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 俺は入り口の側に立ったまま、身動きがとれなかった。美哉はどう返すんだろうかと固唾を呑んで二人を見ていた。
「あの、あたしは…」
 美哉は俯いたまま、言葉を選ぶようにゆっくりと喋り始める。ふいに美哉が顔を上げた。こっちの気配に気付いたようだ。美哉は目を大きく見開いて、言いかけた言葉を飲み込んだ。相手の男もこちらを振り返った。麻生じゃなかった。
「ああ、ごめん。邪魔した。…どうぞ続けて」
 俺は美哉の目を見据えて言うと、そこから足早に立ち去った。
 すがるような、不安そうな目で見つめる美哉の姿が脳裏に焼き付いた。
 廊下の端まで来て、今来た道を振り返る。ひと気のない白い床が真っ直ぐ続いているだけだった。いつかの俺の時のように、美哉が追いかけて来るんじゃないかと微かに期待していた自分が恥ずかしくなって、階段を駆け下りた。

 あんな顔して、俺にどうしろっていうんだ。
 間に入ってぶち壊せとでも言うのか? 自分で拒んでおきながら?
「…っんだよ、畜生」
 気付いたらそう呟いていた。大きく肩で息をする。もう一人の自分が頭の中で諭す。
 そうじゃないだろう? 
 ホントはぶち壊したかったクセに。ああしてあそこに立って、美哉が気付けば、と。
 階段の踊り場で立ち止まる。掻き上げようとした手を止めて髪を掴んだ。動揺を何とか抑えようともう一度大きく息を吐いた。
 さっきの光景を頭から追い出そうとしたら、麻生とのゲームのきっかけを思い出した。美哉をもらっていいかと言われてあんなこと口走ったのは、麻生がもてる理由はヤルのが上手いからだと噂で聞いたからだ。
 美哉の言うとおりだ。麻生とはなにがなんでもぶち壊したかった。麻生だけじゃない。他の男のものになって、隣でへらへら笑う姿なんか見たくなかった。ましてや誰かに抱かれてる美哉なんか想像もしたくなかった。
 そういう気持ちがイコール何なのか、認めたくなかった。
 認めてしまうことで失いたくなかった。

「北野先輩」
 ふいに呼びかけられて俺は体をびくつかせた。声がした方に顔を向けると、階段の下に一人の女子生徒が立っていた。
「あの、大丈夫ですか?」
 その子は心配そうに俺を見上げる。
「…何か用?」
 自分でも驚くほど冷ややかに言葉が口から出てきた。きっと、普段の当たり障りのない喋り方しか聞いたことがないだろうその子は、体を強張らせた。
「あ…あの。あたし…実は…」
 続きは聞かなくても分かった。ここ最近ずっと同じようなセリフを聞かされてきた。何で俺のことをロクに知りもしないでそんなこと簡単に口走れるんだろう?
「先輩のことが好きなんです」
「だから?」
 その子は言葉を失った。多分、今までにないくらいに冷たい視線をその子にぶつけていたんだろう。微かに涙目になっているように見えた。
 分かってる。こんなの八つ当たりだ。
 自分がこうしている間にも、美哉はなんらかの返事を返したんだろうか? 
 それは承諾なのか? 拒絶なのか? 
「…つき合って下さい」
 俺の場合の答えはずっと一つしかなかった。
「悪いけど、それは出来ない」
 俺は階段を下りる。すれ違う瞬間、その子が言った。
「誰か好きな人がいるんですか?」
 思わず足を止めた。
「そうだよ」
 今日、それを初めて認めた。
「あの、それは西田先輩ですか?」
 再び下りかけた足が止まった。
「…たぶんね」
 そう言いながら、俺は自嘲した。


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 学校を出たときには薄曇りの空だったのに、地元に着く頃には夕立が背後から押し寄せてきてあっという間に飲み込まれた。傘を持ってなかったから、自転車を漕ぎながらひたすら雨に降られ続けるだけだった。
 これで心身共に惨めさ全開だ。前髪の先や鼻先から落ちていく滴を頭を振って払いながら、なぜか笑いがこみ上げた。
 家に着いたときには雨はもう止んでいた。自転車を止めて、鼻先の滴を手の甲で拭う。すぐには家の中に入る気になれずに、しばらくその場に立ちつくしていた。
 さっきの美哉の顔が何度も甦る。
 美千代姉ちゃんへの想いが母さんと等しいなら、美哉の場合は何に取って代わる感情なんだろう。俺はむしろ美哉の方が同じ気持ちなんだと思っていた。
 そう考えていて、ふと気付いて愕然とする。これじゃ俺は単なるマザコンじゃないのか? 急激に顔が熱を帯びてきて、赤面してることが手に取るように分かった。ことあるごとに『母親』と呼べる人を失ってきたことを考えれば自然な成り行きなのかもしれないけれど、これこそ認めたくはない。慌ててその言葉を打ち消した。
 隣にいるのが当然だと思っていたから、美哉に対する気持ちなんてまともに考えたこともなかった。だけど本当はずっと前から答えがちゃんと導き出されていたのかもしれない。まるで仕組まれたかのように、引かれたレールに知らず知らずのうちに乗っていたみたいに。
 手を取ったあの日から、こうなることになってたんだ。そんな気さえした。

 のろのろと俺はドアを開けた。
 目の前に靴紐を結んでいる親父がいて、お互いに驚く。俺の姿を見ると親父はちょっと待ってろ、と履きかけた靴をまた脱いで洗面所の方へ行く。
 タオルを手にしながら戻ってくると、俺にタオルを手渡す。それを黙って受け取った。
「水も滴るいい男ってやつだね。風邪引くなよ」
「…今から?」
「うん、仕事がらみで飲みに行くんだけどね。遅くなるから」
 親父はニタッと笑うと出ていった。脱いだ靴下を手にあがる。廊下に点々と足跡が残る。頭を包み込むタオルの柔らかさが心地よかった。着替え終わると、リビングのソファへ打ちひしがれたように横になった。
 もう今日は何もする気になれなかった。
 本人に気持ちを伝えたわけでもないのに、まるで振られてしまったような気分だった。
 目を閉じる。
 しんと静まり返った部屋の中でエアコンの送風口の音が静かにした。


 いつの間にかうとうとしてたんだろうか。玄関のチャイムが鳴ったような気がして意識が戻る。身じろぎもせず耳を澄ませていると、またチャイムが鳴った。
 ドアを開けるとそこには美哉が立っていた。
 やっぱり雨に降られたんだろうか。少し髪が湿っていた。後を追ってはこないと思っていただけに、ここにこうして美哉がいるだけで、事態が好転していくように思えた。真っ直ぐ俺を見上げてくる。なぜか美哉は怒っているようだけど、怒りを含んだ目が綺麗だと思った。
 ぼうっとしたまま、美哉の目だけを見つめていた。
「入っていい?」
 怒りの表情が怪訝な顔に変わって、俺は我に返った。美哉を招き入れると、閉めたドアに頭を押し当てた。大きく息を吐いて気持ちを落ち着かせる。それから先にリビングへ行った美哉の後を追った。
 美哉は落ち着かない様子で辺りを見回していた。振り返って何か言いたげに俺を見る。言われる前に切りだした。
「さっきは悪かったよ。別に邪魔するつもりは…」
 …あったんだけど。
 内心そう思いながら謝ると、美哉は俺を見据えて低い声で呟いた。
「それは本心?」
 顔に出てたのか? 思わず俺は手で顔を覆った。美哉の顔が見る見るうちに曇っていく。顔を歪めて無理に笑みを浮かべていた。
「椿は…。ごめん、何でもない」
「美哉?」
 きびすを返した美哉が立ち止まった。
「さっきの、あいつは?」
「告られたけど断った」
 心底ホッとして、思わず溜息が出た。
「麻生との賭、やめたから」
 美哉の体がぴくっと動く。うつむいたまま、静かに声でそう、と呟いた。
「だから、そのうち…」
「本気であんなこと言ったんじゃないんだよ?」
 え? と美哉を見返すと、美哉は今にも泣きそうな顔で俺を見上げていた。
「サイテーなんて、本気で言ったんじゃ…」
 美哉の目から涙の粒がこぼれる、と思った瞬間に美哉はうつむくと玄関へ向かった。
「ごめん、なんか最近、あたしおかしいんだ。やっぱまた今度にする」
 こんな美哉は初めてだった。呆気にとられて後ろ姿を見つめていたけど、慌てて追いかける。玄関のドアを今にも開けようとした美哉の肩を掴んだ。
「どうしたんだよ? さっきのヤツに他になんか言われたのか?」
「分かんないの。当たり前だと思ってたことがそうじゃないって気付かされて。そしたら急に自信がなくなって、どうしたらいいか、どう接したらいいか、分かんなくなってきたの」
 美哉は戸に頭を押しつけるようにして震える声で言った。
 それが俺のことを指しているのは何となく分かった。そんなことを感じ始めていたのは俺だけじゃなくて、美哉もだったことに正直驚いた。
 両方の指先で涙を拭いながら美哉はゆっくり振り返る。
「椿が昔から必要最低限の人としか糸を繋ごうとしないのは分かってた。何かの節目節目で糸を切り離していってることも」
 俺は肩を掴んでいた手を離した。何か返そうと思ったけど、あまりにも的を得ていたから何も言えなかった。意識してやっていたわけじゃない。防衛本能みたいなものだった。
「…うん、分かってるよ。椿ってそういうとこ不器用だもんね」
 美哉は俺の心を読んだみたいにそう言うと口を緩めた。そうかと思うと、しきりに瞬きを繰り返す。
「どこかであたしは大丈夫だって勝手に思ってた。でもこの家を出るっておじさんから聞いたとき、あたしは例外じゃなかったんだって気付かされたの。椿は遠ざけていく気なんだと思った。あたしとの糸を切り離すのかなって、そればっかり考えて怖かった。お姉ちゃんとキスしたって聞いたときは、あたしは糸を切られたと思った」
 俺は顔を歪めた。
「あんなの、俺が切ったんじゃない。切られたのは俺だよ」
「なんでそう思うの?」
「なんでって…」
「ぶち壊して欲しかったのに」
 心外そうに眉間にしわを寄せて見上げた美哉の目から、また涙が溢れそうになった。


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