----- ラブリー


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 琥珀色の液体をマグカップに注ぐ。ティーカップじゃないってのが、なんとも庶民的。まあ、現実というのは得てしてそんなものだ。
 注意深く、均等に。ベストドロップなんて日本の造語よ、と教えて貰ったけれど、気分の問題で最後の一滴は美哉の方に入れてやろう。
 そんな心使いが密やかに行われてるとはつゆ知らず。
「信じらんない」
 美哉は俺を睨み付けながらそう言うと、もう一度、紙切れへ目を落とした。
 結局、俺が合格したのは一校だけ。
 本命に受かったんだから、上等だろう。
「先生に何も言われなかったの?」
「言われたけど、突っぱねてた」
 はぁー、と美哉は心底呆れたような顔をして俺に紙を返した。
「いいじゃん。困るのは俺だし」
「そりゃそうだけど、ダメだったらどうする気だったの?」
「後期受ける気だった」
「だーかーらー!」
 そうじゃなくって、と美哉は言いながら、がちゃんと乱暴に皿を置いた。その動作に目で注意をすると、美哉の頬がぱっと赤くなる。俺から目線を逸らしながら、さらに美哉は続ける。
「荒川先生の悲鳴が聞こえてきそうだわ」
「ああ、実際、面談の時に叫んでたね」
 荷担してくれるだろうと踏んでいた親父までもが、別に構いませんって満面の笑顔で言ったもんだから、先生が固まったのは言うまでもない。
 うちの学校に赴任してきた早々、三年を受け持つ羽目になったのは気の毒だと思う。華やかな文系クラスならともかく、俺みたいな偏屈な野郎ばかりがいるむさ苦しい理系クラスとなれば尚更だ。少なくとも数学教師じゃなかったら、彼女の身の振りは違ったんだろうけど。
 特にウチのクラスなんて、何をトチ狂ったのか、二学期になってから突然バスケが流行りだした。昼休みになるとみんなグラウンドに飛び出していく。単なるお遊びじゃなく、汗だくになるまで全力でやるのだ。受験勉強の合間にやる気分転換の運動と言うにはほど遠い。教室の後ろにある黒板に連日のスコアが付けられていて、勝敗を競っていた。これをアホと言わずしてなんと言おう。
 そんなことをしていてもなぜか合格率は一番よかったのだから、世の中不思議なもんだ。お互いが余裕な振りをして裏で頑張ってたってことだろう。それとも体力が有り余ってる時期には、机にしがみついているだけよりも、発散させてた方が何かと効率的だったってことの証明か。別の方法で発散させる方法もあるけれど、それは健全じゃないし、相手も発散できてるとは限らない。結局の所、俺もなんだかんだ言って発散させたかったのかもしれない。
 当然、寒くなる季節までは汗だくのシャツを脱いで、上半身裸で授業を受けるようなやつがごろごろいた。昼休み明けの授業では、クラスの半数を占める野郎が爽やかな疲労感に包まれながら、半裸になって下敷きで風を送る光景が日常茶飯事で拝める。もちろん、どの先生の時も半裸になるわけじゃなく、その辺は抜かりなく人を選んでいて、堅苦しい学年主任の授業の時には額から汗をだらだら流していようがシャツは脱がない。
 荒川先生がそんな俺達に初めて対峙したときには、一度開けたドアを無言で閉めたっけ。美哉でさえ、シャツのボタンを全部開けている俺に遭遇したときは、眉間にしわを寄せて一言、この大バカ者めと叫んだくらいだ。
 そんな俺らに弄ばれまくっていた荒川先生は、言ってみれば野生に戻すべく山に放り出された哀れな飼いウサギってところか。大方の人間はさゆりちゃん呼ばわりしてるけど、そう呼ばれてる方が似合う。
 しかも親父は三者面談だろうがなんだろうが、皮パンはいて、ケモノの毛のついたフードつきハーフコート着てひょこっと学校に現れるような人だ。保護者らしからぬ格好でへらへら笑っている親父と、美哉曰くいつもの仏頂面で座っている俺とを交互に見つめながら、必死に取りなそうとする荒川先生は本当に気の毒だった。
「志望校に問題はないのよ。むしろ北野君なら当然の選択でしょうし。でも、だからって、そこ一校だけっていうのは…」
「いけませんか?」
 しれっと応える俺に荒川先生はうっすらと笑みを浮かべた。手にしていた書類が汗ばんでよれよれになっているのを見る限り、内心は相当穏やかじゃないんだろう。
「そうじゃなくて、保険のつもりで私立も受けてみるのはどうかな。ほら、予行練習だと思って」
「受けてもいいですけど、受かっても行かないんですよ。それじゃ俺が受かったことによって、行きたいのに落ちた人に申し訳ないでしょう? そもそも行きたいって思えるところがありません」
「親御さんも一校だけっていうのは不安じゃありません?」
「多少は。でも彼が不安なら受けたいってちゃんと言うでしょうし」
 しばらく沈黙が続いた後に『この気狂い親子が!』と目が語っていたから、案外みんなが思っているほどお嬢な人じゃないのかもしれない。
 分かりましたと言っていたけどその声は震えてた。ああ、アレは本当に気の毒だった。あとから学年主任にもいろいろ言われたけど、ぜんぶ無視。お情けで受けるのだけはごめんだった。
 合格の報告したときには荒川先生の方が泣き出すわ、学年主任は感無量って顔して抱きつくわ、良かったねぇの一言だけでいつもと変わらない親父とはあまりにも対照的で、かなり面食らった。後にも先にもこんな思いは一度で充分だって喚かれたけど、心配しなくてもウチの学校にはもう俺みたいなひねくれたヤツは出てこないと思う。
 かくいう美哉は推薦入学でとっくに進路先は決まっている。一校しか受けなかったのは同じなのに、なんでここまで文句言われなきゃならないんだ。美哉はそんなことは都合良く棚に上げて、みっちりと具が詰まったパウンドケーキを切り始める。
「椿、自分が受けたトコの難易度がどれくらいかって認識、ある?」
「あるよ」
 別に医学部じゃあるまいし、べらぼうに難しかった訳じゃない。センター試験だって平均して8割5分取れてりゃ良かったし。そこまでリスクを冒すほど無謀なことはしない。
 だいたい決めた理由なんて、父親の研究室があった大学が遠かったってだけだ。そう言ったら、偏差値をちっとも念頭に入れてない考え方ってヤダって。ったく、なんの為に近場を選んだと思ってるんだ。
「近場って、近場って、何それっ。全国の受験生が泣くよ!!」
「うるさいな、どうせ理科二類なんだからもういいだろ」
「その『理科二類』ってのが良くないのーっ!」
 あーもう、マジで美哉がリスに思えてきた。目を細めて美哉を睨み付けながらケーキを口に運ぶ。
「あー…」
 それきり言葉が出なかった。ほんとに受験生やってたのかよ、という言葉も飲み込んだ。
「あーってナニよ?」
「『あー』は、『あー』」
 そうめったやたらと誉めるのは悔しいから、言ってやらない。怪訝そうな顔をしていたけど、紅茶を一口飲んだ美哉は大きく息を吐くとふにゃっと笑った。
「おいしーよねぇ」
「自画自賛?」
「違うよ、紅茶。なんで黙ってたかなぁ。こんなにおいしいの入れられるんだったら椿にやらせてたのに」
「やだよ」
 結局、母さんから受け継いだものと言えば紅茶の入れ方くらいしかなかったな、と頬杖をつきながら考えた。親父は家事を一通りいろいろ教えて貰ったらしい。もともと一人暮らししてたし、器用な人ではあるけれど。
 そもそも、誰にでも入れてやろうってわけじゃないのだ、この紅茶は。
 年に一度だけ、ひっそりと。その日は何があっても親父は仕事を休んだ。車で40分ほどの場所に二人で行って、家に戻る。ただそれだけだ。普段はテレビがついているか、何か曲が掛かってるかしているけど、その日はしんとしている。どちらからともなく「お茶にしようか」と言って、それでようやくソファから腰を上げるといった具合だ。
 前に親父が言ってたことを思い出す。残った者同士で傷を舐めあって生きていく。まさしくそういう日だった。あの人のエゴだというなら、その日をやり過ごすためだけに親父は俺を養子にしたんだろうか。どこまで本当かは分からないけど、あの話を聞いたその年は、一人じゃとてもいられない、と背中が語っているのに気がついた。
 一生を共に生きようと決めた相手の死がすぐ間近に迫っているのを知ってて、一緒になるっていうのはどんな気分なんだろう。時々、もし美哉がそうなら、とシミュレートしてみる。でも分からない。
 いや、きっと分かりたくないだけなんだと思う。


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