----- 甘い復讐


   >>> 5


 

 十月某日金曜日

 病院の入り口にさしかかった所で急に現れた人物に、妃奈子は我が目を疑うような面持ちで体を強張らせた。
「久しぶりだね」
 そう投げかけられた言葉に反応も出来ず、呼吸をすることすら忘れるところだった。
 目の前の相手はそんな妃奈子を興味深そうに眺めている。
 すらりとした長身は幸と同じくらいか。まともに会うのはこれで三度目になるが、洗練された身のこなしは相変わらずで、育った環境の良さを強調させる。
 半ば強引に慰謝料という名の大金を渡され、それは暗黙の了解で互いにもう関わらないことを意味しているはずだった。
 その二度と会うこともないと思っていた相手、井伏史信(いぶせ ふみのぶ)は、妃奈子の様子に変化が見られないことにようやく気付き、訝しげに目を細めた。
「僕のことは覚えているよね」
「何の、用ですか?」
 緊張で喉が乾いていたのか、掠れた声が出た。史信は別にとだけ答え、尚も妃奈子を見つめ続ける。妃奈子はふっと顔を逸らせた。
「あの、あたし、話すことなんてありません」
「構わないよ」
 トクトクと心拍数が上がっていく。
 史信の、額に垂れる真っ直ぐな髪の間から覗く瞳が、回りの空気をひんやりとさせる淡い光を放出しているように見えた。世の中はクズばかりだと言いたげなその眼差しは以前会ったときと変わりはなく、穏やかな口調のわりに明らかに自分が見下されているのを妃奈子は感じ取った。
 関係を断ち切ってきたのは史信からではなかったのか。すっかり安心しきっていただけに、不意を付かれた形の再会はそれだけで妃奈子の心を不安定にさせるのに充分だった。記憶の底の蓋が重たげに開きかけ、中から黒く蠢く感情がアメーバのように這い出しそうになり、妃奈子はそれを慌てて閉じた。
 暑くもないのにうっすらと額に汗が浮かんでくる。対する史信は冷気さえ放っているかのように涼しげだ。彼は微かに唇を緩ませた。
「随分と変わったね」
 妃奈子はそれには答えず、病院へ入ろうと足を踏み出したが、史信は立ちふさがるようにしてそれを妨げた。 
「……通して下さい」
「綺麗になったよ」
 頭上から囁くように言われ、思わず妃奈子は眉根を寄せて史信を見上げた。
 憤りと羞恥とがごちゃ混ぜになって頬を火照らせる。
 いきなり何を言い出すのだ、この男は。ほんの二、三ヶ月に、その『綺麗になった』と評する相手によって警察沙汰になり、犯罪者のレッテルを貼り付けられそうになったことをよもや忘れたというのか?
 史信は皮膚の薄そうな顔を、再び満足げに歪めた。彼は表情に乏しい状態が素なのだろう。それ故に感情を伴った表情をするときに違和感があり、例え喜んでいるのだとしても、歪める、という表現の方が相応しかった。
 その表情に妃奈子は頭の方に集中していた血液が一気に下降し始めた。
 何か変だ、と直感が訴える。
 以前、幸から教えられたことを思い出した。
『変なヤツに絡まれたときは嫌と言う、逃げる、叫ぶ、誰かに助けを求める――』
 妃奈子はゆっくりと一歩後退した。
「あたし……」
 嫌とは言えず、首を横に振るのが精一杯だった。また一歩。さらに一歩。じりじりと後退する妃奈子を、史信は何も言わずにただ見つめていた。
 史信から充分な距離を取り、背を向けようとしたその時、史信の手が妃奈子に向かって伸びた。その手は素早い動きで妃奈子の腕を掴み、引き寄せる。もう一方の手が声を上げかける口を塞いだ。妃奈子は身を捩って逃れようとしたが、押さえ込む腕はびくともしない。何処にそんな力が秘められていたのかと思うほど、史信はいともたやすく妃奈子を抱え込みながら車道に止まっている車に向かって歩き出した。
「ドアを開けろ」
 運転席に座っていた男は、近づいてくる史信と妃奈子を唖然とした表情で見ていたが、史信に言われて慌てて車から飛び出した。
 史信は妃奈子を引きずり込むようにして後部座席に乗ると、またひと言「出せ」と何でもないように男に告げる。
 その間、妃奈子は声を上げて抵抗することすら忘れていた。車に乗った時点で史信は口を塞いだ手を離していたが、もはや一体何が起きたのか即座に理解することは出来なかった。車が動き出した振動で体を揺さぶられ、ようやく自分の置かれた状況を飲み込もうと五感が働き始めた。
 妃奈子は史信の胸元に抱き寄せられるような形で座っていたが、まず感じたのは圧迫感だった。史信をぐいと押しやるようにして体を離すと、鼻先に柑橘系の香水の匂いが残る。その匂いに妃奈子は鼻をぴくりとさせた。学校でお洒落だと言われている男子生徒から香ってくるものと似たような匂いだ。だが今の妃奈子には心地よい匂いだとは思えなかった。
 続いて史信の肩越しに見えたのは流れる街並みだ。
 突然大きな不安に襲われて妃奈子は進行方向を見た。頭上を通り越していく経路案内に世田谷の文字が見えた。
「どこに、どこに連れていく気?」
「さっきから何を動揺してるのさ」
 ふっと史信は冷笑を漏らした。かみ合わない会話にさらに不安が高まる。
「降ろして」
 妃奈子は声を荒げた。
「ねえ、車を止めて。降ろして」
 後部座席から身を乗り出すようにして妃奈子は運転手に叫んだ。運転している男は史信と大して年は変わらないように妃奈子には思えた。違うのは史信に比べて服装が幾分庶民的なところくらいか。
「お願い、止めて」
「少し静かにしてくれないかな」
 制服の上着を後方に引っぱられ、妃奈子は勢いよく座席にしりもちを付いた。
「もう少し大人しい子だと思っていたけど」
「何が目的なんですか」
「さあ、それは僕にもよく分からない」
 何をふざけたことを、と妃奈子は困惑の目を史信に向けたが、はたと思いついた。
「お金ですか」
「金?」
「あの時のお金なら返します。使ってもいないし、惜しくなったんなら……」
「ああ、あんなの惜しくも何ともない」
 史信は鼻で笑い、急に真顔になった。
「そんなに理由が必要?」
 史信に見据えられ、また妃奈子は危険を感じて後退る。ドアにぴたりと背を付けた。
 ゆったりと構えるように座っている史信は、そんな妃奈子を面白そうに眺める。
 目的もなく、理由もない。何もないのにこうして車に連れ込んだのは何故か。分からないことが妃奈子を余計に不安へと追い込む。
「まあ、焦ることはないよ」
 それだけ言うと史信は妃奈子から目を逸らし、窓の外へ気怠げに目を向けかけたが、思い出したように妃奈子の方へ向き直した。
「そうだ、ちょっとそのカバン見せてくれないかな」
「え?」
「いいから、早く」
 史信はこっちによこせとせかすように手を振った。有無を言わさぬ強い口調に押されて、妃奈子はしぶしぶ学生鞄を史信に手渡した。
 鞄を受け取ると史信は何も言わず、しばらく手提げ部分に取り付けられた小さなぬいぐるみを訝しげに見つめた。
「……知らないの?」
「僕がこんなものに興味を持つと思う?」
 史信はそう返すと、妃奈子から遠ざけるように自分とドアとの間に鞄を押し込んだ。
「ちょ、ちょっと返して下さい」
「どうして」
「どうしてって、それは私の……」
「言われなくても分かっているさ」
「だったら返して下さい」
 妃奈子が伸ばした手を史信はぴしゃりと叩いた。
「頭の悪い子だな。これはいわば人質だよ。返すわけがないだろう」
 顔色一つ変えずにそう言い放つと史信は再び窓の外を眺める。
 妃奈子は返す言葉もなく、ぽかんと史信を見つめていたが、やがてシートに吸い寄せられるようにぐったりと体を預けた。
 史信のあまりの傲慢さに太刀打ち出来ず、急に体の力が抜けた。不安や恐怖のかけらまでがするすると抜け落ちていくようだった。途方に暮れる、といった感覚が近いだろうか、とにかく考える気力さえ無くしてしまって、それきり妃奈子は一度も口を開くことはなかった。


back    index    next


Copyright (C) 2005-2007 Mutsu Kisaka All Rights Reserved.