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 途方に暮れて髪を掻き上げると、美哉が恨めしそうな顔で呟いた。
「何で肝心な時に壊さないのよ?」
「そんな」
 しっかり立ち止まって邪魔したじゃないか、と喉元まで出かかったのを飲み込んだ。
 そういえば、小さい頃から美哉が泣く姿はあまり見たことがない。小学校の途中までは俺よりも一回りでかかったくせに、いじめられると必ず俺の所へ助けを求めに来てたのを思い出した。その時だって涙を見せたことはなかったはずだ。
 今の美哉はどう扱ったらいいのか分からなかった。
「泣くなよ」
「泣いてなんかない」
 美哉は顔を赤くして抗議の声を上げる。そう言いながら、溢れそうになったままでとどまっていた涙が、堤防が決壊したように流れ落ちる。逆効果だったことにますます戸惑った。ああもうなんで? と自分自身に怒りの矛先を向けて呟きながら、美哉は両手で鼻と口を覆うようにしてうつむく。
 美哉が小刻みに鼻をすする音だけがしばらく続いていた。何とか気を落ち着かせようと必死になっている美哉を、見ていることしかできなかった。こんな状況で一体俺は何を考えてるんだと突っ込みを入れながらも、そんな一生懸命な美哉を可愛いと思ってしまう。きっと今までにもそう感じてきた瞬間はあったはずなのに、なんで今になってそんなことばかりに気がいくんだろう。
「椿は」
 落ち着きかけた頃にようやく美哉が口を開いた。
「なに?」
 美哉が目を丸くしながら俺を見上げる。気持ちが声に出てしまったんだろうか、自分でもこんな穏やかな声が出るなんて思わなかった。また美哉の目からじわっと涙が溢れる。なんなんだよ? コレは本気で対処できないぞ。一転してそういう顔をして見下ろすと、美哉も制御できない様子なのか必死に涙を拭おうと目元をごしごしとこする。大きく息を吐くと、ようやく言葉を続けた。 
「いつも欲しがってるのに、手に入れたものをすぐ切り捨てちゃうのはどうして?」
「…分からない」
 口ではそう言っても、ホントは分かっていた。
 もう失うことで傷つきたくなかった。大事なものほど衝撃が大きいなら、初めから手に入れてなければいい。手に入れたとしても、失う前に自分から手放してしまえばいい。バカみたいだけどそれが俺なりの処世術だった。
「怖いの?」
 答えることができないでいると、美哉はぽつりと呟いた。
「あたしは怖いよ?」
 涙で潤んだ瞳が、真っ直ぐ俺を見つめていた。
「椿にいなくなって欲しくない」
 訴えるような眼差しに、ほとんど無意識のうちに腕が勝手に伸びて美哉を抱きしめていた。自分がそうしたいというよりも、そうしてあげなきゃこの場から溶けて消えてしまうんじゃないかと思うほど、脆くて弱々しい美哉が見るに耐えなかった。
 美哉は体を固くさせて、一瞬息を飲んだ。そして腕の中で目を伏せる。
「ずーっとおじさんやおばさんに椿をよろしくねって言われ続けてたのに。昔は押しつけられてるようでヤダなって思ってたんだけど」
「…俺は、誰かについててもらわなけりゃ生きていけないヤツなんだと見なされるのがイヤだったよ」
 美哉は意外そうな顔をして俺を見上げた。
「…ごめん」
「でも実際そうなんだろ?」
 美哉は静かに首を振る。両腕を俺の背中に回してぎゅっと抱きついてきた。たったそれだけで頭の回路が吹っ飛びそうになった。美哉はそんな俺には気付かない様子で静かに呟く。
「椿が悪いわけじゃないよ。でもね、そばにいて助けたかった。そんなの驕りでしかないけど。だけど、椿は気付いたらみんなを遠ざけちゃってるようなズルいことするんだもん。そうやって振り払われたら、みんな戸惑うし傷つくと思うよ?」
 それを聞いて、それまで心の奥底にしまい込んでいた別の回路が高速で繋がり始めた。目の前にいるのは普段とは違う弱々しい美哉なんだとか、そういう一切が切断された。一度抱きしめた美哉を引き剥がして睨み付けた。
「傷つく? 誰が? 俺に向けられる目はどうせ偽善の塊じゃないか」
「そんな人ばっかりじゃないよ」
「母さんが死んでからそういう人間ばっかりだ。もうやなんだよ、お前だって分かってるからそんなこと言ってんだろ?」
「でも…っ」
「しがらみから逃れたいと思って何が悪い? 近所のババァども相手に、立ち直った振りするために一度築いた優等生をキープし続けなきゃいけなかった。親父に迷惑かけないように親戚連中のうざったそうな視線に健気な振りしなきゃいけなかった。学校だってそうだ。何かにつけちゃ俺の生い立ち引っぱり出して。そんなの俺が好きでやってるとでも思ってんのか? なあ? どうなんだよ?」
 美哉は何も言わず怯えたように俺を見つめる。こんなこと美哉にぶつけたってどうなるものでもない。分かっていたけどそれでも吐き出さずにはいられなかった。
「何でみんな俺が選べないことばかりでしか見ようとしないんだよ?」
 だんだん美哉の顔が見れなくなってきて俺はうつむいた。
「俺だってな、胡散臭い善意の道具にされんのはまっぴらだ」
 今の俺にはここは牢獄でしかない。それでも帰る場所はここしかなかった。それが一番腹が立った。
「畜生、こんなこと言いたくなかったのに」
 吐き出した途端に自己嫌悪の波が押し寄せた。顔を見られたくなくて、ごまかすようにまた美哉を抱きしめた。
「椿?」
「…違う、良くしてくれてることに、俺は甘えてるだけなんだ」 
 美哉がふいに何かを悟ったように小さくああ、と呟いた。俺のTシャツをぎゅっと掴みながら額を胸に押しつける。
「椿、ごめんね。今まで意味が分かんなかったの。ごめん、ごめんなさい」
「なにが?」
 俺は苛立った。
「沙苗おばさんから最後に言われてたの。『私がいなくなったら椿は自分を責め続けると思うから、違うってこと分からせてあげて』って。よく意味が分かんなくて、訊き返そうとしたら沙苗おばさんは息を引き取ったから、ずっと分からないままだったの」
 その瞬間、俺を迎えに来たあの日の母さんの顔が脳裏に鮮やかに浮かんだ。あのときと同じだった。もう何も考えられなかった。
 美哉は俺から体を離す。
「ねえ、椿。昔のままで良かったんだよ。前よりもっと良い子になる必要はなかったし、寂しいのを当たり散らしてもよかったんだよ。言いたいこと言って、したいことしても、あたし達は責めない。それにね」
 美哉が手を伸ばして俺の頬を包んだ。
「椿がこの家にいるのは、椿のせいじゃない」
 真っ直ぐに俺を見据える瞳を見つめ返した。だんだんその瞳がぼんやりと滲んで霞む。瞬きをすると美哉の手に滴が落ちた。
 何で美哉には、俺の求めていることが分かってしまうんだろう。


 自分の、世間から見れば不幸なんだろうという身の上に自分で可哀相とか思ったことはない。むしろ小さい頃はそれを感じさせないほど、俺を取り巻く周りの人たちは手を差し伸べてきてくれていた。
 だけど成長していくにつれていろんな事情が見えてくると、その手は、消して口には出さないけども可哀相だからとか、不憫だからとか、そんな理由で差し出されるのだと分かってきた。実は守られているのではなくて、監視されているのだと悟った。母さんが死んでからそれは顕著に表れた。
 俺からしてみれば、自分はいかに親切で良い人間かを周りに認めさせるために利用されてたようなものだった。母親がわりになろうとする担任の女教師や、何かにつけては頑張りやねと褒めちぎる近所の奴らにうんざりしたし、まとわりつく好奇の目から逃れたかった。ほっといて欲しかった。
 もう俺は平気だから。そう言って全てを断ち切ってしまいたかった。家庭環境じゃなく、俺自身で判断して欲しかった。
 だからこの家を出て、俺を知らない人のいる場所へ紛れてみたかったのに。

 そう考える一方で、周りから逃れることしか頭にない自分を責める、もう一人の自分がいた。
 次々と家族の誰かを失っていく俺は、大切な人たちを食い殺しながら生きる死に神だ。実際俺のことを陰でそういう風に評する親戚連中もいた。次は親父なんじゃないかと囁かれるのを聞いて、それが現実になる前に出ていこうと思ったのも理由の一つだった。
 鬱陶しいと思いながら、結局は支えられないと何もできなかったし、周りに甘えてここまで来た。本当は振り払う資格もなかった。どんな理由にしろ、差し伸べられる手を避けたり、好意を偽善と受け取ってしまうのは俺のひねくれた性格のせいだ。
 きっと、適度に守られていることも必要なんだと自覚できてこそ、自立出来てるってことに違いないんだと自分を叱咤した。
 本音と建て前の入り交じった積もり積もったものが爆発しないよう、細心の注意を払ってきた。そんな状況を壊したくてどうにかしたかったクセに、傷つくのも傷つけるのも怖くていつのまにかもがくことを諦めていた。対処法が分からないから、誰かを傷つける前に自分から離れようとした。
 新天地を求めて右往左往する苦労に比べたら、居心地の悪い場所でも慣れればどうにかやっていける。そうやって大人しく良い子の仮面を被って、これが俺の宿命なんだと見切りを付けたつもりだった。
 結局、自分で袋小路に追いつめていた。
 こんなことはもういいんだと誰かに終わりを告げられるのをずっと待っていた。


 ぎこちなく俺の涙を拭って腕を下ろすと美哉は再びうつむいた。
「でもね、もう助けてあげられない」
 美千代姉ちゃんと同じことを言われたのに、胸に杭を打ち込まれたような感じがした。ショックの度合いが全然違った。
「椿が必要なのはお姉ちゃんなんだ」
 再び美哉の顔が歪んで涙がこぼれる。
 俺は途方に暮れた。こんなに俺を救っておきながら、なんで俺の気持ちが分からないんだ? 苛立ちながら美哉を見下ろす。それに気付いているのかいないのか、涙を拭うこともせず、美哉はさらに言った。
「お姉ちゃんがいなくなってから、椿が何考えてるか分かんない。どんどんあたしの知らない所へ向かって行っちゃってもう手が届かない」
「それは…、気付いたからじゃないか」
 お互いに、自分の本心に。
「そうだよ。あたしは椿が必要で、椿はお姉ちゃんが必要で、そうやって矢印はずっと一方通行のまま、向き合うことはないんだ」
 そうじゃない。自分と向かい合ったらそれまで見えてた相手が見えなくなっただけじゃないか。とっくに矢印は向き合ってたのに。
 このまま美哉を手放したら二度と手に入らないと思った。
「行くな、俺から離れていくなよ」
 何かを言いかけた美哉の唇が微かに震える。薄紅色が誘っているように見えた。指でそっと涙を拭う。
 今、確かに俺が必要って言ったよな? そう心の中で確認して、
 そして、美哉にキスをした。


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