の保苑幸です。よろしく」
 妃奈子の動作を警戒と受け取り、幸は淡々と自己紹介をした。幸の声は幼さが残る顔立ちのわりに落ち着きのある低音だ。それが名前とのギャップをいっそう植え付ける。
「ゆき…?」
 妃奈子はなおも体を堅くしたまま思わず呟いた。
「そう。こんななりだけどね」
 よく言われます、と言いたげに幸は皮肉っぽく微かに口元を綻ばせた。
「あ、いえ、あの、別に深い意味は…」
 妃奈子が慌ててそう言うと同時にチャイムが鳴り始めた。幸はその音に注意を向ける。
「ちょうどいいや、一人で教室戻れるよね?」
 そういうと幸は妃奈子の返事も待たずに、さっさと神田の常駐している社会科準備室の方へ向かう。呆気にとられたように妃奈子はその後ろ姿を見送った。


「おおー、妃奈子お帰り。もう平気なの?」
「うん」
 教室に戻ると、妃奈子は真っ先に声を掛けてきた亜美(あみ)に向かって微かに微笑んで見せる。席に着くと前に座っていた子が目を輝かせながら振り返る。
「ねね、妃奈子ってばもうちょっと倒れるのが遅かったら良かったのに。神田のとこにつく教育実習生、超かっこいいよ」
「うん、知ってる」
「は? 知ってるって?」
 きょとんとして妃奈子を見るその子にのしかかるようにして別の子が口を挟んだ。妃奈子はさほど興味もなさそうに黒目がちの大きな目を伏せた。
「さっき保健室に迎えに来た」
「えええー。及川さん、超おいしいよそれって」
「イヤ、妃奈子にはおいしくないって」
「くそ、あたしも倒れときゃ良かった。ねー、どんな感じだった?」
 騒ぐ女子達の固まりを遠巻きに見つめ、男子生徒達は溜息をついている。壇上でのたった数分の挨拶で女子生徒達を惹きつけた幸が恨めしいようだ。甘いマスクとはいかないまでも、幸は端正な顔立ちをしていた。騒がない方がおかしいのだろう。
 唯一の救いは妃奈子が興味を持っていないことだろうか。とは言っても自分たちも興味を持たれたことはないのだが。
 告白して拒む男子はいないだろうという容姿の割に、妃奈子は彼らに対してまるで関心がない。媚びるような仕草一つ見せないので、有り体に言って男嫌いで通っていた。
 

◇ ◇ ◇


 社会科準備室で自分用に充てがわれた机に咥えタバコで頬杖をつきながら、幸は気怠く教科書をめくっていた。ふと名簿に目が止まって、それを手にする。及川妃奈子の名前を探す。保健医は『いつもの貧血だから』と言っていた。なるほど欠席は少ないようだがぽつぽつと授業を休んでいる印が付いている。
「及川は大丈夫だったろう」
 不意に神田に声を掛けられて幸は顔を上げた。
「ええ。いかにも体の弱そうな線の細い子ですね」
「生まれつきって訳じゃないらしいけど、保健医曰く貧血症なんだそうだよ。今日みたいな日には注意しておかないと、ああして倒れるんでね」
 中年の、人の良さそうな顔をした神田は愛妻弁当を広げた。その様子を見て幸はタバコをもみ消すと、立ち上がってジャーなどが置いてある棚の方へ向かった。
「あ、保苑君、お昼は?」
「さっき食堂で他の教生たちと一足先に済ませましたからお構いなく」
 お茶を二人分入れて片方を神田に差し出した。カップを片手に窓際に立つと、幸は生徒達でごった返す中庭を見下ろした。
 五階建ての校舎の四階に位置するこの部屋には、蒸し暑い東京の夏とはいえ、いくらか涼しい風が吹いてくる。幸はその風にぼんやりと吹かれながらお茶をすすった。
 

 都内の某私立高校。喧噪の絶えない、一見してのどかな空気が流れるこの高校にはその裏に暗い影を落としていた。
 半年前の放課後、この校舎の最上階の教室の窓から一人の女子生徒が転落死した。ほぼ即死。特にいじめ等の問題はなく、むしろクラスで人気のある成績優秀な子だった。様々な憶測が飛び交ったが受験シーズンの最中だったこともあり、一度は警察の手が入ったものの事件はすぐさま事故として闇に葬られてしまった。
 その事件に相通ずるように近年、都内の高校生の間で、この高校について眉をひそめるような噂がまことしやかに流れている。校内でドラッグの売買が頻繁に行われているとか、売春まがいの行為が教師と生徒の間であるとか。
 実際には何を理由にそんな噂が流れるのか学校関係者が首を傾げるほど、この高校にはそれらを感じさせる空気が微塵もなかった。校内が荒れているわけでもない。進学率もそれなりに高く、教師達の指導も熱心だと父兄の間でも評判が良い。
 なのに何故?
 噂について話には聞いていたが、実際に中に足を踏み入れるとそれらの噂があること自体が信じられない。幸にとっては逆に気味が悪くなるほど平穏そのものだ。
 コの字型に建てられた校舎の中心部分には中庭が設けられており、芝生に座って弁当を広げる生徒達の姿が点々とあった。ニットのベストに紐リボン、タータンチェックのミニスカートがあちこちで揺れている。
 中庭はそのまま段差を経て下方のグラウンドへと抜けるようになっている。ボールを片手にやはりベストにネクタイ、スカートと同じ色系の無地のズボンをはいた数人の男子生徒が、バスケットゴールに向かって駆けだして行く。


 無意識のうちに溜息をついたらしい幸に、やっかいなところへ送られたと思ってるんだろう、と弁当を掻き込みながら神田が言った。まるで自分のせいのように申し訳なさそうな顔をしている。
「なんでだかねえ、こっちも例の噂を払拭しようと頑張ってるんだけどさ」
「逆に面白いですよ。体験型ミステリーツアーだと思えば」
「言ってくれるねえ。ついでに真相を暴いてってほしいね」
 神田は全く本気にしていない様子でからからと笑った。


◇ ◇ ◇


 いつもは教師が入ってくるぎりぎりまでしゃべり倒しているのに、この時間はみんな妙にそわそわしている。もちろん女子生徒限定だが。
 チャイムが鳴って教室内は静かにどよめく。間もなく神田が幸を連れて入って来た。なぜだか一斉に女子生徒達から歓声とともに拍手が沸き起こる。熱烈な歓迎ぶりに幸は戸惑ったが、すぐに神田がそれらを制した。
「お前らも若い男が来ると現金だなぁ。朝紹介されてたけど、保苑幸君な。おい、涎垂らしてそんなじろじろ見るなよ。それからくれぐれも襲わないように」
 神田はそんな軽口をたたきながら黒板に“保苑幸”と書く。
 妃奈子は両手で顔を包み込むようにして頬杖をつき、黒板の文字を見つめている。神田の書き方では“來来軒”とかそういう類の店の名前のようだった。神田はさっさと消してしまうと、教科書を開いて、と声を引き締めた。女子生徒の何人かがブーイングをあげたが神田は取り合わない。
 幸は教室の後ろへ行き、予め用意されていたパイプ椅子に腰掛けて長い足を組む。俯き加減で生徒達の間をすり抜けるように歩くなか、妃奈子を垣間見た。幸と目が合うと妃奈子はすっと視線を逸らして、教科書のページを捲った。


 授業が終わり、教室を出ようとした幸にわっと女子生徒が群がる。質問責めに合いながら、幸は当たり障りのない返事を適当に返している。男子生徒と妃奈子はそれらを異様なもののように遠巻きに見ていた。
「そうだ、妃奈子っ、保苑先生にお礼言えばっ」
 もはや話しかけるきっかけならば何でもいいといった感じで、一人の子が妃奈子の腕を引っ掴んで幸の前へ躍り出た。女子生徒達のいいおもちゃ状態の幸を前に、妃奈子は困惑しつつも明らかに不愉快そうな表情で対面した。
「…別にお礼を言うようなことされてないよ」
 その場の熱を冷ますには十分なくらい冷ややかだった。自分を見据える澄んだ瞳とは対照的で、とてもその小さな唇から漏れ出た言葉とは思えない。幸は呆気にとられた。男子生徒はしてやったりという歓喜の表情でお互いの顔を見合わせている。
「うわっ、妃奈子、超機嫌悪い」
「あたしお腹痛いからトイレ行って来る」
 妃奈子は固まるクラスメイト達を後目に、のろのろとトイレへ向かっていった。幸を含め、一同は妃奈子を見送るように姿を追う。
「先生ごめんなさい、妃奈子ってば男嫌いなんです。気にしないで下さいね?」
 妃奈子の姿が消えてから一人の生徒が慌ててフォローを入れた。妃奈子の潔さに苦笑しつつも、しばし見とれていたことに気付いた幸は、その隙をついて女子生徒達から逃れるように教室を後にした。 


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