----- エクストラホット!


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 保苑さんのいじわる。

 夏休みも半ば過ぎ。
 古めかしい、いかにも年期のある大きな門の前にぽつんと立ちつくして、妃奈子は心の中でそう呟いた。門の傍の大きな木では、妃奈子をあざ笑うかのように蝉が激しく鳴いている。
 手にしていた荷物を持ち直して、妃奈子は溜息をついた。
 門の中の家も、都心に近い場所にしては珍しい、大きな古い日本家屋のようだ。木で出来た古ぼけた門戸がぴしゃりと閉じられていて、中の様子は窺うことが出来ない。威厳のある佇まいに加えて、黒光りする屋根瓦がどこか人を寄せ付けない印象を与えていた。生まれてからずっとマンション暮らしだった妃奈子にとっては、日光江戸村、はたまた太秦映画村にでも迷い込んだような気分だ。
 いじわる、と幸に当たるのは筋違いだということは分かっている。だが、さっきからこの家の敷地内にあると思われる場所から、ドスの利いた声がひっきりなしに聞こえてくる。それがどうにも落ち着かず、チャイムを押す気になれないのだ。
 そのうち、空手衣に身を包んだ集団がかけ声と共に近付いてくるのに気がついて、妃奈子は体を硬くした。妃奈子の傍を通り過ぎながら、集団は物珍しそうな目を一斉に妃奈子に向けていく。その視線に思わず妃奈子は後ずさりをして、扉にどんと背中をぶつけた。集団は淡々と声を発し続け、そのまま門の前を素通りしてさらに外周を走る様子だった。
 彼らの背中を見送ると、妃奈子はふーっと長く息を吐いた。
 いつまでもここに立っているわけにもいかない。
 ようやく意を決してチャイムを押そうと、扉から背中を離した瞬間に、扉ががらりと開いた。
「あら」
 中から着物姿の年輩の女性が出てきて、妃奈子は振り向いた。
「あらあら、まあ」
 女性は目を丸くしたまま、しげしげと妃奈子を見ていたが、はたと思い当たったのか妃奈子の肩をぽんと叩いた。
「及川妃奈子ちゃん! でしょう?」
「あ、えと、はい。そうです。あの、今日からお世話に…」
「まあまあ、暑い中よく来たわねぇ。疲れたでしょう? さぁ、入って入って!」
 そう言うやいなや、戸惑う妃奈子をよそに荷物をさっと手に取ると、からからと笑いながら妃奈子を中に押し込んだ。
 …もう、引き返せないんだ。
 ここに来ることが嫌だったわけではない。後悔しているわけでもない。
 だが。
 保苑さんのいじわる。
 再び、心の中で妃奈子は思わずそう呟いた。
 

 その晩遅く、その家の娘である佐久間鹿恵(さくま かえ)が帰ってきた。よっこらしょ、とバックストラップの靴を脱ぎ捨てると、玄関まで出迎えてきた妃奈子に笑いかける。
「妃奈子ちゃんようこそ。道場は敷地内にあるけれど、むさ苦しい野郎共がここに足を踏み入れることはないから安心して」
 そう言うと、佐久間はおかーさんごはーんと間延びした声を上げた。
「鹿恵ちゃん!」
「なーに」
 ヤロウだなんて言葉使いがうんぬん、と母親に小言を言われだしたが、いつものことなのか佐久間はさらりと聞き流している。その様子を窺っていた妃奈子は体を硬くしたまま尋ねた。
「あの、保苑さんは?」
「え? ああ、なんだか忙しいみたいで、昨日電話でよろしくって言われたきりなんだけど。ウチにいたら私みたいになるかもだなんて、失礼しちゃうわよねぇ」
 からからと笑う佐久間の後を、妃奈子は落ち着かなさそうについて回る。
「まあ、ウチのお母さんの趣味に引きずり込まれなければ大丈夫よ」
 唐突にくるりと振り向いた佐久間にぶつかりそうになって、妃奈子は身をすくめた。
「趣味、ですか?」
 キョトンとする妃奈子に佐久間は声のトーンを落とした。
「一見、和装で品よくまとめてるけど、一皮剥けば、ピンハ好きの乙女だから」
 はあ、と妃奈子が脱力したように佐久間を見上げる。
「妃奈子ちゃんなんかいいカモよ」
 ほんっと似合いそうだもんね、と佐久間は目を細めた。
 ピンクハウスくらいなら別に、と妃奈子は思ったが、佐久間にお茶碗を手渡している割烹着姿の人が、レースやフリルやクマなどであしらえられた服を身に付けていたりするのだろうか。その姿があまりにも想像しがたくて、妃奈子はひっそりと眉根を寄せた。


◇ ◇ ◇


 佐久間の家は外観と違わず室内は全て和室で、妃奈子にあてがわれた部屋も絨毯が敷かれているものの、その下は畳敷きだ。結婚して家を出た佐久間の兄が使っていたというその部屋は、すっかり片づけられていて本棚とベッドが置かれている程度の簡素なものだった。
 翌朝、窓を開けると中庭を挟んで目の前に道場のある建物がそびえていた。その窓のほとんどが開け放たれていて、上半身裸の男の子達が部屋をうろついているのがちらりと見える。
 思わず目を逸らせた妃奈子は目線を地面に向けた。
 二人の高校生くらいの子がTシャツにハーフパンツという出で立ちで入り口にしゃがみ込んでいた。そのうちの一人が何気なく空を見上げ、そして妃奈子の方に気付いた。
「あ、及川」
 名前を呼ばれ、咄嗟に妃奈子は窓から身を引いた。なぜ自分の名前を知っているのだろう? ばくばくと脈を打つ体を抱え込むようにして窓の下にしゃがみ込んでいると、またおいかわー、と呼ぶ声がした。
 恐る恐る窓の外を覗くと、さっき名前を呼んだ方が立ち上がって手を振っている。
 笑って細くなった目に見覚えがあるような気がする。しばらく考えて、同じクラスにいたかもしれない、とようやく思い出した。しゃがんだままの方は違うクラスか? 見覚えがない。とはいえ、予想外の人物に遭遇してすっかり動揺してしまった妃奈子は、無理矢理唇を上に引っ張り上げるような笑みを浮かべて、そのまま部屋の奥に引っ込んだ。
 学校も近いし、ここに通う子がいたって不思議はない。ないが、向こうにしてみれば自分がこんな所にいるのは大いに不思議があるはずだ。
 妃奈子は頭を抱え込んだ。


◇ ◇ ◇


「…なあ、あれやっぱ及川だよなぁ?」
「だね」
 妃奈子に声を掛けた主、咲野佳寿(さくや かず)は、目を輝かせながら足元にいる土師駿二(はせ しゅんじ)を見下ろした。佳寿の目はいつも輝いているように見える。動作もそれに伴ってオーバーアクション気味で、彼はどこにいても目立つ。それとは対照的に、駿二は佳寿の対になるかのようにひっそりとその場にいた。暗いわけではない。むしろ佳寿の傍にいるからこそ、その控えめさが引き立っていて、ある種の存在感を生み出していた。
 佳寿の傍で膝を抱えて座っていた駿二は、嫌な予感がする、とほんの少し頭の片隅で思っていた。
「なんで、あいつがこんなとこいるんだ?」
「僕に訊かないでよ」
 静かに駿二は立ち上がった。佳寿ははしゃいで再び向かいの家の窓の方を見上げた。
「もしかして、及川もやんのかな? 空手。すげー意外っ!」
「やるなら、あの家にはいないでしょ」
 え? と佳寿は駿二の方を振り返る。駿二は行こう、と建物の中に入っていく。慌てて佳寿も駿二の後に付いていった。
 古めかしいあの家の窓から顔を覗かせてる姿はまるで幽霊みたいだ。
 駿二はぼんやりとさっきの妃奈子の姿を回想した。
 なんだか不気味。
 顔をしかめていると、佳寿がしゅんーと声を掛ける。
「ここだけの話、及川って、かわいくねぇ?」
 不気味だと妃奈子を評した途端に、佳寿にそう言われて駿二は立ち止まった。
「学校じゃ誰も言わないけどさ。実はみんなそう思ってんじゃないかって俺は睨んでんだよな」
「そうかな。僕はそうは思わない」
「しゅんは女の趣味が悪いんだよ」
「カズに言われたくないよ」
 ムッとして駿二は更衣室に向かう。どういう意味だよ、と佳寿は背後から駿二に飛びついた。
「恋もしたことないようなしゅんには分かんねーよ」
 どうせ僕には分からないよ。
 駿二は背中にへばりついた佳寿を引きずって歩きながら思った。


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