----- ファム・ファタールと羊の夢


   >>> 11



 しばらく車を走らせていると、ネリネが唐突に口を開いた。
「あの、私、直してもらえませんでした」
「らしいな」
「さっき、戻ってきたあなたの姿を見たとき、また息が苦しくなりました」
「苦しいだけか」
 真っ直ぐ前を見たまま、リュウザキが静かに言った。
「……いいえ。苦しいけれど、とても嬉しかった」
 一瞬、哀しそうな表情を見せ、俺もだとリュウザキが呟く。その言葉にネリネは目を見開き、そして柔らかく微笑んだ。
 ネリネは窓の外を見た。斜め上の電車をじりじりと追い越していく。その光景に、いつか電車の中から車を見下ろし、見知らぬ世界へ想いを馳せていたことを思い出した。それは今、思いも寄らぬ形で実現している。
 ネリネは助手席で足を伸ばし、つま先を揃えると床から浮かせてみる。そのまますとんと下ろし、所在なげに小さく息を吐いた瞬間、ズキリと頭部に痛みが走った。前のめりになるネリネにリュウザキが気付いた。
 大きく息をして、ネリネがわずかに顔を上げる。うつろな目はリュウザキを見ていない。
「私は、病院に行かなければなりません」
「ああ、分かってる」
 ネリネの抑揚のない声を聞いて、またかと少し苛立ちを覚えながらリュウザキは返した。だがネリネはその棘のある物言いに臆することなく、さらに続ける。
「私にはメンテナンスが必要です」
「分かってる」
 前を見据えながらリュウザキは声を荒げた。車内に響く声にようやくネリネが体をびくつかせて反応した。うつろな目に生気が戻った。殆ど聞き取れない声でなにかを呟きながらネリネが体を起こす。シートに体を預けると、髪を掻き上げながらごめんなさいとネリネは呟いた。
 リュウザキが微かに眉間にしわを寄せた。
 二人を取り囲む空間は、途端に重苦しい空気で満たされた。ネリネは頭部に痛みが走った瞬間、意識が朦朧として自分が何を言ったのかよく分からなかった。言葉を発したことは覚えている。それは確かだったが、口にした瞬間に記憶も一緒に出ていってしまったのか、その言葉が何かは思い出せない。
 リュウザキの声でふわふわとした感覚の世界から現実へ引き戻されたが、彼を怒らせるような事を口走ってしまったらしいということだけが、ネリネの中に残された。
 不意にリュウザキの舌打ちが聞こえ、ネリネは顔を向けた。その視線に気付き、リュウザキは口元を歪めた。
「ドライブは終わりだ」
「え……?」
「俺かお前に、発信機でもついてるのか?」
 まだ事情が解せないネリネに、リュウザキはバックミラーを顎で指し示した。
「さっきから胡散臭いのが一台、ついてきてる」
 それを聞いて、ネリネは運転席と助手席の間から後ろを振り返った。後ろにはどこでも見かける国産の白いセダンや業者のトラックが続いている。ネリネにとってはどれが胡散臭いのか見当もつかなかった。
「お前の飼い主は何を企んでる?」
 リュウザキが再び口を開いた。それらしき車を見つけることが出来ず、諦めて体を前に向け、乱れたスカートの裾を直していたネリネは顔を強張らせる。
「別にお前を責めるわけじゃない。普通は違法ロボットが俺達の手に渡れば、ロボットなんてほっぽって逃げだそうと必死になってるもんだ。間違っても取り戻すためにカーチェイスをやらかそうなんて馬鹿な考えは起こさない」
 そう言うと、車はぐんと加速した。
「そろそろ、潮時だな」
 直線の道をただひたすら突き進む。次第に車の通りも少なくなってきた。真新しい舗装が目に飛び込む。遠くにコンビナートが見えた。海が近い。それに気がつくとネリネはリュウザキを見た。
「気がついたか? お前の望み通りだよ」
「だけど……、それはいけないことなのでしょう?」
「なぜそう思う。お前はそれをひたすら望んできただろう。何を躊躇することがある」
「あなたが、そう望んだから」
「俺が?」
 突然、リュウザキは急ブレーキをかけると車を止めた。ハンドルに手をかけ、ネリネの方に体を向けるとリュウザキは声を上げた。
「ふざけるな、俺が望んだだと?」
「そうです。あなたこそ、どうして? ナカバさんから聞きました。本来なら、私はとっくに動きを止められて今頃倉庫で眠ってるって」
「それはお前についてのデータが不足していたからだ。自分でもよく分かっただろうが、お前はロボットの中でも特殊なケースだ。俺らにとっちゃ降って湧いた災難みたいなもんだよ」
「だから私をあの人の所へ戻すのですか?!」
 ネリネは声を張り上げた。
「あなたが私を連れ出したんでしょう、あそこから」
 リュウザキはネリネを無視するようにまた車を走らせ始める。
「あなたに連れ出されるまで、私は『人間』として暮らしてきました。でもそれは本当の私じゃありませんでした。検査を繰り返し、いつ完治するのかも分からない病気を抱えていると吹き込まれて、いろんなことを制限されていました。まるで籠の中の鳥のように、一見穏やかに見える暮らしは、自由ではなかったんです。私はそういう現状から抜け出せる日が来ることをいつも待ち望んでいました。あなたは私を『ロボット』だと蔑んで軟禁したけど、嫌ではなかった。扱いも乱暴だったけど、それが逆に私を『人間』だと思わせました。生きてるという実感があったんです。閉じこめられていても、私は自由だったんです」
「でもお前にはメンテナンスが必要だ。そうだろう?」
 リュウザキは全てを否定するかのように、冷ややかな声でそう言った。ネリネは息をくっと詰まらせた。
「ある意味、ゴトウの行いは正しい。まだ不完全なお前を一人の人間のように扱うには、まだ支障が多いからな。お前は自由を得たかもしれないが、それは生命維持と引き替えだ。代償はあまりにも大きいと思わないか」
 リュウザキはそう言って、唇を軽く噛んだ。ネリネに宛てた言葉は、そのまま自分に言い聞かせているようなものだった。
 最後の望みの綱だったナカバにもネリネの不具合は治せなかった。彼の技術力はREAの研究スタッフをはるかに凌ぎ、世界規模で見ても五本の指に入るとまで言われている。そのナカバですらお手上げなのだ。機関に持ち帰ったところで、どうにもならないのは分かり切っていた。もともとデータの収集は行っても、生命維持を続行させることはしないからだ。そうなると、残る選択肢はひとつしかない。
 今、こうして敵地へ向かい、ネリネの『命』を救うべく、ゴトウの前に屈しなければならないのは、屈辱以外何ものでもない。この世界において最強の機関に属する身でありながら、自ら負けを認め、白旗を揚げて捕虜を差し出すような真似を、まさか自分が行う羽目になるとは。
 だが、その後の対処についての策が全く無いわけではなかった。上手くいけばREAの管轄の元でネリネに関する研究を続けさせることは出来る。そのためにはこんなところでネリネが『死んで』しまってはならない。
「……『惚れてる』って何ですか」
 押し黙ってしまっていたネリネが、不意に呟いた。
「息が苦しくなったりするのは、私があなたに『惚れてる』からだとナカバさんが言いました。それは故障ではなくて、感情だと。私にはそれがどういう事なのか分かりません。だけど、故障でないならメンテナンスは必要ありません」
 リュウザキは何も答えず、口を真一文字に結んだまま車を走らせる。ネリネはリュウザキの腕を掴んだ。
「お願いです、病院には行きたくありません」
「俺にどうしろと言うんだ。病院が嫌なら当初の目的通り、倉庫行きがいいのか」
 突き放すようにリュウザキが言葉を返すと、ネリネは唇を振るわせた。
「私はただ、あなたと……」
 ネリネが言いかけたとき、突然、車に衝撃が走った。
 車が激しくスピンする中、二人は意識を失った。


*   *   *


 リュウザキはゆっくりと目を開けた。
 蛍光灯が眩しく光る。白い天井が見えた。ひんやりとした湿っぽい床の感触が背中越しに伝わってくる。
 体が軋む。後部座席に突っ込んできた車のスピードから察するに、ナカバの車は廃車だろう。そう思うと溜息のひとつもつきたくなるが、肋骨が折れているのか、息をするにも辛い。腕を動かそうとして右肩に激痛が走った。脱臼しているようだ。
 ゆっくりと頭を動かして辺りを見渡す。そこは白い箱のような、窓ひとつない場所だった。中央に金属で出来た大きなテーブルが見える。身なりに変化はないことから、事故の後、この部屋の隅へ無造作に転がされたままらしい。
 ネリネの姿はなかった。
 病院へ行きたくないと必死に懇願する顔が浮かんだ。そしてその少し前に、生気のない目で病院へ行かなければならないと発した顔。
 どちらもネリネだが、どちらが本当の姿なのか分からない。

『私はただ、あなたと……』
 
 事故が起きる直前にネリネは何を言いかけたのだろうか。
 いっそ、これが夢であればいいと思う。リアルな夢。目が覚めれば、無機質なものを消すために町中を駆け回る日々が待っている。自分が潜在的に持っていたスキルを最大限活用できる仕事だ。実際、その暮らしぶりも報酬も悪くはなく、不満など無い。
 だが本当にそうだったのだろうか?
 ネリネは自分と過ごした時間に『生』を見いだしていた。しかし、本来のリュウザキの暮らしに、そういったものはない。『生』を感じ取れるとすれば、体を重ね合ったことくらいだ。ネリネはその行為に何を思っていたのだろう。
 そしてネリネの体の異変は不具合でなく、感情だとするなら、それは自分の行動の如何によっては解決し得ることだったのだろうか。
 ロボットが人間に恋をすることは可能か?
 答えはノーだ。リュウザキはそう考えている。ある特定の条件に対して、好意的な反応を示すようプログラムすることは出来るだろう。だがそれはあくまでもプログラムだ。人間がそう振る舞うよう仕組んだことであって、自発的に生まれてくるものではない。
 自分はどうなのだろう?
 ネリネに対して抱いている、このもやもやとした終着点の見えない気持ち。それを恋心というのならば、猟師が獲物に恋することはあるのだろうか。否、そんなことはあり得ないはずだ。
 いや、あり得なかった。
 ただ、そばにいられれば良かったのだ。
 リュウザキは目を閉じた。
 ネリネは脳以外は生身の人間と変わらない。無傷では済まなかったはずだ。無事なのだろうか?
 そして、今さらながらに気付く。ここはどこなのか?
 微かにドアの開くような音がした。続いて、こつこつという硬い足音が床から体に響いて来る。 
 リュウザキは目を開けてその音の方へ顔を向け、そして……息を飲んだ。


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