----- 汝の罪人を愛せよ


   >>> 2


『おーい。ゆっきぃー、はながきぃー。調子どぉー?』
「…誰がゆっきぃーだよ」
「蓼倉(たでくら)さん、その気の抜けた言い方止めて下さい」
「こっちは何も変化なし、いじょ」
 花垣から奪うように無線を取り上げると幸は乱暴に切った。
 スイッチが切られる瞬間、微かにうわっひどいなーという声が聞こえたような気がしたが、幸はあっさりと無視した。仮にも上司だというのに一向に気にする気配のない幸とは対照的に、花垣は無線を取り上げられた手を宙に浮かべたまま固まっていた。
「死にやしねぇよ」
 幸はどっかりとシートに体を投げ出す。

 都内に建つ、どこにでもありそうなごく普通のマンション。五階建てのその建物はひっそりと周囲に埋もれるように建っている。それでいて存在を誇示するかのように太陽の光が白い外壁を乱反射させていた。
 そこからわずかに離れたところに車を止めて、保苑幸(ほそのゆき)と花垣哲平(はながきてっぺい)はいわゆる張り込みをしている。
 二人はぼんやりと見上げた電柱から、カラスが糞を落とす瞬間を目撃した。その時、同時にアッと声が漏れた。
「ああ、すげー確率」
 火のついていないタバコのフィルターを甘噛みしながら幸が呟く。
「え?」
「だって糞を落とす瞬間に遭遇することもそうなければ、二人同時に目撃したなんて滅多にないだろ?」
「…それもそうすね」
 花垣はハンドルに上体を預けて、ちらりとマンションを見上げる。
「もう十日経ちますよ。いつまで隠れてるつもりなんすかね」
「それよりもあのマンションにいるっつーのがガセネタだったら俺はキレるぞ。それでなくても暑いし、眠いし、風呂入りてーのに」
「近所に銭湯あるじゃないですか」
 花垣は幸の方を振り返る。
「いいかげん家に帰りたいのよ、俺は」
「まあ、つまりは十日も署に詰めっぱなしってことですもんねぇ…」
 苦笑いをしながら花垣はそう言えばと続ける。
「僕、部屋のゴミ箱で何か繁殖してそうで怖いです」
「この時期はな、生ものは出がけに食い尽くしておくか、よそで捨てていくのが基本だぞ」
「保苑さん、よそに捨てるなんてマナー違反ですよ」
「そんなコト言ってられるのは恐怖を味わってないからだよ。いちいち守ってられるか。ま、お前んとこの署は目の前にクリーニング屋があるのが救いだよな」
 かりかりと首の後ろを掻きながら幸が気怠そうに息を吐いた。花垣は自分が誉められたわけでもないのに得意げな笑みを浮かべる。
 車内の空気をかき回す、クーラーの送風口からの風に幸の髪がふわふわと揺れていた。
「ったく何とろとろしてんだろうね。さっさと出てこいっつの」
 苛つきながら幸は目を細める。車内にカチカチと二、三回ライターの音を響かせたあと、幸は大きく煙を吐いた。
「あーあ。ホントなら僕、昨日は松木あやちゃんのコンサートに行くはずだったんですよぅ。泣く泣くチケット売りましたよ」
 とほほとばかりに花垣はうな垂れた。幸はそれには何も答えず、彼を横目でチラリと見ただけだった。
「保苑さんはいいっすよねー」
「何が」
「こないだの事件ですよ。最後の被害者でしたっけ? 保苑さんに挨拶してた女子高生。あの子めちゃくちゃかわいかったなぁー。えーと、確か…」
「…及川妃奈子(おいかわひなこ)」
「そうそう。名前もかわいいっすよね。あれから連絡取ってたりするんすか?」
「してない。…何が言いたいんだよ?」
 幸が呆れたような口調で言うと、花垣はべっつにーと口を尖らせる。
 確かに妃奈子はその辺のアイドルと比べても遜色のない容姿だった。その妃奈子を花垣がチェックを入れていないはずはない。やっぱりな、と幸は心の中で呟く。幸もチェックを入れていないわけではない。ただ、幸の場合は彼女自身についてではなく、彼女が漏らしていた兄の死についてなのだが。
 妃奈子の高校で起きた殺人事件から一段落ついて数週間。個人的に妃奈子の過去について調べてみようと珍しく乗り気になっていたところへ、今度は強盗殺人で偶然にも再び花垣達の署に舞い戻ってきたのだ。早く片づけてしまいたいのに犯人はこちら側の動きを察知したのか、かれこれ10日近くも身を潜めていた。
 既に山盛りになっている灰皿に強引に吸い殻を突っ込むと、幸はまた新たに取り出して火をつけた。
「保苑さん、体に悪いっすよ…」
「うん、分かってる。仕事の時はどうしても増えるのよ」
 花垣の心配そうな顔に、幸は苦笑いをした。
 そこへマンションから三十代半ばと思われる男が出てきた。所在なげにポケットに手を突っ込み、入り口の辺りで周りを窺うように立ち止まったあと、幸たちの車とは反対方向に向かって歩き始めた。
 幸は静かに無線を取る。
「こちら一班。ヤツが出てきました。駅に向かって歩いていくようですが」
『了解、応援に向かいます。気を付けて』
 先ほどとは打って変わって蓼倉の落ち着いた声が花垣にも聞こえた。
 ある程度の距離を取った後、のろのろと車を発進させる。
 急に男が細い路地に向かって走り出した。
「うわっ? 保苑さんどうします?」
「どうしますって、走れ」
「は?」
「は? じゃねえよ。あんな道、車は入れないだろ? 車はここに置いていく。取り敢えずお前が先に追い掛けろ」
「僕がですかぁ?」
「年寄りの俺に走れってか」
 花垣の目を見据えたまま、幸は斜め下方に勢い良く煙を吐き出す。有無を言わさぬ無言の圧力だ。こういうときだけ年寄りって、いつもは…となにやらごにょごにょ花垣が不満をこぼし始める。
「なんか言ったー? 速さならアンタのがダントツでしょうが」
 そう幸に言われて花垣はふと我に返る。ハンドルを持ったまま躊躇したものの、車を止めて盛大にドアを開けた。その姿を見ながら、頑張りが空回りしなけりゃいいけどなと一瞬思ったものの、すぐに幸は取り直した。
「蓼倉さんにマメに連絡入れろよ」
 そう言うと幸は男が向かっていった路地の方を顎で指して花垣を促す。
 花垣は緊張を帯びた顔つきで頷くと、綺麗なフォームで走り出した。だてにインターハイに出たわけじゃないよな、と幸はその後ろ姿を見送るようにして無線を取り上げた。

『こちら一班、男は路地を逃走中。花垣があと追ってます。どーぞ』
 それを聞いて蓼倉はくすりと笑った。
『なに?』
 幸のとんがった声が聞こえる。
「いや、了解。こちらはそろそろ駅付近に到着するから」
 そこへ割り込むように息を荒くした花垣が叫んだ。
『花垣ですっ! た、蓼倉さん! 見失いましたぁっ!!』
「なんで?」
『あのっ、犯人が信号渡ったところで赤になって、それで…』
「こういうときに信号守るアホがどこに居るんだよ…」
『おまけに渡りきれなかったおばあさんがですね…』
 蓼倉は花垣からの無線を無惨にも切った。やれやれと蓼倉はシートにしなだれる。
「と言うわけで幸、アンタも頑張って」

 幸は無線を握りしめた。
「花垣…。帰ったらシメてやる…」
 そう呟くと幸も車から下りる。
 土地勘のない人間に、路地裏に逃げ込んだ犯人をどう探せというのか? そう思いつつも、花垣が追っていった道に向かって幸も走り始めた。
 
 幸たち以外はいたって平穏そのものだった。走り抜ける道中、目の端にのんびりと散歩を楽しむ親子連れの姿が写る。まるで市街地での実戦さながらの模擬訓練でも受けているかのような錯覚を覚えた。そういった訓練は嫌いじゃなかった。少なくとも働いている気分にはなれたからだ。
 路地の間に見覚えのある姿が見えた。引き返すと、男と目があった。男は急に走り出した。
「てめっ、いい度胸してんじゃねーかよ」
 幸も後を追う。しばらく迷路のような複雑な路地を駆け抜ける。走りながら男が意外に足が速いことを知る。まともに渡り合っていては花垣の二の舞になりかねない。
「くそっ…」
 やっぱタバコの吸いすぎかなと自嘲しながら幸は走り続けた。
「ああっ、保苑さんっ」
 途中で花垣に出会う。幸は花垣を振り払うような仕草で花垣を追いやる。
「花垣、回り込め。じゃないとまた撒かれるぞ」
 花垣は頷くと元来た道を走りだした。
 しばらくすると男がたじろぐように立ち止まった。男のさらに前方に花垣の姿が見えた。助かったとばかりに幸は立ち止まって膝に手をついて大きく息をした。イヤホンを押さえながら幸は蓼倉に連絡を入れる。
「保苑です。追いつめました。応援は今どこに? 現場は…」
「保苑さんっ」
 幸が近くの電柱を振り返って、番地を確認しようとした瞬間、花垣が叫んだ。顔を戻すと目の前に男がいた。
「なに?!」
 避ける間もなく、幸は男に体当たりされて押し倒された。そのまま幸から逃れて立ち上がろうとする男を、咄嗟に逃がすかとばかりに服を掴んで引き倒す。そのまま起きあがって馬乗りになろうとしたところで、幸は男に顔をしたたかに殴られた。がこっと言う鈍い音がした。
「あ」 
 援護に入ろうとした花垣の手が一瞬止まった。
 男の背後からちらりと見えた幸は笑っていた。笑っていたのだが、その直前にどこかからぶちっという効果音が聞こえたのはきっと自分の幻聴に違いない、花垣はそう思った。
「顔は、殴んなよ?」 
 ほんの一瞬で花垣には何が起こったのか分からなかった。何発か、確かに鈍い音がしたから幸が男に殴り返したのだろうということは理解できたのだが、どこにどう打ち込んだのかはまるで見えなかった。花垣が目を凝らしたときには、既に男は馬乗りになった幸の下で苦しそうな表情を浮かべていた。

 蓼倉の耳に幸の殴る音が無線越しに伝わってくる。
「あーあ、やっちゃった。早く行かないと相手死ぬよ」
「は? 相手って…」
「君も覚えといた方がいいよー。幸はね、顔殴られると人変わるから」
「保苑刑事が…ですか?」
 蓼倉はへらへらと笑う。困惑してバックミラー越しに見つめてくる刑事に向かって、笑いながら急いで、と声をかけた。

 花垣は唖然として、その場に突っ立っていた。
 幸にさして呼吸が乱れた様子がないのが一層怖かった。
「花垣」
「は、はい?」
 思わず声の裏返った花垣に幸が反応して顔を上げた。
「こいつにひっくり返されたときに、あっちに飛んでっちゃったからお前の手錠かして」
 幸が顎で指し示した方を見ると、確かにいつの間にすっぽ抜けたのか幸の手錠が転がっている。花垣はすぐさま言われたとおりに手錠を渡した。男は息をするのがやっとという有様だ。見た目はそんなに殴られたようには見えない。ということは腹にしこたま打ち込まれたのだろう。その手慣れた幸の一連の攻撃に、花垣はこの人とだけはこういう場面で相手にしたくないと思った。
「…取り敢えず、これでやっと家に帰れますね」
 花垣はぽつりと呟いた。
「遅いんだよ」
 幸はゆっくりと立ち上がった。口元をもごもご動かすと、なにやら手に吐き出した。
「あの、大丈夫ですか…?」
 おずおずと花垣が問いかける。幸は目を細めて手の平に乗せたものを見つめた。
「クソ…」
 手を握って、そのまま上着のポケットにしまいこんだ。花垣が尚も問いかけようとすると幸はキッと振り返った。その目に見据えられて花垣は固まった。
「差し歯が取れた」
「は?」 
 ちょうどその時、蓼倉の乗った車と共に応援が駆けつけた。幸は蓼倉に手招かれてのろのろと歩き始める。
 花垣はその後ろ姿を見送るように立ちつくしていた。自分の横を何人かの刑事や警官が走り抜けていく。背後で被疑者確保、という大きな声が聞こえた。


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