----- 君たちは嘘つき


   >>> 4


「ねえ、亜美が前に言ってた“参考書”、あれ何の教科だっけ?」
 妃奈子は体育の授業中、体育館の隅に座って、バレーボールの試合を何となく目で追いながら唐突に切りだした。
「“参考書”?」
「うん、ほら先輩から聞いたって…、えと、補習受けるとくれるって言う」
「ああ、確か化学だよ。でも二年と三年の理系クラスだし、うちら一年には関係ないよ?」
 亜美は変なものでも食べたのかと言いたげな様子で妃奈子をしげしげと見る。
「…そっか、数学だったらいいなって思っただけだよ。中間テスト散々だったんだよね」
 妃奈子がぼそぼそと呟くと亜美も笑いつつも同意する。
「言えてる。あの問題の多さにはマジでキレるかと思ったね」
 少し離れたところで笛の鳴る音がした。教師が交代と叫ぶ。試合を終えた子達が何? と寄ってきた。
「もしかして保苑先生の話? 全然プライベートのこと教えてくれないんだよね、いいじゃん彼女いるかどうかくらい教えてくれたって。ねえ?」   
 保苑という名前が出てきて妃奈子は昨日の件を思い出し、心臓が飛び出そうになった。
「クールでさー、かっこいいよねぇ」
「えー。ああいうのって絶対女たらしだよ」
「やー!! やめてー! イメージ崩れる。そんなことない」
「保苑先生なら、たらされてもいい…」
「この学校に採用されないかな。そしたらあたし、社会はめちゃめちゃ張り切るよ」
「あたしもー。神田うざいんだもん」 
 妃奈子はみんなの話を、抱えた膝の上に顎を乗せて黙って聞いていた。
 確かに女子生徒達は必死に追っかけ回していたが、幸について何一つ情報は手に入らない様子だった。教室では無表情に近い幸が、何かを探り出そうとしている真剣な面持ちや、いたずら小僧のような笑みを自分に見せたことを思い出して、妃奈子は唐突に口を挟んだ。
「ねえ、センセイから何か訊かれた?」
「そう言えば噂話ってナニ? って訊かれたな」
「いくら保苑先生でもしゃべれないけどさ、唯一話しかけられたのがそれってちょっと悲しい」
「だよねぇ…」
 昨日以降、自分の知られたくないことをあっさり引きずり出されてしまい、妃奈子は動揺していた。あんなに怖い思いをしたのは何年ぶりだろうと考える。そのくせ、腕にしがみついた時に、なんとなく安堵感を感じたのが自分でも信じられなかった。これ以上、彼に関わるのは良くないことなのかも知れない。妃奈子はぼんやりとそう考えた。
 また笛が鳴った。妃奈子は亜美とともにだらだらとコートに向かった。
 

 更衣室はある種、トイレと同じ空気を生み出している。生徒達だけの特別な閉鎖された空間。ここで交わされた情報は室外に漏れることはめったにない。特に噂の話はおおっぴらにしてはいけないのだと、誰に言われるでもなく、みんな口を閉ざす。
 生徒達は目に見えない圧力で支配されていた。それゆえに話が校内の教師達の耳に届くことはほとんどない。だが抑圧は外に出るとそれを蹴散らすように発散される。それが噂が校内よりも校外で大きく広がっていった要因だった。
「ねえ、“参考書”を貰った人はいないの?」
 妃奈子は乱れた三つ編みを結い直しながら亜美に再び尋ねる。
「いるはずだよ。どうしたの、妃奈子。なんかあった?」
「ううん、ただ興味持っただけ。どういうことが書いてあるのかなって」
「本じゃないよ、それ」 
 別の子が話に割り込んできて言った。
「“参考書”の話でしょ? 三上先生の」
「知ってるの?」
「うん、友達のお兄ちゃんが買ったって。あれ、貰うんじゃなくて、買うんだよ」
 妃奈子と亜美はきょとんとした。
「ねえ、それって成績上げてくれる先生の話?」
「5階のある教室に行くと居ないはずの先生がいるってやつ?」
「あほ、それは幽霊が出る場所でしょ? こないだのあの教室だよ。マジでやばいよね」
 次から次へと出てきて妃奈子は内心焦る。今までその類の話は何となく聞き流していただけに、全部覚えて幸に伝えきれる自信がなかった。
「その友達のお兄さん、いくらで買ったの?」
「何よ買う気?」
「だって今から手に入れとけば、来年、余裕ってことじゃない? それって」
 妃奈子は含んだ笑いを浮かべた。
「うわーこの子、悪党だよ」
「だって、そう言うことでしょう?」
 亜美は唖然として静かに微笑を浮かべる妃奈子を見つめた。


◇ ◇ ◇


 幸は屋上でタバコを吹かしていた。出入り口の、その分だけさらに高くなった屋根の部分に上って仰向けに寝転がっていた。左腕を枕代わりにし、右手にタバコを持ちつつぼんやりと空を眺める。高校生だった頃もよくこうして授業をさぼっては屋上に逃げていた事を思い出して、自嘲気味に口元を歪めた。
 午後の空はぎらぎらと光を乱反射していて、雲が吹き消されるかのように勢いよく流れていた。風が生ぬるく吹いている。
 妃奈子はあの時、協力すると申し出た。男嫌いを公言してはばからない彼女が、どういう風の吹き回しでそういうことを言ったのか、幸には見当もつかなかった。いや、妃奈子は男が嫌いなのではない。男が怖いのだ。極力関わらないようにしていた結果が男嫌いととられただけなのだろう。
 校内の噂と関連があるのかはともかく、自分が行おうとしていることが、妃奈子が恐れているなにかを取り除くことにでもなるのだろうか。
 情報が生徒側から入ってくるのだから願ってもないチャンスなのだが、渦の中心に巻き込まれていって欲しくないという思いが、見上げている雲のように浮かんでは流されていく。この間のように妃奈子を恐怖に陥れるようなことはもうしたくないと、なぜか思った。
 ここ数日妃奈子と接してみたものの、彼女が笑いかけてきたことはない。黒い澄んだ瞳からは敵対心が垣間見えていたし、赤い唇からは拒絶するようなつっけんどんな答えしか返ってこなかった。人のことは言えないにしても、やはり自分を守る為だろうか。その姿が必死なだけに幸は胸が痛んだ。
 そのしがらみから解放された時、彼女はどんな表情をするのだろうか。
 幸は溜息混じりに煙を吐く。
 早くこの学校からケリをつけて去りたかった。
「あ、こんなところにいた」
 不意に声がして幸は半身を起こして声の方を見る。梯子の所から頭を覗かせて中尾が笑っていた。幸は気怠く髪を掻き上げた。そういえばこの男も何故自分に寄ってくるのか分からなかった。監視されているような気がして何となく気が滅入る。中尾は大きく息を吐き、上ってくると幸の横に腰掛けた。
「今日はもう授業ないの?」
「ああ、午前中で終わり。ほんとはレポート書かなきゃいけないんだけどね」
「僕もだよ。そう言えば、理科の彼の話聞いたかい。ほら、例の生物部」
 今日は珍しく中尾もタバコを取り出した。火を付けると思惑ありげに幸を見る。マルボロライトじゃセブンスターはキツくて当然だろうと幸は横目で見ながら思った。
「高校生レベルじゃないってさ。専門が生理学とかで、ほぼ大学で教える内容に近いって。彼、卒倒しそうになったらしい」
 幸は鼻で笑った。お互いがほぼ一本吸い終える頃、幸は立ち上がった。中尾が物足りなさそうに見上げる。
「悪いね。一時間くらいここでぼーっとしてたから。神田先生にどやされる」
「今度、教生の連中で飲みに行かないかって」
「考えとく」
 幸は屋上を後にした。


「保苑せんせーい」
 社会科準備室に向かう途中で、幸は呼び止められて振り返る。
 神田のクラスの女子生徒達が三人、顔を輝かせながら駆け寄ってくる。
「なにか?」
「これ良かったら食べてください」
 家庭科の授業で作ったというお菓子を無理矢理押しつけられて、幸は苦笑いしつつも礼を言って受け取る。学生時代に戻ったような気がした。そういえば、こういう類は部活動の時に、みんなにばらまいていたのをあの頃の女子生徒は知っていただろうか。悪気はないのだが、食べきれずに捨てるくらいなら誰かの胃袋に収まった方がましだというのが幸の昔からの考えである。これも戻ったら神田達に分けようと思っていると、彼女たちは顔を赤らめながらそれじゃあ、と去ろうとする。
「あ、ちょっと」
 期待感を込めて振り向く彼女たちに、幸は一瞬、躊躇した。
「及川は、過去に何かあったのかな?」
「え?」
 女子生徒達は予想もしなかった問いに怪訝な顔をした。
「妃奈子ですか?」
「確か男嫌いだって言ってたろ」
「ああ…、お兄さんが死んだってことくらいしか…」
 先頭にいた子がおずおずと話し出すと、横にいた子が驚いた顔をした。
「あたしは同じ中学だったから知ってるけど、妃奈子はそのこと触れて欲しくないみたいで。高校じゃ知ってる子はほとんどいないと思います。…あんた達も言っちゃ駄目だよ」
 後半はクラスメイトに言い、驚いた子は無言で首を縦に振る。
「何かあったって聞かれれば、それしか思い当たりません」
「…そっか、さんきゅ」
「あの、妃奈子が何か?」
 不安げな顔を浮かべる彼女達に、幸はうっすらと笑みを浮かべた。
「初対面であんなコト言われたからね」
 じゃあ、と手を振る幸を見送りながら、女子生徒達はわずかな幸の笑みに呆然と立ち尽くしていた。


◇ ◇ ◇


 放課後、妃奈子は三階の化学準備室の前で固まっていた。ノックをしようとして手を伸ばし、既の所で引き戻しという動作を幾度となく繰り返していた。
 その後の情報によると、三上は一人で訪れた者でなければ決して売りつけないという。それを聞いて一度は賛同していたクラスメイトも、あっという間に辞退した。それでも妃奈子は手に入れてみせると言い切った。だが、いざドアの前に立つと、一年生にそう簡単に売りつけてくれるものではないのかもという不安が頭をもたげた。ましてや妃奈子は三上と面識もない。
 ちょっとした好奇心からここまで来てしまったものの、体の半分はもうやめて帰ろうと訴えていた。なぜ協力するなどと言ってしまったのだろうか。別にこんな事までする必要も義理もないのに、体のもう半分は踏みとどまろうと踏ん張っている。
「そこでなにをしている」
 突然、咎める口調の声で呼びかけられて妃奈子は体をびくつかせた。振り返ると三上が立っていた。三上はレンズ部分が小さい銀縁の眼鏡を軽く押し上げて妃奈子を見やる。
 二十代後半の三上は痩せぎすの男で、女子生徒を明らかに好色の目で見るので薄気味悪いと鬱陶しがられていた。何度かセクハラまがいの行為をされそうになった生徒もいる。しかしそんなことは一年生達が知るはずもない。当然、妃奈子も三上がそんな人物だとは思いもしなかった。
 三上は妃奈子を頭の先からつま先まで、まるで品定めでもするかのようにじろじろと見る。途端に妃奈子はここに来たことを後悔した。
「何をしに来たんだ?見慣れない顔だが一年か?」
 妃奈子は無言で頷いた。尚も三上は訝しげに妃奈子を見たが、その目線はほとんど妃奈子のスカートから伸びる足で止まっていた。
「来年、理系に進もうと思ってるんです。でも理科って苦手だから、落ちこぼれる前に、参考書を頂こうと思って、来ました」
 妃奈子は微かに声が震えているのを自分でも感じた。三上は目を見開いた。
「お前、それ誰から聞いた」
「クラスの子が、友達のお兄さんが買ったって…」
 三上は暫く無言で妃奈子を見つめていたが、やがて妃奈子の横をすっと通るとドアを開け、妃奈子に入ってくるように促した。
 化学準備室は得体の知れない薬品の匂いが充満していた。三上は黙って鍵の掛けられた薬品庫を開ける。奥の方からビニール袋に入れられた切手シートのような紙を取り出した。妃奈子が不思議そうな顔をしていると、三上は不敵な笑みを浮かべた。
「お前が言ってる“参考書”とはこのことか? 一体どう伝わると“参考書”になるんだろうな。参考にもなりゃしないぞ」
 妃奈子は一歩、後退る。三上は紙の一部をを小さくちぎると妃奈子に差し出し、いらやしく笑いながら言った。眼鏡の奥の小さな瞳が妃奈子を捉えている。
「試しに口に含んでごらん、参考になるかどうか。ここでじっくり見ててやるから。金はいらないよ。さあこっちにおいで」
 妃奈子は動悸を抑えるように両手で強く胸を抱え込んだ。その姿を三上は舐めるように見る。妃奈子に近付くと自分の方に引き寄せようと手を伸ばした。妃奈子はさらに後退した。
「何も怖いことはしないよ。大丈夫、楽しいだけさ」
 幸の時とはまた違った恐怖だった。三上の姿は生理的な不快感をもよおし、気持ち悪いと感じた。めまいがしてそのまま倒れそうになる。妃奈子は崩れ落ちそうになる体を何とか引き起こすのに精一杯だった。鼓動が早鐘のように体中に響く。
 三上の息遣いが激しくなる。タバコのヤニとコーヒーの混ざった息が鼻を掠めた。気付けば三上はかなり近付いてきていて、妃奈子は悲鳴を上げそうになった。
「なんだよ、んー? そう逃げなくてもいいだろう? ちょっと大人しくしてればすぐ済むことさ」
 三上は妃奈子の腕を掴もうとした。
 妃奈子は思わず目を閉じ、伸びてきた手をやみくもに腕を振り回して必死で振り払った。手がぶつかって紙片が床に落ちた。三上はそれにはもう構わず妃奈子に覆い被さろうとする。妃奈子は目の端で紙片を捉えると、三上から逃げるようにしゃがみ込み、腕を伸ばして紙片を掴んだ。そのまま転びそうになりながら部屋から飛び出した。
 三上の罵声が背後で聞こえた。
 妃奈子は恐怖で振り返ることが出来なかった。呼吸がうまく出来ず、足元がもつれかけたが妃奈子は走った。必死で階段を掛け上り、四階にたどり着いたときには三上の声も聞こえなくなっていた。
 


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