----- 甘い復讐


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 車の窓越しに見えた人物に、彼は不覚にも目を奪われた。
 それは一瞬の出来事だったが、紛れもなくあいつだと目を追う間にもその距離はどんどん離れていき、あっという間にその姿は視界から消えた。目で追えた時間はごくわずかだ。見間違いの可能性の方がずっと高い。だが、なぜか彼には見間違ってはいないという自信があった。
 その人物を良く知っていたわけではない。たまたま良く行く本屋で出くわしていただけの、他人も同然の相手だ。ろくに言葉を交わしたことすらないが、これからも交わすことはないだろうという程度の存在だった。
 それなのに、笑みを浮かべている顔を初めて目の当たりにしたことで、彼の心臓は微かに跳ね上がった。
 二、三ヶ月前に思いも寄らぬ場所で再会したときには、随分と大人びてはいたものの、病的なほど青白い肌が印象に残り、その鬱蒼とした雰囲気には彼の興味を引くものは何も残っていなかった。どこか暗い影を背負っているような姿が当てつけのように見え、不愉快でさえあったくらいだ。
 ところがさっき垣間見えた姿はどうだろう。
 横断歩道の前で信号を待ちながら、風になびく髪を耳に掛ける仕草はすっきりと美しく、恐らく彼でなくても振り返る人はいるだろう。
 頬には赤みが差し、何かを吹っ切ったようなすがすがしさがあった。
 惜しい。
 彼は思わず心の中でそう呟いた。
「どうかしたんスか」
 運転席からの問いかけに彼は現実に引き戻された。
「何でもない」
 妙な詮索は許さないとばかりに彼は鋭く答えた。バックミラー越しに軽い気持ちで問いかけただけだった運転手は、すぐさま目線を前方に戻し、背筋を伸ばした。
「ちょっと道が混んでますけど、あと十五分ほどで着きます」
「分かった」
 彼は息を吐き、今までの思考を一変させようとした。
 今さら興味はない。危うく人生をふいにされかけたのだ。
 そう言い聞かせ、彼は進行方向を見据えて脳裏から相手を排除しようとした。だが消そうとすればするほど、その姿形は色濃くなっていく。
 跳ね上がった心臓の動きはなかなか収まろうとはしなかった。
 彼はポケットに入れていたピルケースから、真珠の珠のような小さな錠剤を取り出す。口に放り込むと、舌の上で溶けていくその感触にしばし意識を集中させた。
 次第に目に入る景色の輪郭がはっきりとしていき、個々の色合いが鮮やかになっていく。夕暮れ時でまだ外は明るかったが、まるで闇の中で瞬くように光るネオン街の中を、猛スピードで疾走しているように街並みの残像が次々と流れては消えていった。車はまるで光速の中を進んでいるかのようだ。子供の頃に見たSFドラマでのワープシーンを思い出させた。自分は今、そのワープを体感しているのだ。まどろみに近い感覚の中で、彼はそういった光景を生みだしていく物質が、じわじわと脳内を浸食していきながら広がっていく心地よさに身を委ねる。
 不意に黒と白と赤というコントラストで彩られた顔のようなものが眼前に襲いかかるように飛び込んできた。アメーバのように彼の体を包み込もうとし、彼は息苦しくなって顔を塞ごうとするそれに手を伸ばした。しかし、その粘りけのあるアメーバは手が触れるか触れないかのところで粉々になり、チカチカと光を放ちながら彼の体をすり抜けて消えていった。
 それが幻想だと気付くまで、いつもよりも時間がかかったことに彼は一瞬焦りを覚えた。今まではこういった幻想も含めて楽しんでいたのに、胃壁に張り付く油のようにただ不快さだけが残った。こういう事は初めてだ。
 彼は小さく舌打ちをして、今度こそ、僅かでも自分の頭の中を支配した麗姿を、その存在を一掃させようと目を閉じた。


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