----- ヘプバーンを追え!





 その日、佐久間鹿恵の行動は何かがおかしかった。
「なあ、花垣。アレはどういう事なんだ?」
「は?」
 そそくさと刑事部屋を出て行く佐久間の後ろ姿を見ながら、椅子に凭れていた幸はタバコを灰皿に押しつけた。
 幸の目線の方向に目を向けた花垣は、ぱたんと閉じたドアを指してアレですか? ときょとんとした顔で答えた。
「いや、夜中に勝手に開いたりして確かに気味悪いけど、ドアじゃなくて」
 佐久間だよ、と幸は声を落とした。
「え?」
「俺が知る限り、常に露出過剰なあいつが、胸のボタンを一個多く留めてたぞ」
「あー、そりゃまあ、残念っ! とは思いますけど」
 それを聞いて今度は幸が目を瞬かせた。花垣が興味を持つのは未成年限定だったはずである。幸よりも分かりやすくフェロモンが垂れ流されている佐久間に対して、そういう感想を持つようになったとは。
「……お前成長したな」
 幸はしみじみと呟く。
「でも、ボタン一個がそんなに変ですか? 寒いだけかも知れないですよ」
「寒さが理由か? 朝からずーっと携帯手放さないわ、にやついてるわ、化粧が薄いわ、やけに目線が下だと思ったらいつものハイヒールはどうした」
「よく見てますねぇ」
「だいたい、峰不二子がオードリー・ヘプバーンになってる時点でおかしいだろ」
 給湯室で交通課の婦警達に尋ねても、合コンじゃないですかぁ? とどうでも良さそうな答えを返され、幸は益々納得がいかなかった。可愛い子が多いことで有名な女子短大出の佐久間は、合コンのセッティングをよく依頼されている。その度にすげなく断っているのだが、そうやって日頃、合コンの不毛さを説くような佐久間が自ら合コンに出向くとは思えない。
「普段見慣れてるモンが変わりゃ、不思議に思えよ。ホラ、『すばやいたいおうー、ひろいしやー、するどいかんかくー』」
 幸は壁に貼られているスローガンを棒読みで読み上げた。
「だって、ハイヒールじゃなくても僕が佐久間さんを見上げることには変わらないし、見慣れすぎてサッパリわかんないですもん。あの人いつも半裸みたいなものだけど、僕、佐久間さんなら目の前で生着替えされても動じないと思います」
 動じろよ、と周りから一斉にツッコミが入る。
「寝技掛けられて落ちたこと無い人たちには分かりませんよ」
「寝技ぁ?!」
 この果報者が、と盗犯係の刑事が花垣の両肩を掴んで揺さぶった。
「勘違いしないでください。ボインの塊を期待してると酷い目に遭いますよ。佐久間さんの方からちょっと試させてって言ってきたくせに、僕、危うくオカマになるとこだったし、本気で三途の川見たんですから」
 その場にいた男性陣はううっと顔をしかめ、幸は机に頬杖を付いて呆れたように目を細めた。
「お前、技かけられる前に何やらかそうとしたんだよ」
「ほんのちょっぴり塊を期待しただけですよ!」
 それなのに、と訴えかける花垣を煩そうに見やると、幸はセブンスターに手をのばした。だが中には一本も残っておらず、小さく舌打ちをしながらケースをひねり潰した。
「平気で股間を撃砕しようとするような裸族がちゃんと服着てんのは、どう考えたってやっぱ変だろ」
 確かに、と刑事部屋にいた連中は一様に腕組みをして神妙な顔をした。
「……『男』?」
 ぽつりと上がった声に、まさかぁと一同は乾いた笑い声を上げる。
「あの人と互角に渡り合える野郎なんているのか?」
「いやいや、実はああ見えて惚れた男にゃ可愛い人なのかもしれんぞ?」
「どう可愛いんだ?」
「どうって…………」
 シンと部屋が静まりかえる。
 幸は部屋をぐるりと見渡した。
「俺、後つけようっと」
 ふふっと口元を緩めながら立ち上がり、椅子に掛けていたジャケットを取り上げると幸は弾むように刑事部屋を出て行った。
「ガンバレよー」
「生きて帰って来られるのか?」
「まあ、保苑だから大丈夫なんじゃないのか?」
「少なくともオカマにされはしないだろ」
 どっと笑いが湧き起こり、おのおのは仕事に戻り始める。
「ちょっと! 僕はまだ男ですってば!」
 憤慨して花垣が叫んだ。


 ・  ・  ・


 幸が、携帯を耳に押し当てながら歩いている佐久間の姿を捉えたのは、駅付近にさしかかっているところだった。どういう会話を交わしているのかは分からない。待ち合わせでもしているのだろうか。
 駅のホームで時間を気にしながら電車を待つ佐久間を、幸は遠巻きに見つめた。
 男ねぇ……、と幸は先ほどの会話を反芻してみる。いても不思議はないが、相手の為に自分を偽るような人間だとは思えない。だとしたら、そうせざるを得ない理由でもあるのだろうか。つまんない理由ならガッカリだよなと目を細めたその時、不意に佐久間の顔がこちらを向き、幸は慌てて背を向けた。
「保苑さん?」
 ぽんと背中を叩かれ、幸は身体をびくりと震わせた。
 おそるおそる振り向くと、妃奈子が訝しげな顔で見上げている。
 何でお前がこんなところにいるんだよ、と言わんばかりに眉をひそめている幸に、妃奈子は小さく肩をすくめた。
「ごめんなさい。そんなに驚くとは思わなくて……何?」
 目線が自分よりも後方に向けられていることに気づくと、妃奈子は振り返った。
「あ、鹿恵さ……」
 言い終わらないうちに幸は妃奈子の頬をむぎゅっと片手で掴み、顔をこちら側に向けさせる。妃奈子は、ひょっとこみたいな顔のまま、保苑さん? と睨み付けた。
 佐久間が何も気づいていないことを確かめると、幸は妃奈子ごとぐるりと身体を半周させて佐久間に背を向けた。
「何してるの?」
「アナタこそ何してんの」
「え? えと、鞠子さんとこに行こうかなと思って……。ねぇ、何で鹿恵さんを無視するの?」
「無視してんじゃなくて……」
 そう言いながら幸は妃奈子を改めて見つめた。学校から帰って着替えてきたのか、耳当てつきのニット帽をかぶり、すとんとしたワンピースにジップアップのジャケットを羽織っている。
「何?」
 じっと見つめる幸に、妃奈子はどこかおかしなところがあるのかと自分の身体を見下ろした。
「佐久間の今日の予定知ってたら、なんか美味いモノ食わせてやろうか?」
「え?」
 眉をひそめながら妃奈子が顔を上げた時、ホームに電車が滑り込んできた。佐久間の動向を気にしつつ電車に乗り込んだ幸は、混んだ車内で妃奈子と身体を寄せ合いながら小声で尋ねる。
「だから、今日の佐久間のあの格好は何?」
「今日の格好? って何か変だった?」
 アナタまで気づいてないのかよ、と幸がため息をつく。
「何でそんなこと訊くの?」
 不審げな顔をする妃奈子に、幸は微かに狼狽した。
「や、ただの好奇心」
「不謹慎の間違いじゃなくて?」
「言ってくれるねぇ」
 カーブにさしかかって電車は大きく揺れる。押し寄せる人から妃奈子をかばいながら幸は口元を歪めた。
「鹿恵さんの予定と美味しいモノと、何の関係があるの?」
「俺の予想じゃ、アノ人デートなんじゃないかと」
「うん」
 あっさりと答えた妃奈子に幸は目を瞬かせた。
「ウンて、イエス? デート? マジで?」
「昨日の夜に二人でどんな服着るか決めたんだよ。鹿恵さん超可愛いでしょ?」
「何ソレ」
 知ってたんじゃねーかよ、と幸は心の中でぼやいた。
「なんか今日の保苑さん、ヤな感じ」
「ヤな感じで結構。よし、このままつき合いなさい。美味いモノ食わせる」
「だから、私は鞠子さんのところに……」
「バックれなさい」
「ええっ?!」
 シーッと幸は周囲を憚りながら妃奈子を見下ろした。
「相手はどういうヤツ? どうせ写真とか見せて貰ったんでしょ?」
「そんなに気になる?」
「なるなる。俺だけじゃないよ、署内で大騒ぎだもん」
 別に初デートじゃないのになと妃奈子は口を尖らした。
「短大の頃からつき合ってるんだって。年上の人なの」
 へーっと幸は意外そうな顔をした。
「人は見かけによらねぇなあ」
「あ、鹿恵さん新宿で待ち合わせだよ……?」
 新宿駅についてどっと降りる人と乗り込もうとする人にもまれながら、幸と妃奈子は電車を降りた。二人は佐久間を見失わない程度の距離を保ちながら後をつけている。
「保苑さん、つき合うって何するの?」
「尾行」
「尾行って、鹿恵さんに何かあったの?」
「いーや。ただの好奇心て言ったでしょ?」
「本気で?」
 保苑の服の袖をつ、と引っ張って妃奈子が立ち止まった。ナニ、と幸が振り返る。
「一度くらい探偵ごっこしてみたいって思ったことあるでしょ?」
「思ったことあるけど、別に今そんなことしたくないもん」
「アナタって時々、惚れ惚れするほど可愛げの無い子になるよねぇ……」
 幸は半ば感心したように妃奈子を見下ろした。ムッとした顔で妃奈子は睨み返す。
「けど生憎、今の俺の関心はそういうことじゃないの。ああ大変、我らがオードリー・ヘプバーンを見失っちゃう。ホラ行くよ」
 幸は半ば強引に妃奈子の背中を押した。
「もうっ、保苑さんの悪趣味ー」


 ・  ・  ・


 アイスモカを一口飲み、大きく鼻で息を一つすると、妃奈子は言って良いものかどうか迷いながらも口を開いた。
「保苑さん」
「ん?」
「美味いモノってコレ?」
「それがいいって言ったのアナタじゃない」
 コーヒーショップの窓際のカウンター席に並んで座り、タバコを燻らせながら窓の外を見つめていた幸は、妃奈子の方へ顔を向けると、ミルクレープ微妙なんでしょ、とニヤリと笑った。
「だから俺はミラノサンドの方が美味いよって言ったのに」
「そういう事じゃなくて」
「しょうがないでしょ、あのまま一緒に店入ったらアイツの隣の席に通されるとこだったんだぞ。尾行の意味がない」
 道を挟んで真向かいにあるレストランの窓側の席に座る佐久間を見つめながら、幸はコーヒーを飲んだ。
「しかし佐久間も待たされてんなぁ。彼氏は何やってんだよ」
「そういう保苑さんこそ何やってるの」
「えー? そうだなぁ……。尾行」 
 もうっ、と憤慨しながら妃奈子がミルクレープにフォークを突き刺す。
「アナタそんなにもーもー言ってたらそのうち牛になるよ」
「な、り、ま、せ、ん!」
 そんなやりとりを交わしている間に、佐久間の前に人影が立つ。オッと呟いて幸が窓の方へ身を乗り出した。幸の反応に妃奈子も窓の向こうを見た。
「あ、堀河(ほりかわ)さんだ」
 ふくれ面をしていた妃奈子の顔がぱっと明るくなる。それは佐久間も同様で、申し訳なさそうに頭を掻きながら佐久間の向かい側に座る男に、安堵を含んだ笑みを見せた。
 妃奈子が堀河だと言ったその男はふっくらとした頬を赤くしながらメニューを広げている。やはりふっくらとした体はジャケットの下に窮屈そうに収まっており、幼さの残る顔つきはキューピー人形に似ていた。ハンサムとは言い難く、美女と野獣ならぬ美女とペットである。
「アイツが彼氏?」
 窓の方を見つめたまま、幸は眉間にしわを寄せたまま呟くように言った。
「……嘘ぉ」


 ・  ・  ・


「保苑さーん、どうでした?」
 子犬のようにまとわりつく花垣を、幸は五月蝿そうにしっしと手で払った。それでも屈しない花垣を、幸は渋い顔をしながら頭を掴んでぐいっと遠くに押しやる。
「……訊かないで」
「え?」
「なんつーか、心の股間を撃砕された気分」
「は?」
 意味わかんないです、と花垣はきょとんとしてその場に立ち止まり、背中を丸めて歩く幸を見送る。
 翌日の佐久間は元通り峰不二子に戻っており、幸の指摘に改めて刑事部屋の一同は昨日の佐久間の奇行ぶりを理解した。しかし幸は何も報告せず、もしやオカマにされたのかと一同は冗談交じりに言っていたのだが、佐久間に直接尋ねる猛者もいなかった。
 誰もいない屋上の柵に身体を預けてタバコを吹かしながら、幸は携帯の電話帳を探っていた。
 堀河大祐(ほりかわだいすけ)
 その名前が表示されると幸の手の動きが止まる。
 他人のそら似も名前まで同じならそれは同一人物だろう。
 互いに知っていても、幸の耳に入らなかったということは、よほど話題に上らないのか、知らない振りでもしてくれているのか。
 あの後、風船がしぼむように気力を無くした幸は、すごすごと退散し、夜に鞠子から怒りの電話を頂戴したのだった。
 だってしょうがないじゃんよ。
 という言葉を飲み込み、悪かったと非を認めて電話を切ったのだが、幸はどうにも煮え切らずに悶々と一夜を過ごした。
 堀河大祐のことならよく知っている。警察学校で一番気が合い、よく一緒につるんでいた相手だった。見た目からして人の良さそうなオーラを漂わせているが、中身はそれ以上で、偽ることに慣れすぎていた幸からしてみれば、よくもまあ騙されて酷い目に遭うことなく平穏無事に暮らせてこれたな、と呆れたくらいである。幸と張り合えるくらいの口の悪さはあるが、基本的に根が優しいので悪意は感じられない。腕っ節も強く、愛嬌のある顔つきは、幸とは違う意味で年寄りや子供に好かれた。確か今は八王子の辺りで交番勤務をしているはずである。
 つまり、佐久間の相手は同類だったわけで、今までその事実を誰も知らなかったのだ。
 佐久間が完璧なまでに秘密を保持していることに幸は感服した。それと同時に悔しさに似た、嫉妬のような複雑な心境も抱いた。堀河なら佐久間が対等に付き合える相手として申し分ない。誰が何と言おうと保証することが出来る。
 だが、あの当時うんざりするほど聞かされ続けていたあの子はどこいったんだ?
 幸は手にしていた携帯の画面を眺めた。そして、久しく連絡を取っていなかったことを後悔しながら、今にも発信ボタンを押そうとしている指を引っ込めた。ため息混じりの息を一つ吐くと、携帯を上着の中にしまい込む。そして、あっという間に短くなってしまったタバコを空に向けて指ではじき飛ばした。タバコはゆるりと弧を描きながら建物の真下にある駐車場に落ちていった。途中までは目で追っていたが、もはや単なる吸い殻と化したタバコは、アスファルトと溶け合ったかのように姿が見えなくなってしまった。幸は目を凝らして探してみたが見つけることが出来ず、やがてその場を後にした。


 ・  ・  ・


「ユキ?!」
 屈託のない明るい声が室内に響いた。昨夜、佐久間と向き合っていた笑みの主は、机に向かって書き物をしていた手を止めて立ち上がった。
「いや、どうしてるかなと思ってさ」
 幸は八王子にある某交番の入り口で、両手をポケットに入れたまま肩をすくめた。その少年のような仕草に、彼はほっこりと温かい眼差しを向ける。
「ご覧の通り、相変わらずだよ。そっちは? 順調?」
「んー、どうだろ。ほら、俺ってサボり魔だし」
「だけど、さすがのお前も本庁でおいたは出来んだろ」
「そうでもないよ」
 ここ最近の愚行を振り返りながら幸はふっと笑った。勧められた椅子に腰掛け、ちらりと部屋の奥に目をやる。
「一人?」
「え? ああ。他の連中は見回りに出てる」
 ふーん、と生返事を返し、再びどうしたと問われて幸は口を濁した。
「なんだよ、軌道修正がいるのか?」
「……懐かしいなぁ」
 その言葉に幸は思わず苦笑した。
「ま、もう必要なさそうだけど。しばらく顔見ないうちにオヤジ臭くなったな」
 幸はお前に言われたかねぇよと笑いながら自分の頬を撫でた。
「なんだっけ、プリンスだっけか。ちょこっと聞いたぞ」
「ああ、なんかね。ありがたくって涙が出るわ」
「プリンスっつうほど、品良かないだろうにな」
「な、俺もそう思うわ」
 そこで初めて幸はタバコに手を伸ばした。火をつけようとしたと途端にすっと堀河が取り上げる。
「何すんだよ」
「ここは禁煙だ」
「んなわけあるかよ」
「あんだけやめろって言ったのにまだやめられないのか?」
「やめてお前みたいに肥えたらたまんないからな。だいたい本庁の六階にいてやめられるかっつの」
 互いに憎まれ口を叩いてはいるが、二人の表情は至極穏やかだった。幸は肌寒い季節だというのに制服の袖を捲り上げている堀河を見つめた。
「なあ、ダイスケ。俺が最後に聞いた時は、つき合ってる子は可憐なお嬢さんタイプって言ってたよなぁ? あれからどうなった?」
 唐突に口を開いた幸に、堀河は目を見開いた。
「続いてるけど」
「その子って今どうしてる?」
「N署の刑事課にいる」
 幸は片方の眉をぴくりを上げた。
「俺がからかわれてるんじゃなけりゃ、ダイスケが騙されてんだよな?」
「多分ユキがからかわれてる」
 堀河は笑った。
「俺、今N署にいるぞ」
 見据えるような目つきで幸がそう言うと、堀河は椅子に預けていた身体を仰け反らし、そのまま背伸びをしながらそっかぁと返した。
「隠してもいないし、嘘もついてない」
「分かってる。だから釈然としないんだよ」
「えー何で」 
「なんでって……」
 普段の姿を知ってるのか、と喉まで出かかったのをまた腹の中にぐっと押し戻す。騙されるのなら堀河ではなく、自分であって欲しい。もし佐久間から嘲笑を浴びせられるのだとしたら、それは決して堀河であってはならない。この男は常に誠実さが与えられているべきなのだ。ネガティブな思考を振り払うように幸はそう考えた。
「お前だって今更カエちゃんの外見で判断しようとは思わんだろが」
「……“カエちゃん”?」
 机の脇に置かれていたゴミ箱の汚れを凝視していた幸は、堀河の言葉に弾かれるように顔を上げた。
「カエちゃんてあのカエちゃんか?」
「そうだよ」
「なんだよ」
 何を言ってるんだお前はといいたげな顔つきの堀河を見やりながら、幸は大きなため息をついた。
「俺、ずっとサクマシカエだと思ってたわ」
「バカかお前は」
 堀河は呆れかえった。
「そうか、あのカエちゃんか……」
 幸は独り言ちるように何度も呟いた。


 ・  ・  ・


「佐久間、話がある」
 幸が机の脇に立ち、佐久間を見下ろすようにしながらひと言、低い声でそう言ったとき、刑事部屋の喧噪が一瞬途絶えた。
 佐久間はその変化の方に微かな動揺を見せたが、すぐに立ち上がった。今日も目線は幸とあまり変わらない。胸元の露出も身体のラインがはっきり分かるスカートもいつも通りだ。
 二人が部屋を出て行くと、ざわめきはさらに高まった。
「やっぱり佐久間にゃ何かあったのか」
「手配中の犯人が相手だったとか?」
「愛の逃避行ってやつか」
 各々は勝手な憶測で盛り上がった。もしその憶測が本当なら懲戒は間違いないのだから、まさに他人事である。
 そんな連中をよそに、二人は近所のそば屋に向かった。昼にはまだ少し早いせいか、店内の客は幸と佐久間だけだった。木製の小さなテーブルと椅子は、二人を余計に大柄に見せる。佐久間は出された水を一口飲んでは置き、そしてまた手に取って一口飲むという行為を繰り返していた。その間、幸は黙ってタバコを吹かしていた。
 注文したものがそれぞれの前に置かれると、佐久間はようやく口を開いた。
「話って何ですか」
「この間ダイスケに会った」
 幸がそう言ったと同時に佐久間の割り箸が奇妙な音を立てた。
「お前割り箸割るのへたくそだな」
「なっ、何で、どういうことですか」
 狼狽える佐久間を気にも留めず、幸はきつねそばをかき込む。
「……アイツまた太ったよなぁ」
「一年に一キロのペースみたいです」
 観念したように肩で息をすると、佐久間はそばに手をつけ始めながら答えた。幸は指折り数え、うわっと小さく呟く。
「……何で知ってるんですか」
「え、いわゆる御学友ってヤツだよ」
 佐久間はそうですか、とテーブルの一点を見つめた。
「佐久間に会う前から佐久間のこと知ってたんだけど、大人しそうなお嬢さんって刷り込みがあったし、ずっとシカエだと思ってたし、気づかなかった」
「カエですから」
 何度もそう読まれ間違えてきたのか、佐久間はその部分に反応した。
「そうそう、“カエちゃん”ね」
 いたずらっぽく幸が言うと、佐久間はぱっと顔を赤くした。
「『カエちゃんが』、『カエちゃんは』、『カエちゃんに』。あんまりウザいから、危うく寮内で暴行事件起こすとこだった」
「そんな……」
「そういえば及川も“カエさん”って言ってたっけ。何だ、俺、勘が鈍ってるな」
 あっという間にそばを平らげ、タバコに火をつけて煙を勢いよく吐き出すと、知らない振りしようと思ったんだけど、と幸は続けた。
「なんかさ、無理してんのかなっとも思っちゃったもんだから」
 佐久間の眉がきゅっとひそめられる。
「いや、二人の関係が、とかじゃなくて。ダイスケから刷り込まれてたのと、目の前のと、どっちがお前の本性かは知らないし、アイツ知ってるの分かってんなら俺の杞憂なんだけども」
 何か言いたげに唇は開かれているが、佐久間は何も言わなかった。
「ごめん、悪趣味だな」
 忘れて、と幸は灰皿に吸い殻を押しつけた。
「知ってたんですか……」
 佐久間は椅子に身体を預けながらようやく言葉を発した。その主語が“幸は”なのか“堀河は”なのかは曖昧だった。
「まあ、同じ業界にいて全く知らないままでいることの方が難しいと思うけどな」
「誰からも突っ込まれないのは変だなとは思ってましたよ。かといって、今さら公表する気はありませんけど」
 そう言ってから、佐久間は迷うように視線を泳がせた。
「だんだん、これでいいのかなって思うようになってきて」
「何が?」
「学生の時は何も考えてなかったんです。ただ『刑事になりたい』ってことだけで。だけど気が付いたら」
「肩書きはお前の方が上になっちゃってたと」
 ええ、と佐久間は小さな声で答えた。
「それはしょうがないじゃん。ダイスケは最初っから交番勤務に拘ってたし、昇進とかそういうことに欲がないんだもの」
「そうなんですよね、それは分かってるんです」
「分かってんなら何で悩むの」
「この格好だってユニフォームみたいなモノなんです。犯人に対して優位に立ちたいというか。好きでやってることだし、どっちも私です。だけど、大祐さんには……。視覚的なことでも、見下ろしたくないっていう気持ちがあって……」
「ダイスケがそんなこと気にするかよ」
 佐久間の目に浮かんでいた不安げな色がふっと和らいだ。まるで恋に悩む少女のような顔つきに、幸は柄にもなくどきりとし、佐久間のことを可愛いなと珍しく素直に思った。そして堀河が、カエちゃんが可愛くてしょうがないんだ、と嬉しそうに言ったことをなるほどなぁと理解した。
「端からどう見られてるかなんて、うわべの釣り合いを考えるようなヤツじゃないさ」
 幸は誤魔化すように咳払いをすると水に手を伸ばした。しばらく沈黙が続き、その間にスーツ姿のサラリーマンがやって来て店はにわかに活気づき始めた。
「俺、アイツとだけは一緒に仕事したくないなぁ」
 不意に幸がそう呟いた。
「遺失届の処理とか、迷子の世話とか、道案内とか、事件とは関連のない世界にいて欲しいのよ。そんなことは俺のエゴだし、実際にはあり得ないし、いずれはアイツの管轄で顔会わせることも出てくるんだろうけど」
 そう言ってしまってから、幸は自嘲するような笑みを漏らした。幸の話を聞きながら堀河の顔でも頭に浮かべていたのか、佐久間は遠くを見つめていたが、その目線がふっと幸の方へと移った。
「保苑さんがこの仕事に就こうと思った理由は何ですか」
 考え込むように腕を組み、しばらくして幸は口を開いた。
「自分のやってることを正当化したかったからかな。真っ当に見える理由付けが欲しかったからというか」
「え?」
「例えば、人を殴っても許されるシチュエーションにいたかった」
 怪訝そうな顔をする佐久間に、幸は冗談だよと付け加えた。
「……いいんじゃないのかな。俺は時々、アイツのバカみたいに真っ直ぐなところがひどく羨ましかった」
 テーブルに肘を付き、灰皿の吸い殻を弄びながら幸が呟いた。
 何か思うところがありそうな幸の様子に、佐久間は堀河に昔の幸のことを尋ねてみようかと考えたが、そんなことは聞くだけ野暮なのかも知れないと思い直した。
 店を出ると佐久間の携帯が鳴った。画面をちらりと見た後にほんの一瞬、幸の顔色を窺った佐久間を幸は見逃さなかった。
 もしもし、と言いかける佐久間の手から携帯をすっと抜き取った。
「ダイスケか? 何の用だよ? え? お前の代わりにランチデート。はぁ? 何、聞こえねーなぁ」
 目を丸くして携帯を奪い返そうとする佐久間を、からかうように交わしながら幸は楽しげな声を上げた。
「それよか、言い忘れたことがある。兄貴はヤブ医者だぞ。こないだまた差し歯が取れた。アレか? 金儲けのためにわざと適当な仕事してんのか? ……え? 知るかよ。弟が折った歯は兄貴のお前が責任持ってくっつけろって伝えとけ。じゃな」
 まくし立てるように言って切ると、幸は佐久間に携帯を放り投げた。呆気にとられている佐久間に、幸は笑顔を向ける。
「ダイスケの双子の兄ちゃん知ってるか? すっげーヤブ歯科医でさ、笑っちゃうくらい全然似てないし。双子でも似ないっつーのあるんだな」
 けらけらとひとしきり笑うと、そんじゃ先に戻るわ、と幸は軽快な足取りで署へと歩き出した。
 その後ろ姿を見送りながら、佐久間は思わず吹き出した。
 堀河と会った日の夜、なぜか妃奈子が保苑さんて子供みたいとむくれていたが、無邪気な笑みを浮かべた幸はまさにいたずら小僧のようだった。

                               - 終 -


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