-----  ラブリー


   >>> 17



 さっきからママの呼ぶ声がする。でも下に下りていく気にはなれない。
「食欲ないから、ゴハンいらないって言ったのに」
 そう呟いて、ベッドの中で唸る。
『泣かしてばっかりじゃねーかよ』
 椿のイライラした声がオートリバースで頭のなかを回ってる。
 きっと、あたしに嫌気がさしたんだ。だって自分でもイヤだもん。
 前は回りがびっくりするような冷たい言い方されても、笑っていられるくらい平気だったのに、今はちっとも平気じゃない。
 こんなの絶対おかしい。つき合う前に比べたら、椿のことをもっと知ってるはずなのに、何考えてるか全然分からない。これじゃ今まで椿を遠巻きに見てた子達と変わらないじゃないのよ。
 違う学校に通ってるだけでこんなに分かんなくなるものなの?
 傍にいて、広い背中から放出される体温を感じているだけで良かったのに。
 長い指がくすぐるように髪に触れてくるだけで良かったのに。
 あたしよりもずっと高い目線は、いつもあたしには見えないものを見つめているようで、そのビー玉みたいな黒い瞳が時々あたしを見つめるだけで良かったのに。
 ああ、もう息が苦しい。
 あたしだけは違うんだって、余裕ぶってたしっぺ返しなのかな?
 好きな人なんか出来て欲しいわけがない。
 ほかの人に目を向けて欲しくない。
 あたしだけを見てて欲しいのに。
 あの時、椿の寝顔をもっと見つめていれば良かった。
 黒いサラサラの髪を、汗ばんだ額を、長い睫毛を、すっと通った鼻を、微かに火照った頬を、綺麗な形の唇を。
 どこが好きなんて一言じゃ言えない。
 強いところも、弱いところも、
 椿を椿たらしめているところ全てが。
 なんて言えば良かったのかなぁ?
 なんて言えば椿は満足したんだろう?
 園子が言っていた“神の一手”を思い出した。あれってきっと某囲碁漫画の読み過ぎだ。彼氏は漫画好きって言ってたし。
 その一手も、肝心なときに出てこないんじゃ意味ないじゃない。
 暗がりの中を起きあがって、くしゃくしゃになった頭を振る。ベッドから下りて、一番好きな匂いのするお香に火を付けた。
 もう考えるのはやめよう。そう、考えたって仕方がない。だって椿は糸は切らないって言ったし。それだけでも充分。悔しいけど変わっていく椿に追いつけないのは事実なんだから。負けないように頑張っても、椿には敵わない。
 ほんのりと花の香りをくゆらせる煙を見つめる。
 もう何も考えない、そう決め込んでも頭の中はずるずるとネガティブな方向へ向かっていく。
 椿がカッコよくならなくても良かった。
 あたしのことを好きでいてくれるだけで良かった。
 ああ、でもなんだかこれってあまりにも後ろ向きな発想。部屋の中に充満していく香りも、あたしの気持ちをすくい上げてはくれない。
 うんざりしながら髪の毛を掻き上げる途中、手が耳に触れて違和感に気付いた。
 さっきよりも倍の速さで心臓が動き出す。ベッドに這いつくばるようにして、何度も探したけれど見つからない。
 顔が熱くなる。部屋を飛び出して、階段から玄関まで、何度も往復した。ママが何してんの? と声をかけてきたけど、それに答えると永久に見つからなくなるような気がして言えなかった。
 鉛のような体を引きずって部屋まで戻ると、あたしはしゃがみ込んだ。
 これは気のせい。何かの間違い。きっと夢。そう思いたかった。
 涙が溢れていく。
 まるで椿そのものを無くしたような気分だった。
 よりによって、なんでこんな日に無くしてしまうんだろう。
 疲れて泣く力も出ないほど泣いた後、相棒を失ったもう片方のピアスを外した。
 
 ハイ、とMDを渡されて、自分でもぎこちないと思う笑みを浮かべながら、ありがとうと答えた。
 ピアスを無くしたことは言えなかった。
 そんなあたしをうかがうように、さっきからちらちらと椿が見ている。
 気持ちが一方通行だって言われた日から、なんだか妙に優しい。正確には優しくしようとしてくれてるんだけど。かえってよそよそしく感じてしまいそうになる一歩手前で、のぼせちゃいそうな態度でせまってくるから、ホントに一方通行なのかと戸惑ってしまう。
 だけど、あたしがぎこちないのはそれだけが理由じゃない。
 今、自分がものすごく場違いなところにいるような気がしてならないから。
 そりゃ確かに椿の学校を覗いてみたいなって言ったけど。なんで今頃になって実現させるかなぁ? 美術博物館とか地下にある食堂とか連れてってくれたけど、なんかほとんどアミューズメントパークに来てるノリだわ。やっぱ普通の大学とはちょっと違うってオーラがむらむらとそこかしこに出てる。
 ここなら椿がいい感じに紛れてるって言うのも納得だ。
 あちこち歩き回っていると、敷地の広さにつられて気持ちも大きくなってきた。だんだん考え込んでいるのもばかばかしくなってきて、あたしは開き直った。
 椿がどう変わろうと、結局あたしは椿にめろめろなんだ。そして椿はこうしてあたしの隣にいてくれる。
「駒場寮、まだ残ってればよかったのにな」
 途中、椿はぽつりと呟いた。
「親父は昔撮影で使ったことあるんだって。怪しい雰囲気の廃墟同然の建物だったんだけど、昭和初期の建物って都内には数少ないから歴史的価値も一応あったらしいよ」
 ふうん、とあたしは椿が目を向けてた方を見た。
「親父に訊いたら建物の写真あるかもな。ひと部屋がばかでかいし、天井も高いし、四角い板をはめ込んだ木の床だし、壁が真っ白な漆喰だったから、ほんと寮って言うより外国のアパートみたいな感じだったって…」
 そこまで言いかけると椿は立ち止まってぎょっとしたような顔をした。なに? と問いかける間もなく、二人の男の人が見るからにハイテンションな足取りでこっちに向かってやって来る。
「うわー本物じゃあー! 写真よりぶちかわいいー」
「なんだよデートか?」
「…なんでいるんだよ」
 …ぶち? え? なに? なにごと?
 呆気にとられてると紹介しろコールに負けた椿がしぶしぶ口を開いた。
「田仲、川本。で、これが美哉」
 指さし確認でもしてるみたいなものすごく適当な紹介をされたのに、二人は嬉しそうにニヤニヤしていた。早く去れという椿の露骨な目つきにもめげずに、学校はどこ? なんてあたしに話しかけてくる。田仲サンはなんだか雰囲気が麻生君に似てるなとぼんやり思っていると椿に腕を掴まれた。
「いちいち答えなくていいから。もう行くぞ」
 川本サンが今度合コンしようよーと言い切らないうちに、あたしの腕を掴んだまま椿は二人から逃れるように歩き出した。
「さっきの、友達?」
 ああ、と椿は不機嫌そうな声で答えた。
「田仲サンて人、麻生君に似てるね」
 後ろを振り返りながらそう言った途端、椿が吹き出した。
「え、似てない? 見た目が、とかじゃなくて雰囲気なんだけど。あれ、変なこと言っちゃった?」 
「…いや」
 やっぱり美哉もそう思ったか、と椿は笑いをこらえながら言った。
 なーんだ、同じこと思ったんじゃない。ホッとしながら門までの道を歩いていると、スーツ姿の女の人が狐につままれたみたいな顔してこっちを見ているのに気がついた。
 その人との距離が近付くにつれて、正確には椿を見ているんだって分かった。椿は気付いてない振りをしているかのように田仲さん達のことを喋る。
「で、携帯にあったアホっつら見られて…」
「龍司…?」
 すれ違いざまにその人がぽつりと呟いた。椿が反応するよりも、あたしの方が早かった。足を止めたあたしにつられて、椿もその人の方をゆっくりと振り返った。
 椿が、体全身にバリアを張り巡らせているのが分かった。


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