----- 君たちは嘘つき


   >>> 8


 五階の教室にたどり着くと、妃奈子は弾んだ息を整えながら戸を開けた。がらんとした教室内に妃奈子は足を踏み入れる。机は元の位置に戻していたので、引っぱり出したであろうと思しき机の中を一つ一つ覗き込んでいく。その内の一つに見覚えのある生物の教科書がそのまま置いてあって、妃奈子は安堵の息をついた。
「おや、こんなところでどうしたのかな」
 ふいに入り口で声をかけられて妃奈子は体を飛び上がらせた。振り返ると校長が、額の汗を拭いながら目を丸くして立っていた。
「あ、あの、ここに忘れ物しちゃって、あの、すいません」
 妃奈子は米つきバッタのように何度もおじぎを繰り返す。その様子に校長は吹き出した。ハンカチでぱたぱたと首元を仰ぎながら室内に入ってくると、昆虫が飼われている水槽の方へ向かっていく。
「まあそんなに謝らなくても。今度から気を付けなさい」
「はい…」
 妃奈子は校長をおずおずと見上げる。
「あの、校長先生が世話してたんですか?」
「え? ああ、たまにね。生物部の子達に任せてはいるけど、時々こうして様子を見に来てるんだよ」 
 妃奈子は感心したように、校長が一つ一つの水槽の中を調べていくのを眺めた。
「興味があるかね?」
 校長は微笑みながら妃奈子を見た。妃奈子は慌てて首を振る。
「ははは、女子生徒達はそうやって虫が気持ち悪いっていやがっちゃうけどねえ。でも生物部に入ると少なくとも理科の成績はアップするよ」
 妃奈子は曖昧に笑った。笑いながら、成績を上げてくれる教師がいるという噂話を思い出した。その教師とはもしや校長のことだったのか? そう考えた瞬間、妃奈子は背筋が凍り付くのを感じた。
 校長は水槽の前にかがみ込んでいたが、ゆっくりそれらを見渡して立ち上がる。
「あの、そろそろ行かないと…」
「君は教生の保苑君とは仲がいいのかな?」
 妃奈子が言い終わらないうちに校長は突然幸のことに触れた。妃奈子の歩きかけた足が止まる。何を言い出すのだろうと顔を強張らせながら校長を振り返って見た。
「彼と一緒にいるところをよく見かけるような気がしたんだけれど」
 妃奈子の微妙な変化に気付いたのか、校長の顔から笑みが消えていた。妃奈子に向かって一歩、近付く。
「彼から何か訊かれなかったかい?」
「え? あの…」
「彼は警察から参考人として呼ばれているだろう? 彼はあの事故になにか深く関係があるんじゃないかと私は思っているんだよ。」
「それは、どういうことですか?」
「つまり事故ではなくて事件ではないのかな。でなければああも頻繁に警察から呼ばれないだろう? 内密に調査してるのか、警察は何も教えてくれないし、彼も口を閉ざしているけどねえ」
 妃奈子は目を見開いた。確かに関わってはいるけどそれは刑事としてだ。校長はどこまで幸のことを知っているのだろう。
「案外、彼が犯人なんじゃないかな」
 校長は苦笑しながら言った。
 それはない。絶対に。妃奈子は開きかけた唇を再びきゅっと閉じた。校長は尚も続ける。
「彼は社会科準備室にいたそうだけど、その時1人だったと言うしね。アリバイはないも同然だ」
「保苑先生は犯人なんかじゃありません」
 妃奈子は震える声で言った。
「ほう、どうして? この部屋にいたかもしれないし、この下の部屋から突き落としたかもしれないよ?」
 妃奈子は顔をしかめて首を振る。違う、そんなことはあり得ない。
「次の犠牲者として狙われているのかもしれない。君も気を付けないと…」
「違う! 犯人なんかじゃない! だってあの時私も一緒に…」
 彼はその時、自分と一緒にいたのだから。
 そう言いかけて妃奈子は手で口を覆った。しまったと思ったときにはもう遅かった。
 校長は眉をひそめて妃奈子を見た。
「君も一緒にいたというのか?」
 それまでの比較的穏やかな口調が一転した。
「へえ…、それでは君も見たのか?」
 妃奈子は頷くとゆっくりと後退る。思うように足が動かず、もつれてそばの机に手を突いた。同時に机が動く音が室内に響く。
「じゃあ、声も聞いたんだな」
「声?」
 そういえば幸もそのようなことを言ってはいなかったか? 妃奈子は俯きながら記憶の糸を必死にたぐり寄せる。急にがたんと音がして顔を上げる。校長が入り口の戸を閉めて鍵を掛けていた。校長は妃奈子を見つめながら、にやりと不気味に笑うと言った。
「私の声だよ」
 妃奈子の顔から血の気が一気に引いた。
 次の授業開始を知らせるチャイムが鳴りだした。
 

◇ ◇ ◇


 幸は険しい顔をして、いなり寿司に割り箸を突き刺す。
 昼休み前に一足早く学食にありついているのだが、法医学教室での一件が幸を苛立たせていた。だからといって食べ物に当たるのは筋違いなのだが。
「保苑君て、うどんセット好きよね…。学食っていうといつもそれね」
 顔を上げると、向かい側に座っていた教生の子がくすくす笑いながら定食のハンバーグをつついている。幸はふいに現状に引き戻されて、わずかに戸惑った。
 割り箸で刺した最後の一つを頬ばり、悪いけどお先に、と社会科準備室へ引き上げた。

 幸は窓枠に凭れてタバコを吹かす。煙が上昇気流の風に乗ってかき消されていった。再び記憶が遡る。
 二番目の女子生徒は、明らかに他人の手によって付けられた傷が体のそこかしこに付けられていた。致命傷と言うほどではない。塞がっている傷に至っては、丁寧に手当がなされていたことをうかがわせた。
「これは…人体実験でもされてたみたいじゃないですか」
 佐久間は顔をしかめた。幸は押し黙ったまま横たわる死体を見つめていた。
「みたいじゃなくて、そうなの」
 室内の冷たく湿っぽい重苦しさとは対照的な、蓼倉の明るい乾いた声が響いた。
「実験てなんの実験ですか?」
「おそらく神経系だと思います。主に伝達神経やなんかの」
 執刀医が幸に鑑定書を手渡しながら言った。佐久間が目を見開く。
「生きた人間を? そんな、じゃあ検出された薬物は一体…」
「鎮痛剤? でも三上から押収したヤツは幻覚剤でしょ?」
 目を細めて幸は蓼倉を振り返った。
「正しくは三上が流してたのも出た、ってこと」
「鎮痛剤は乱用してると注意力散漫になったり、感情のコントロールが効かなくなってきますからね。そうすると普段の生活に支障が出てくるでしょう? むしろ実験されているという恐怖から気を逸らせるために幻覚剤を使ってたんじゃないかと」
「死因は? 落ちる前に何かされていたとかは?」
「何かされていたか、ね…。半分ヤク漬け状態なだけだったんじゃないかな。性行為があった形跡はなかったんだよねえ?」
「ええ、そうです」
「じゃあ、最初の被害者は関係なかったのか…」
 幸は先ほど手渡された鑑定書と共に、ここへ来る道中に読んだ書類を蓼倉に渡す。
「鑑定書には何も出てないけどね。少なくとも彼女が転落じゃなくて自殺だったとしたら、関係は大いにあるんじゃないかな」
 それを聞いて、幸は俯き加減だった顔を上げる。目を細めて真っ直ぐ蓼倉を見た。
「やっと証拠が出たんですか?」
「インターネット上に」
「やっぱり残してたのか」
「ご両親から彼女のノートパソコン借りてから、パスワードやら何やらあって結構時間掛かったけどね。学校の友達には話せなかったらしい事実がごろごろ残ってたわ。これで逮捕状だせるでしょ。行こうか」
 佐久間がそわそわと落ち着かない様子で蓼倉と幸を交互にうかがい、真っ先にドアへ向かう。幸も足早にそれに続く。
「じゃ、確かに、受け取りましたんで」
 蓼倉は執刀医に鑑定書を見せながらにっこりと笑った。部屋を出てから、厳しい声で幸を呼び止める。蓼倉の表情が険しくなっているのを見て、幸は緊張を帯びた顔つきになる。
「幸、明日の午後だ。それまで絶対早まるなよ。へたに刺激も与えるな」
「分かってます」
 それだけ言うと、含んだ笑みを浮かべた。蓼倉もつられて口元を緩める。
「あんたに懸かってんだからね。頼んますよ」


 幸は時計を見る。蓼倉達がやってくるまでまだ時間はあった。吸い込んだ煙を大きく吐き出す。時間の流れがやけに遅く感じられる。幸は髪を掻き上げつつ、それとは対照的に妙に流れの速い雲を見上げた。
 頭上からなにか物音が聞こえたような気がした。
 瞬間、幸は体を固くした。窓から身を乗り出すと、斜め上の視聴覚教室の窓から英語の教師がちらりと見えた。彼女は幸の姿を見つけると恥ずかしそうに笑った。
「あらやだ、空気を入れ換えようと思って窓を開けようとしたのはいいけど、この窓建て付け悪くて。ちょっと勢いが良すぎちゃったみたいね」
 幸は無言で笑い返した。柄にもなく緊張しているのかもしれない。幸は体を引っ込めると部屋の中を歩き回る。右手で左肩を押さえながら、左腕をぐるぐると回した。


◇ ◇ ◇


 校長は一歩、足を踏み出した。
「何も怖いことはないよ。大人しくして、全て私に任せていればいいんだ」
 妃奈子は青ざめた。今の校長の姿はついさっきまでの人のよさそうな風貌とは一転して、迂闊な行動に出ると何をし出すか分からないような、異常な雰囲気を全身から漂わせていた。
 校長から目を逸らすことが出来ない。校長を見据えたまま、妃奈子は机に突いた手を掻くようにして握りしめる。
 どうすればいい?
 センセイは助けに来てくれる?
 それとも?
 妃奈子の頭の中で幸の姿がフラッシュバックのように浮かんだ。
「このまま何も知らない振りをしていればいい。そうすれば君に害が及ぶことはない。…出来るかな?」
 妃奈子はゆっくりと首を振った。
「そうか。残念だね」
 校長が何かを取り出すのが見えた。よく見ようとして妃奈子は目を擦る。
 目の前がかすんでくる。イヤな予感がした。テレビの砂嵐のようにざらざらとしたものが、まるで生き物のように次第に視界を奪っていく。
 嘘だ、妃奈子は叫びたくなった。こんな時に貧血で倒れるわけにはいかないのに。
 こういう状況に陥ったときに対処できる唯一のことといえば、いかに上手く倒れるかということくらいだった。それ以上はどうすることもできない。
 それでも、今、この瞬間だけは意識を失わずに持ち堪えたかった。
 だが、思いとは裏腹に妃奈子の体は崩れるようにその場に倒れていった。


back    index    next


Copyright (C) 2002 Mutsu Kisaka All Rights Reserved.