----- 汝の罪人を愛せよ


   >>> 17


 幸は自分の部屋でぼんやりとしていた。
 謹慎を言い渡されてから、ここぞとばかりに見ようと思っていた映画を片っ端からビデオで見ているが、既にそれは3日で飽きてしまった。
 テレビの画面に映し出される男女の会話も、フランス語のせいもあってか右から左に流れていく。もう内容もほとんど追っていなかった。
 ここまで完全に見る気を無くしたのは、やはりさっき見た映画のせいだ。サイバーポップな赤ずきんの話だったが、赤ずきんが襲われるのはオオカミではなくて、かつて赤ずきんだったお婆さんだった。それをオオカミが助けるのである。しばらく見ているとその赤ずきんが次第に妃奈子のように思えてきた。演じていた女優の雰囲気がそう催させたのかもしれない。助けようとするオオカミはさしずめ自分自身か。
 そんな想像に耽りながら幸は笑った。重症だよなぁとベッドに凭れて天井を仰ぎ見る。
 この数週間、自分がやってきたことはなんだったのだろう。こんな不条理な展開が世の中に本当にあるとは思わなかった。
 事件は解決したも同然なのに、事態はなにも進まなかった。進むどころかあっさりと闇に葬られてしまったのだ。
 蓼倉と警視庁に戻った幸は理由も告げられずに一週間の懲戒停職を言い渡された。それと同時に某署への派遣。期限付きだが事実上の左遷だった。
 史信は表沙汰になることもなく処理された。当然、裏で大金が動いたのだろう。被害者とはいえ、妃奈子には隠蔽罪の嫌疑をかけられていたが、それも必然的にチャラになった。あの弁護士から慰謝料が支払われたらしいことも人伝いに聞いた。それなりに史信は罪を認めたのだろうが、金で妃奈子が納得するとは思えなかった。
 解決できたら自分も救われるんじゃないか、振り返ってみればそんな期待を抱いてたことの方が大きかったのかもしれない。それだけにこの結末はショックだった。捜査に私情を挟んだ自分が悪いのだからこればかりはどうしようもないのだが、それでも受け入れることは出来そうになかった。
 幸は大きな溜息をついた。
 妃奈子はどうしているのだろう。
 結局、鞠子が提案した、佐久間の家へ下宿する話もそれきりになってしまった。妃奈子はあの日以来、鞠子の所へ足を運んではいないらしい。きっとふさぎ込んでいるのだろう。まだ塙志の夢を見ているのだろうか?
『保苑さん助けて』
 ふいに妃奈子が自発的に自分を頼った時の言葉を思い出した。
「結局は何もしてやれはしないんだろうな」
 幸は独り言ちながら、のそりと立ち上がった。テレビの画面を見ると男が女からしこたまぶたれていた。何かの暗示のような気がして幸は顔をしかめる。それを消すと幸は部屋を出た。


◇ ◇ ◇


 妃奈子は台所で頬杖をつきながら、遅い朝食をつついていた。ついさっき見た夢が頭から離れない。
 史信の素性については妃奈子は何も知らなかったが、幾日も経たないうちに警察署で会った弁護士が家にやってきた。そこで初めて井伏史信と言う名前であること、そしてその「井伏」がニュースや新聞でよく見かける井伏防衛庁長官と同一であることを知った。一方的に慰謝料を置いていったが、それは裁判沙汰になったとしても金で揉み消されてしまうことを暗黙で伝えているように見えた。つまり史信が言っていた『免職させることなんて訳もない』というのはそういう意味だったのだ。
 慌てて時計を返す名目で警察署に行ってみたが幸はすでにいなかった。史信に怪我をさせたとかで謹慎処分を受けたのだと丸山から聞いた。懲戒免職にはなっていないようだったのでホッとしたものの、妃奈子は眉をひそめた。怪我をさせたと言ってもせいぜい打ち身程度だ。処分が下されるようなことなのだろうか。それとも、自分のせいなのだろうか。
 それ以上のことは分からず、釈然としないまま妃奈子は幸のことを考えていた。
 今は幸が一番苦しんでいるはずだ。あと少しのところですべてを取り上げられてしまった上、謹慎中の間に何事もなかったかのように痕跡を消されているのだ。
 加東は幸のことを警視庁でも期待のホープだと表現していた。だが今回の処分はその経歴に傷を付けてしまったことになる。順調だったであろう輝かしい未来への道は、一瞬にして道幅をぐっと狭められてしまったのだ。
 時計はずっと手元にあった。返さなくてはいけないが、これ以上幸に会えばその道を崩壊させてしまうのではと思うと二の足を踏んでしまう。塙志の二の舞にだけはなって欲しくなかった。
 自分は大切な人を狂わせてしまう運命にあるのだろうか? 
 ふとそんなことが頭をよぎる。思い出せないという胸のつかえが取れたのに、事態はより一層悪化してしまっただけのような気がした。
 さらにもやもやとした不安と恐怖を抱えながら、眠りにつこうと横になる。ここ2年間、熟睡出来たことなどほんの僅かだった。無理矢理目を閉じて頭の中を真っ白にしようとする。
 どのくらい経った頃だろうか。妃奈子は足下に誰かが座る感覚に気がついた。
 そこには塙志が座っていた。あの時と同じように、憂いを含んだ瞳で妃奈子をじっと見つめている。妃奈子は固まったまま動けなかった。今度はきっと殺されてしまうのだ、そう思った。
 塙志はそっと妃奈子の枕元へ近付いてくる。
「ヒナはどうして言うことが分からないの?」
 震える妃奈子の頬を塙志はそっと撫でた。ヒヤリとした感触に妃奈子はぎゅっと目をつぶった。
「拒んじゃダメだ。信じなよ」
 穏やかな声に妃奈子は驚いて固く閉じていた目を開けた。じゃあね、と微かに笑みを浮かべるとドアを開けて塙志は出ていった。
 目を開けると朝だった。
 塙志は責めていたのではなかったのか? 
 妃奈子は茫然として起きあがった。ふらふらと部屋を出て台所へ向かう。母親は買い物に出掛けているようだった。
 食事もあまり喉に通らず、妃奈子は自分の部屋に戻る。昼だというのに薄暗いままの部屋に思わず溜息が出た。光を入れようと妃奈子はカーテンを開けた。ついでに空気も入れ換えようと窓も開ける。
 そこで妃奈子は固まった。


◇ ◇ ◇


 最初は部屋にいるのも落ち着かなくて、気晴らしに外を歩こうと思っただけだった。ぶらぶら歩いて、気がついたら電車に乗っていた。
 移りゆく景色はもう何度も見ていて、次に見える広告の看板も予想がつくほどだった。向かう先でどうこうしようとか、そんなことはこれっぽっちも考えてはおらず、ただ足の向かうままに任せようと決めた。
 駅を下りて、初めて幸は立ち止まって迷った。
 土産になにか好きなものでも買っていこうかと思ったが、直接何が好きと聞いたわけでもない。あのくらいの歳の子が好きそうな物はなんだろうと考えて、妃奈子が唯一好きと口にした言葉を思い出した。
『タバコの匂いが混じってるけど、好きな匂い』
 思わず頬が赤らんで幸は慌てて顔を手で覆った。
 つまりは、そういうことだろう。
「しょうがねえな…」
 苦笑しながらタバコに火を付けて煙を吐き出した。ようやくケーキのイチゴを思い出して、幸はこの近辺にケーキ屋はないか歩き始めた。
 ぶらぶらと向かった終着点で、幸は足を止めた。
 ここまで来たものの、正直会いたいとは思っても、会いに行く気はなかった。むしろ合わせる顔もないというのが本当のところかもしれない。勢いでケーキまで買ってみたが、実のところは渡せそうにはなかった。
 羅列する窓を見上げながら、これじゃ“ロミオとジュリエット”か“ラプンツェル”のようだとタバコをふかしながら考える。どちらかと言えば“ラプンツェル”だろう。妃奈子の長い髪は助けを求めるために自分に向かって窓から下ろされるのだ、と。だがそれも髪を伝って上る前に、幻のように消えてしまったのではあるが。
 ふふっと自嘲すると幸は息を吐いた。
 そんなことを想像しているとふいに一つ、窓が開いた。

 お互いにバカみたいにぽかんと見つめ合っていた。それを先に遮ったのはまたもや幸だった。口元を緩めると咥えていたタバコを手にした。
「下りてこれないかな?」
 妃奈子の頬が微かに赤くなったように見えた。一瞬間をおいて、ぴしゃっと窓が閉じられる。その動作に固まっていた幸は、取りなすようにタバコを再び咥えた。
 しばらくその窓を見上げていたが、ようやく仕方ないよなと幸は背中を向ける。二、三歩足を踏み出した時に背後からバタバタと足音がして幸は振り返った。
 必死にこちらへ向かってくる妃奈子は最後に高校に赴いたときと同じだった。思わず笑いがこみ上げてくる。幸はタバコを消すと妃奈子がこちらに向かってくるのを待った。
 目の前に妃奈子が息を切らせて来る。
 その手を取ると幸は妃奈子を抱きしめた。
 腕の中で妃奈子が小さく驚きの声を上げた。
「タバコくさい?」
 幸にそう言われて妃奈子は戸惑っていたが、やがて意味を理解したのか頬を赤らめながら答えた。
「うん、好きな匂いだよ」
「そりゃよかった」
 そういうと幸は妃奈子を離してニヤッと笑った。見上げる瞳に、なに? と目を細めて妃奈子を見下ろす。妃奈子は慌ててふるふると首を振った。
「いい加減に素直にならなきゃ」
 塙志の言葉が耳元を掠めて妃奈子は弾かれたように後ろを振り返った。生ぬるい午後の風がさっと吹き抜けて妃奈子は髪を押さえる。
「どうした?」
 幸の問いかけに妃奈子は再び向き直った。なんでもないとまた首を振りかけて、妃奈子は思い直したようにきゅっと唇を噛む。
「あのね、あの公園に、一緒に行って欲しいの」
 幸は目を見開いた。いいの? と問うと妃奈子は頷いた。
「じゃ、行こうか」
 そういって歩き始めた幸は妃奈子を促すように振り返った。
 後ろ姿を眺めながら、そうだこの背中だ、と妃奈子は思う。すべての始まりは保健室からの帰り道だった。動きに合わせてふわふわと揺れるくせ毛に、ほんの少し俯き加減で、ほんの少しガニ股で。
「佐久間のとこへ行く件、どうする? って言ってももう今更だよな」
 急に幸が口を開いた。その事に関して、妃奈子はすっかり忘れていた。だが、当初の塙志の声云々ということよりも、今はもう別の理由でここを離れたいと妃奈子は思った。
「行く。もうあの人の近くにいたくないの」
「…そっか」
 そうこうするうちに公園に着いた。妃奈子は立ち止まる。幸は振り返って妃奈子を見た。
「大丈夫。…もう、大丈夫」
 そう言いながら妃奈子は公園内に足を踏み入れた。
 あの日から2年も経ってはいたが、それでも随分と雰囲気は変わっていた。妃奈子は辺りをぐるりを見渡すと深呼吸をした。公園の一角に目が止まる。
「あそこにお兄ちゃんが倒れてたの」
 妃奈子はぽつりとそう言うと、幸の方を振り返って微かに笑みを浮かべた。
「そっか」
 幸は俯くとタバコに火を付けた。
「腹減らないか?」
 ベンチを顎で指し示すと、今まで手にしていたケーキの箱を高く持ち上げて妃奈子に見せた。ベンチに座った妃奈子の膝に箱を置く。箱を開けた妃奈子は幸を軽く睨んだ。
「大丈夫だって。今度はイチゴ取らないからさ」
 幸はそう言うとくすくす笑った。
「こんな所だから手づかみだけど。好きなだけどうぞ」
「イタダキマス」
 妃奈子はイチゴのタルトに手を伸ばした。幸も同じ物を手に取ると大口を開けて食べ始める。ギョッとして見つめる妃奈子の目線に気付いて幸はもごもごとなにか喋った。不思議そうな顔をする妃奈子に、幸はようやく口の中を空にしてなに? と尋ねる。
「保苑さんて、見た目の割に気にしないんだね」
「見た目?」
「なんて言うか、見た目がカッコいい人って動作もカッコイイって言うか、そういう風に見えるものかと思ってたけど」
 怪訝そうな顔をする幸に妃奈子は慌てた。
「いや、別にカッコよくない訳じゃないけど、髪の毛も洗いっぱみたいな感じだし、今みたいにおっきな口開けてがつがつ食べたりとか、鼻から煙出したりとか。あー、うーん…」
 そこで妃奈子は一呼吸置いた。
「やっぱり、カッコよくないかも」
「大きなお世話デス。だいたいどう気取れって言うの」
「お澄ましして歯をキラーンって」
「却下」
 呆れたように言うと幸は再びケーキに囓りついた。
「小学生みたい」
「小学生は鼻から煙出さないでしょうが」
「じゃあ、おじさん」
「おじさんだもん」
 むーと妃奈子は頬を膨らます。
「ここのケーキけっこう美味いな。俺もう一個食うよ?」
 そう言いながら幸は無邪気な笑みを浮かべた。
 妃奈子はそんな幸の姿をしばらく見つめていたが、次第に目の前が霞んできた。
「どうした?」
 妃奈子の異変に気がついたのか、幸が妃奈子の方を向いた。
「アレ?」
 妃奈子は誤魔化すように笑ったが、ぽたりと滴が膝の上に落ちた。
 どうして急に涙が出てきたのか自分でも分からなかったが、あとからあとから涙は溢れてくる。悲しいわけでも辛いわけでもない。なのに止まらなかった。幸から黙ってハンカチを渡されると、とうとう妃奈子は声を上げて泣き始めた。
 ひとしきり泣いて、しゃくり上げる妃奈子はようやく一言呟いた。
「保苑さんなんかだいっきらい」
 幸は呆気にとられた。
「ケーキ食っておきながら、ひどい言い草だな」
 そう言いながら、どこかホッとしながら幸は独り言のように呟いた。
「まあ、いいよ。好きなだけ泣けば」
 それを聞いた妃奈子はホントに嫌いなんだからと言って再び泣き出した。
 泣きじゃくる妃奈子を横目で見て、幸は肩の荷が下りたような気がしていた。今までの妃奈子を見る限り、泣き出しそうになったことはあっても泣いたことは無かった。ここに連れてこようとしたときも、塙志のことを語るときも涙は見せなかった。校長に刺されたときでさえ、苦痛に顔を歪めていたものの妃奈子は泣かなかった。
 それが妙に不自然で、今思えばそれが死んでいるような印象を与えていたのかもしれなかった。瞳の奥に映る暗い影は塙志や史信のことではなく、頑なに感情を押し殺して閉ざしていた妃奈子自身を映していたのだろう。
 史信は逃げてしまったが、これが事件の解決なんだと幸は思った。
 再びタバコに火を付けてゆらゆらと燻らしていると、妃奈子がこちらを向いているのに気がついた。
「ん? 気が済んだ?」
 妃奈子はこくりと頷く。ヨカッタネと笑うと妃奈子はまじめな顔をして見つめてきた。
「好きになったら、あたしの大切な人を奪う?」
 タバコを吸おうと口元に持って行きかけた手が止まる。
「いいや」
 そう言って煙を吸い込むと、幸は付け加えた。
「大切な人は守るよ」
 やや間があって妃奈子はまた口を開いた。
「好きになってもいい?」
「いいよ」 
 幸は静かに笑って答えた。
「知ってる? 甘い物は心の痛みを和らげる特効薬なんだってさ」
 妃奈子はキョトンとして幸を見た。
「それに泣くのは意外と体力使うんだよ」
 そういう幸も甘い物が好きな方ではないのに、今日はかなり食べている。妃奈子と同じように幸にも特効薬が必要だったのかもしれない。
 妃奈子はようやく顔をほころばせるとケーキに囓りついた。

「ごめんなさい。あたしのせいでこうして暇なんだよね」
 あらかた二人でケーキを食べつくしたあとに妃奈子がぽつりと呟いた。
「アンタのせいじゃないよ。好奇心で首突っ込んだのは俺なんだから」
「でも」
「もういいよ」
 言いかけた妃奈子を遮ると幸は静かに言った。
「助けて貰った相手に対して罪の意識に苛まれることはないんだ」
 そう言いながら、幸はふと我に返った。妃奈子に対して言ったつもりだったが、それはそのまま自分自身にも当てはまることに幸は気付いた。
 俺は今まで何を悩んでいたんだろう?
 突然くすくすと笑い出す幸に妃奈子は驚いて顔を上げた。幸は妃奈子に微笑みかけた。
「今日もクソ暑いよな」
 そう言いながら幸は空を見上げる。
 妃奈子もつられて見上げた空は、何事もなかったかのようにじりじりと二人の肌を焦がしていた。


                             - 終 -



back    index    next


Copyright (C) 2002 Mutsu Kisaka All Rights Reserved.