----- 君たちは嘘つき


   >>> 5


 妃奈子は真っ直ぐ、社会科準備室に向かって走っていた。たどり着くと肩で大きく息をしながら、少しほっとした表情で入り口の前で立ち止まる。なぜか、ここまででくれば大丈夫だという意識が妃奈子にあった。ドアを叩こうと小さな紙片を掴んだ手を振り上げる。その手首を突然何者かに掴まれ、妃奈子は悲鳴を上げた。
「待てっていったろ、何で逃げる?」
「や、やだっ。やめて」
「及川」
 そこで妃奈子は我に返った。見上げると幸が立っていた。
「センセ…イ?」
 途端に目の前が揺らいだ。その場に崩れかけ、幸が抱きかかえるように支えると、妃奈子はその腕にしがみついた。今度は一体何をやらかしたのかと幸は妃奈子を見やる。
「アンタがすごい勢いで走っていくのが見えたから追っかけたんだけど、俺の声聞こえなかったの?」 
 妃奈子は何も答えず、首を大きく横に振った。
「顔色悪いぞ。会議で誰もいないから休んでいきな」


 幸は妃奈子を促し部屋に入った。自分の椅子に座らせると落ち着かせるためにお茶を入れる。妃奈子はせわしなく視線を泳がせ、やがて乱れた衣服を整えはじめる。幸はお茶を渡しながら、ふと、先ほどから妃奈子が片手を強く握りしめているのに気付いた。
「及川、その手は?」
「あ…」
 妃奈子も今気付いたように自分の手を見る。すぐには開こうとはせず、幸を見上げた目が怯えている。
「“参考書”を手に入れて…。でも、これ…」
 幸は妃奈子の前にしゃがむ。妃奈子の手を取るとゆっくり開かせた。小さな紙片は汗ばんだ妃奈子の手の中で少し折れ曲がっていた。幸はそれを手に取る。途端に幸の顔が曇った。妃奈子の腕を取ると強引に流し台の前まで引っ張っていく。水を勢いよく流し、握っていた方の手を水に晒す。妃奈子は訳も分からずされるがままになっていた。幸は横で妃奈子を睨み付けながら言った。
「これどこで手に入れた?」
 妃奈子は目を見開き、口を鯉のようにぱくぱくさせていたかと思うと、堰を切ったように喋りだした。これまでの経緯を一気に話し終えると幸の顔色をうかがう。
 幸はタバコに火を付け黙って聞いていたが、その間ずっと険しい顔をしていた。
「俺は確かに秘密を教えてくれとは言ったけど、こういうことをしろとは言ってないよ。もし逃げ切れなかったらどうするつもりだったんだよ?」
 幸に強い口調で言われ、妃奈子は俯いた。
「ごめんなさい。…あんなことされるとは思わなかった」
「あれが何か分かる?」
 妃奈子は首を横に振る。幸は机の上に置いた小さな紙片を見つめた。
「あれはLSD。ドラッグだよ」
 妃奈子は顔を上げ、ぽかんとする。某芸能人が所持していた騒動で名前はそれなりに広まっているはずだが、この小さな紙切れがそうだとはにわかには信じられない様子だった。
 幸は机の端に腰掛けると腕を組んで溜息をついた。
「これは大抵、舐めて使用されてるものだけど、本来は皮膚に付けて吸着させるものだ。アンタ今まで握りしめてたから、もしかしたらやばいかもしれないよ。果たして水で洗い流したところで成分が抜けるんだかどうだか」
 幸は妃奈子を真っ直ぐ見据えると、淡々とそう告げた。
「…そんな、うそ」
 妃奈子の顔が青ざめる。不安げな眼差しを幸に向けるが、幸はそれを避けるように窓際へ向かった。妃奈子は泣き出しそうな顔で水に打たれた自分の手を見つめる。 
 幸は髪を無造作に掻き上げながら独り言にしては大きい声で呟いた。
「あークソ、よりによってアレかよ」
「センセイ、どうなっちゃうの?」
「分かんないね、短時間だから体内に吸収されてないとは思うけど」
 昼間に危惧していたことが、もう現実になっている。幸は途方に暮れたように妃奈子を見る。妃奈子は見えない成分を必死で落とそうと手をごしごしと擦り合わせていた。
 幸はお手上げ状態でタバコを片手に部屋をうろうろ歩き回った。静まり返った部屋の中に、水の流れる音が重苦しく充満していく。それが一層二人を不安にさせていた。
 幸は再び机の端に座り、紙片をじっと見つめていたが、突然意を決して振り返る。煙を勢いよく吐き出してタバコを揉み消すとと妃奈子に言った。
「よし、このままここにいても仕方ない。神田先生に見つかるのもまずいし、帰れ」
 妃奈子は水を止めると、間の抜けた顔で幸を見た。
「帰れって、家でおかしくなっちゃったらどうすればいいの?」
「なにも起こらないことを祈るしかないね」
「そんな」
「取りあえず最寄り駅まで送るから、鞄取ってこい」
 幸は妃奈子に手をひらひらと振って急かせる。妃奈子は手を拭くと、唇を強く結んで小走りに駆けていった。


 幸は神田にメモを残し、机の上のLSDを用心深く手に取った。辺りを見回して小さなビニール袋を見つけた。LSDをそのビニール袋に入れながら、幸は部屋を出ようとしてドアを開ける。入り口の外の、すぐ目の前に立ち塞がる人影に気付いて、幸は反射的に体を仰け反らせた。その拍子に手から袋が滑り落ちる。あっと思う間もなく、それは目の前の人物に拾い上げられた。
「中尾?」
 幸はまたこいつかと内心うんざりする。中尾は手にしたそれを凝視し顔を強張らせた。幸がさらに声を掛けようとすると、中尾が手で空を切り、遮った。
「動くな。そのまま両手を上に上げて」
「…なに?」
 中尾は厳しい表情で幸を見据える。
「黙って。薬物不法所持の疑いにより麻薬及び向精神薬取締法違反で連行します」
「はあ? おい待てよ…」
 幸は呆気にとられた。中尾は上着の内ポケットから手帳を取り出して幸に向ける。
 麻薬司法警察。
 その文字を見て幸は眉間にしわを寄せる。
「何でアンタがそんな物」
 応じる様子のない幸に、今度はスーツの内側から銃を取り出して銃口を向けた。幸はそれが本物なのだと認識すると顔をしかめて中尾を見た。
「厚生局麻薬取締部です。抵抗すると…」
「センセイ」
 二人は同時に振り返った。妃奈子が鞄を抱えて立っている。中尾の銃を見て、妃奈子は近付こうと踏み出した一歩を踏みとどめた。 
「センセイ? あ…」
 妃奈子が口を開けて今まさに叫ぼうとした瞬間、幸が飛びつくように妃奈子の口元を手で覆った。中尾が驚いて動くなと叫ぶ。妃奈子は鞄をぼとりと落とした。幸が中尾を見てあほかアンタはと小声で叫ぶ。
「今ここで騒いでみろ野次馬が来るだろうが」 
 憮然とした表情で立ちつくす中尾に幸は部屋に入れと目で促す。幸は足下に転がっていた鞄を引っ掴むと、目を丸くしたままの妃奈子を引きずるように部屋へ戻った。


「保苑君、君がこれを持っていたのは疑いもない事実だからね。一緒に来て貰うよ」
 ビニール袋に入ったLSDを振りながら、気を取り直すように中尾は言った。幸は椅子に腰掛けると背もたれに体を預け、目を細めて中尾を見上げる。
「アンタみたいな人がなんでここにいるのさ」
「この学校で麻薬の売買が行われているからだよ」
 妃奈子は訳が分からず二人を交互に見比べている。
「教生のくせに君は何か変だと思っていたんだ」
「ちょっと待てよ、アンタが潜入する前から売買が行われているなら何で俺なんだ?」
「所持してたろう。誰から買った?」
 幸は大きく溜息をついた。妃奈子が慌てて幸の前に立ちふさがる。
「センセイは関係ありません」
「及川は黙ってろ」
「君は?」
 中尾は訝しげに妃奈子を見た。
 妃奈子はとまどうように幸のほうを振り返る。幸は目の前からどかせようとするが妃奈子はそれを突っぱねた。
「君も売買に関係してるのなら同行してもらうよ」
「そんなんじゃありません。あたしも、センセイも、関係ありません!!」
「もういいから、ここ座ってな」
 やれやれとばかりに立ち上がると、幸は尚も食ってかかろうとする妃奈子を制して入れ替わりに座らせた。妃奈子は幸を見上げ、その顔に威圧感を感じておとなしく座る。
「おたく達がいるとはさすがに予想外だったな」
 幸は頭半分ほど低い中尾を冷ややかに見下ろしながら切りだした。 
 中尾は何を言ってるんだといいたげな様子で、一瞬ひるむと幸を睨み上げた。
「それは、ある教師の所から流れてるらしいんだけど、アンタはそれをどこまで知ってる?」
「それは…、君こそ何でそんな情報を入手してるんだ」
「俺も同じだからだよ」
 妃奈子はぎょっとして幸を見上げる。幸は妃奈子をちらりと見ると、渋い顔をして煙を勢いよく床に向けて吐き出した。俯いたまま、胸のポケットから定期入れのように二つ折りになった焦げ茶色の物を取り出すと、中尾の顔に向けて突き出した。片側が重みでぶらりと垂れ下がり、そのまま中が見える。現時点で既に新しいFBI型の警察手帳に切り替わっていたから、今までの手帳タイプのものだと偽造ということになる。
 中尾はそれを見て息を呑むと、呆れたように空笑いをした。
「警視庁がなんでこんなところに」
 言いかけて写真と名前に目が行き、中尾はあっと顔を上げる。
「君があの捜査一課の保苑刑事か?」
「“あの”かどうかは知らないけどね」
 目を細めて幸はタバコを吸う。妃奈子は完全に言葉を失ってパニックになっていた。中尾は幸を一瞥すると、鼻で笑った。
「なるほど噂通りだね。うちの後輩の女の子がどこぞやで見かけてキャーキャーうるさくって。一度、この目で見てはり倒そうかと思ってたんだよ。まさかそれが君だったとはね」
「そんな大人げないことする暇があったら摘発頑張って下さいネ」
「なっ…」
 妃奈子はシュールな展開にすっかり体が縮こまっていた。最初は危うい立場にいた幸は今やすっかり逆転していた。幸が突然振り返って妃奈子を見下ろしたので、妃奈子はビクリと体を震わせる。
「で、さっきの続きだけど。及川が体張って証拠品を持ち帰って来てくれたお陰で、ホシは挙がったも同然なんですがねぇ」
「なんだって」
「化学教師の三上。理系クラスの生徒達が主に関わってるようだけど?」
 幸はさらに挑発するように笑みを浮かべた。完全に幸の勝ちだった。
「及川、奪って帰ってきたからねぇ。早く手を打たないと逃げられるよ」
 中尾は弾かれたように部屋を飛び出た。


 妙な静けさが部屋に広がる。妃奈子がおずおずと自分の方を見ているのに気付き、幸は妃奈子から視線を逸らした。
「…刑事、なの?」
 幸はそれには答えず顔を背けた。妃奈子は落ち着かない様子で鞄を抱え直す。
「センセイじゃないんだ…」
 妃奈子は再び確認するように呟く。ふと幸の手が目に留まり、妃奈子はその手をじっと見ていた。幸の手は骨っぽく肉厚感が薄い。長い指の間からタバコの煙がふらふらと立ち上っている。
 自分の手が見つめられているのを感じながら、咄嗟のこととはいえ、さっき口を塞いだ時に妃奈子が抵抗しなかったことを幸は思い出した。近くにあったパイプ椅子を引っ張ってくると妃奈子の真向かいに腰を下ろす。妃奈子はじりっと椅子ごと後ずさり、一定の距離を保った。ここ数日の間に心を開いてきてはいたが、幸への恐怖が完全になくなったわけではないようだった。
「分かってるとは思うけど」
 幸は重々しく切りだす。
「バラさないよ」
 妃奈子は慌てて言った。幸は疑い深げにフーンと妃奈子を見やる。
「さっきの奴は三上を引っ捕らえりゃ終わりだろうけど、俺はまだやることがあるんでね。アンタにはもう関わって欲しくないんだけど」
 そう言いつつ、幸はタバコを揉み消す。妃奈子は膝に手を置いて体を堅くした。
「ま、お互い秘密を握ってるってことで問題ないか」
 おもむろに背もたれに体を預けて、幸はふふんと笑った。
「こっちもバラしませんよ、実は抱きつき魔だなんてさ」
「誰も抱きついてなんかっ…」
 妃奈子は勢いよく立ち上がった。顔が火照って赤い。
「だから言わないって」
 確かに、結果的に抱きついたのだからそう言われても仕方ない。妃奈子は否定したいのにしきれないのがもどかしいようだった。握りしめた拳にぐっと力が入っている。
 とにかく、と幸も立ち上がる。
「意識も体も何ともなさそうだけど、自分で自覚症状はありますか」
「え?」
「ないならいいよ」
 幸は上着の具合を正しながらくすっと笑った。


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