----- 君たちは嘘つき


   >>> 7


「妃奈子? どうかした?」
 幸が行ってしまった後、入れ替わるようにして亜美達が戻ってきた。
「おばちゃんにさー、もう帰りなさいって怒られちゃったー」
 そう言いつつも、彼女たちはめいめい菓子パンの類を手にしている。
「さっき、保苑先生とすれ違わなかった?」
「ううん。なに、もしかしてあたし達がいない間に来たの?」
「残ってる生徒がいないか見回りだって。早く帰れって言われた」
 妃奈子はその問いに少し躊躇したが、ノートや教科書を片づけ始めながらそう答えた。
「なによ、妃奈子。それでマジで帰る気?」
 自分の近くの席に腰掛けていた子に呆れたように言われて、妃奈子は困ったように笑った。
「だって帰ってくれないと、俺が怒られるからって言われちゃったんだもん」
 早くも菓子パンを頬ばり始めた子が、それはかわいそうかもと頷く。
「しょうがないなぁー。じゃこれ食べたら帰るか」
 亜美が妃奈子にパンと紙パックのジュースを差し出しながらいたずらっぽく笑った。


 妃奈子は窓の外をぼーっと眺めながらパンを頬ばる。
 なぜか幸の一挙手一投足の全てが気になってしまう。他の子達には見せない笑顔も、自分に触れてくる大きな手も。
 兄が死んで以来、どうにも男性に対して身構えてしまい、ともすれば恐怖さえ感じてしまうのに、幸だとそういう気持ちが働かない。いや、正確にはこの間、怖い思いをしたのだが、それはまるで妃奈子の抱える秘密を確認されたような感じだった。以後は気を使って接してくれている気がした。
 手に付いたパンのクリームをぺろっと舐める。
 ふと口を塞がれたときに、幸の手からかすかにタバコの匂いがしたことを思い出した。あれだけ吸っていれば匂いくらい染みつくのかも知れない。タバコも、タバコを吸う人も妃奈子は嫌いだったが、不思議と幸の場合はそれほどイヤだとは思わなかった。
 幸に微笑まれると張りつめていた糸は切れるし、頭をなでられるとその手の感触が心地よかった。なにより彼の腕の中にいると途方もなく安心する。もう自分でもごまかしようがないほど、はっきりと分かってしまった。
 彼なら大丈夫なのかも知れない。
 彼なら、自分を助け出してくれるのかも知れない。
 ふとそういう考えが沸き起こったが、妃奈子はそれを否定するかのように首を振った。三つ編みが耳の横で揺れる音がした。


「おわーっ、ちょっと、あれって保苑先生じゃない?」
 妃奈子達一行は、校門の前に止められた車に向かって歩いていく幸の姿を見つけた。運転席側には、背の高い女性が幸が来るのを腕組みしながら待ちかまえている。
「なにー、もしかして彼女?」
「超キレー。しかも大人の女って感じじゃん」
 妃奈子はその女性に目が止まる。黒いパンツスーツに身を包んだ彼女は、妃奈子達とは明らかに一線を画していた。スッキリとした切れ長の目。唇には赤い口紅が引かれている。パンツスーツのようなかっちりした服装でもはっきりと分かるメリハリのある体。明るい茶色に染められたセミロングの髪は風に吹かれて流れるように波打っている。遠く離れていてるのに、香水がここまでほのかに香ってくるようだった。
 幸はその女性に片手を挙げて挨拶する。女性はにこりと微笑むと運転席に乗り込み、幸も助手席に乗り込んだ。そのまま車は急発進して、あっという間に見えなくなった。
「ここまでお出迎えですか、やるねー」
「デートか。いいよねー」
 亜美が妃奈子の横で大きな溜息をついた。妃奈子は呆然としていたが、我に返ったように亜美達を振り返る。
「デート?」
「アレはどう見てもそうでしょ」
 妃奈子は複雑そうな表情で車が走り去った後を見つめた。
 幸には誰も、妃奈子自身も踏み込めないのに、彼は周りにするりと溶け込んでいく。そして真っ直ぐ妃奈子に向かって手を伸ばしてくる。それはなにか特別な意味があるのかもしれないと、どこかで思い始めていた。
 だが、女性と共に車に乗り込んでいく幸を見たとき、その思いは砂の城のように崩れていった。彼が自分に対して優しくしてくれたのは、彼が刑事だからだ。幸の行動のすべては、この学校で起こっている事件を解決するために行なっただけに過ぎないのだ。
 一体自分は何を期待していたんだろう?
 急に妃奈子は胸が締め付けられるような心苦しさを感じた。涙がこみ上げてきて、それをごまかすために必死でまばたきを繰り返した。
 

◇ ◇ ◇


 幸が妃奈子に帰るよう言いつけて社会科準備室に戻ると、神田に「どこにいたの」と慌てた様子で出迎えられた。幸が「済みませんちょっと校舎ぶらついてました」とのんびり答えると、今度は日本史の教師が急かすように幸の背中を押す。
「あの。なんかありましたか」
「さっき警察から電話があったんだよ。もう一度保苑君に聞きたいことがあるから、これから車よこすって」
「は?」
「だから、今日はもうこれでいいから早く支度して」
 警察から連絡なんて、おおかた蓼倉から呼びつけを食らっただけなのだろう。焦る様子の二人を後目に幸は別段急ぐことなく準備をし、じゃあ今日はこれで、と部屋を出た。


 校舎を出ると門の所に一台の白いセダンが止まっている。迎えに来たのはどうやら佐久間のようだった。佐久間に手を挙げて挨拶をし、車に乗り込もうとしたときに背後から女子生徒達の黄色い声が聞こえてきた。助手席に座ってサイドミラーを見ると妃奈子の姿が真っ先に映り、幸はどきりとした。なぜか妃奈子の顔は哀しそうに見えた。
 車は勢いよく発進する。
「保苑さん、高校でもファンがいっぱいじゃないですか」
 佐久間がバックミラーを覗きつつ、笑いながら言った。幸は苦笑する。
「で、俺を拉致ってどこ連れてくの」
「慶大ですよ。蓼倉警部が待ってます」
「だと思ったよ」
 佐久間がダッシュボードの上に載せてある薄茶の封筒を指さす。幸はそれを取り上げる。
 中には最初に死亡した女子生徒の検死解剖の結果をコピーしたものが入っていた。
「行政? 司法じゃなかったんだっけか」
 行政解剖は死因が犯罪に関わっていないとされるときに行われる解剖で、東京の場合は監察医務院で行われる。司法はその逆でこれから幸達が向かう慶大や、東大などの大学の法医学教室で行われる。今回の事件は学校へは事故として報告していたが、蓼倉の指示により、遺体は回収後すぐに司法解剖へ回っていた。
「結局、最初の女子生徒の場合は転落による事故だと見なされたようです」
「見なされたようですって、自分のとこが所轄の事件だろう?」
 幸は呆れたように佐久間を見る。彼女は真っ直ぐ前を見つめたまま、申し訳なさそうに答えた。
「当時あたしは違う署にいたんで、あまり詳しくは知らなくて」
「あっそう…。しかし何もでなかったのか。薬物反応でも出てりゃな」
「そしたらもっと早く動いてますよ」
「まあ、そうだけど」
 幸は火のついてないタバコを咥えながら紙面に目を通していく。外傷について記述されているところまで読み進めると低く呟いた。
「…あった」
「はい?」
「なんでもない」
 車は新宿駅南口を抜けて新宿御苑トンネルに入る。四谷三丁目の交差点を曲がって、あっという間に慶大医学部までたどり着いた。幸はふらつきながら車を降りる。
「運転荒いよ、お前は」
「そうですか?」
 佐久間はけろっとした顔で建物内へ向かう。その後ろ姿を恨めしそうな顔で睨みつつ、幸も後に続く。

「あら、さすが佐久間。早かったねー」
 ロビーでは蓼倉がアイスを頬ばりながら長椅子にだらしなく凭れて座っていた。幸は顔をしかめ、手のひらで額を押さえながら蓼倉を見下ろす。
「ったく緊張感がないったら」
「だって今日は夏日なんだよ? 体冷やさないと溶けるってば」
「心配しなくてもあなたの脳ミソはとっくに溶けてんでしょうが」
 幸は蓼倉を横目で見やりながら、今まで咥えていたタバコに火を付けた。蓼倉はふふっと意味深に笑う。幸は口元を引きつらせながら笑い返した。
「幸が言ってた切り傷、載ってたでしょ? 同じような傷があるみたいだね」
「明らかにメスなのに、なんで不思議に思わなかったんでしょうね」
 蓼倉は食べ終わったアイスの棒をゴミ箱に放り投げると、行きますかと立ち上がる。
「彼女は生物部に所属してたんだって。実験用のメスならごろごろしてるとこへ出入りしてたんだから、仮に事故じゃなく自殺だったにしても、一本くらい失敬してためらい傷作ってたってどうってことないでしょってのが当時の見解」
「だからって」
「まあいいから」
 蓼倉は廊下を楽しげに歩きながら、ある入り口の前で立ち止まる。ドアに手を掛け、振り返って幸と佐久間を見るとにやりと笑った。だがその目は冷ややかで笑っていない。佐久間はわずかに顔を強張らせた。
「薬物、三上が流してたのと同じのが出たよ」
 幸は目を細める。
「どうよ? 幸。三上だと思う?」
「違うって分かってて、取り調べに行くの楽しみにしてるクセに」
「まあね」
 はははと乾いた笑いをあげながら蓼倉はドアを開けた。佐久間は訳が分からず二人を見比べている。
「あの、蓼倉警部? 三上じゃないってどういう…」
「見れば分かるよ」
 蓼倉は先に部屋にはいるように二人を促す。後ろ手にドア閉めると、担当の執刀医にどうも、と笑いかけた。
 

◇ ◇ ◇


「やー、うそ、ない。亜美、どうしよう」
 その日、妃奈子は机の中を引っかき回しながら珍しく高い声を上げた。
「どうしたの?」
 亜美は妃奈子の席の横にどっかりと腰掛けると妃奈子を覗き込んだ。
「次、生物教室だよ? 教科書忘れた?」
「学校に置きっぱにしてるから、忘れたなんてことないはずなのに」
 妃奈子は焦りで頬を赤らめながら、口を尖らせている。やがて諦めたように溜息をつくと亜美を申し訳なさそうな顔で見た。
「生物教室行く途中で友達に借りに寄ってもいい?」
 亜美は考え込む様子で妃奈子を見越すように一点を見ていたかと思うと、ふいにアッと声を上げる。
「妃奈子、あそこだ。この間あの教室で今日提出の課題やってたじゃん」
「あ」
 妃奈子も思い出して、立ち上がる。ねー、もう行こうよーと入り口のところで声をかけられて二人は振り向いた。
「一緒に行こうか?」
「ううん、大丈夫。亜美まで遅れちゃうと悪いから先に行ってて」
「ほんとに?」
 小走りに歩きながら亜美は済まなさそうな顔をして妃奈子を見る。
「だって、亜美にジュースおごらなきゃいけない借りがまだあるのに。これ以上増やせないもん」
 妃奈子はいたずらっぽく笑った。亜美はふふっと笑う。じゃあ後でね、と亜美と階段で別れ、妃奈子は階段を掛け上った。


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