-----  ラブリー


   >>> 5



 いつかはバレるだろうと思ったけど、あんなにあっさりバレるとは思わなかった。
 見くびってたわけじゃない。それでもどこかで気付かないだろうと思っていた。俺だって美哉が何考えてるのか分からないことがあるし、美哉だって俺の考えてることが分からないときがあるはずだ。完全な関係じゃないし。
 そう考えると、結局人は一人なんだと思う。ふっと風のように吹き抜けていく孤独感。でもそれは今までのようなものとは少し違う。
 時々、自分のしていることは正しいのか不安になる。
 たいていの人は間違っていないと見なして何も言わない。そして、その目論見は正しい。だけど、いつまでもそういう事ってあるんだろうか。時々、無性に誰かにダメだしをして欲しくなる。お前のやっていることは全て間違っていると。そうやって自虐的な事を考えて、誰もそんなことは言わないのだと気付く。言われないように仕向けているのは自分自身なのだから。
 今までの行動を改めることは難しい。些細なことに、何十倍もの勇気を必要としなきゃいけない。その中でも未だに俺の中で決着の付かないことがある。
 本棚の下段に並んでいる、アルバムの背表紙の縁に指を掛ける。その瞬間、少し息苦しくなる。力を入れて斜めに傾けるようにして少し引き出す。あとは引っぱり出せばいいだけだ。だけど俺はそこで小さく息を吐く。そしてまた元に戻す。その背表紙を見つめたまま、途方に暮れる。
 ほんの少しの勇気が出せないまま、もう十四年。
 母さんの写真は平気だ。でも両親の写真は見ることが出来ない。きっと、もうどうってことないはずなのに、それでも指に入る力は途中で緩んでしまう。昔は俺と両親を写した写真を飾っていたらしい。でも俺がこの家へ来た頃、その写真を見てあんまりベソベソと泣くので、親父は全て封印してしまった。
 このアルバムに全部あるから、見たくなったときにはいつでも見て良いからね。
 そう言われてずいぶん経つけど、見てみたいと思うのにいつも指が動かない。自分のルーツが確かにそこには記録されている、…はず。
 いつからだろう、俺は写真を撮られるのがあまり好きじゃなくなった。カメラマンの父親を持つ子供じゃないよなと我ながら思うけど。だから今回の件はイヤだった。仕事として割り切って、少し我慢すれば金が入る。そう言い聞かせてカメラの前に立った。後ろ姿だけというのがせめてもの救いだった。
 長谷川ヒトミに抱きつかれても、なんだかピンとこない。例え人気上昇中のアイドルでも何かが違う。当然、背中に回す腕もぎこちなくなる。至近距離の彼女から漂う香りもさらにそれに拍車を掛けた。きっとどこかの有名ブランドの香水なんだろう。そういえば、学校でも似たような香りを放っている子がいた。長谷川ヒトミの大人っぽい雰囲気には似合ってるんだろう。でも落ち着かなかった。
 雑誌の中の俺と彼女なんて、どうせ偽物の世界だ。確かめるように美哉を抱きしめてみて、この感触だと思った。小さな肩に柔らかい体。柔らかいクセ毛の髪。ただ一つ違ったのは、そんな美哉からも微かにいつもとは違う匂いが香ってきたことだ。そのほんの僅かな違いに俺は戸惑った。誤魔化すように美哉の体に触れた。
 人のことは言えない。俺だって高校の頃と全く同じって訳じゃないし。
 それなのに、こうして俺の目の前にいる美哉は、本当に俺の知っている美哉なんだろうかなんて、そんな馬鹿なことを考えてしまう。その香りに吸い寄せられるように近付くヤツに、どう対処するんだろうとか、唇がほんの少し紅いのはなぜなんだろうとか。
 晩ご飯なんて口実だ。フライパンの中で徐々に出来上がっていく料理なんてどうでもよかった。
「椿、片栗粉ってどこ?」
「え?」
「片栗粉ーっ。とろみつけるのにいるんだよ」
「…ああ」
 棚を物色して手渡すと、美哉は不思議そうに俺を見上げる。
「どうしたの? さっきからなんか変だよ」
「別に、気のせいだよ」
「もしかしてヘンタイって言ったの怒った?」 
「いいや」
 美哉はほんとかなぁと言わんばかりの顔をして訝しげに俺を見やると、またフライパンの方へ集中する。
「なあ、なんで唇が紅いの?」
 弾かれたように美哉が振り向いた。頬が紅潮している。
「…似合わない?」
「いや、そうじゃなくて」
「入学祝いにお姉ちゃんに買って貰ったの」
 そう言うと美哉は恥ずかしそうに目を伏せた。ほんの少し俯いた顔に手を伸ばす。頬に触れて、それからほんの少し顔を引き上げる。美哉の目が俺をまっすぐ見つめる。
「似合うとか、似合わないとかじゃなくて…」
 うまく言葉が見つからない。頬に当てた手の親指で美哉の唇をなぞる。口の端まで指を動かすと、微かに口紅が唇からはみ出した。
「知ってる? 人間の女の唇が紅いのも、雌猿の尻が赤いのも、みんな男を誘って惑わす為なんだって」
 美哉はどう答えて良いかわからない様子で俺を見上げる。俺も何か返して欲しいわけじゃなかったから別に構わなかった。困ったような表情をして目を逸らせた後、また潤んだ瞳がまっすぐ俺を捉える。
「ねえ、マーボードーフ…」
 俺の手を顔から剥がそうとしながら美哉が呟く。どうせもうほとんど出来上がってるんだ。俺はカチリと火を止める。
 美哉の形ばかりの抵抗を無視してキスをした。唇が離れるときに、しっとりとした美哉の口から小さく息が漏れた。
「…惑わされた?」
 答える代わりに口元を緩ませた。
「なんか、リップグロス程度しか使ったことないから、落ち着かなくて。お姉ちゃんはそんなに濃い色じゃないから平気とか言うけど、でも唇だけ浮いてるような気がして…」
「それ以上ぐちゃぐちゃ言うともう一回するぞ」
「いいよ」
「やめた。しない」
 その時、絶妙なタイミングで炊飯器のタイマーが鳴った。
「飯食うぞ、飯」
 頬を火照らせたまま、再びガスを付ける。俺の中であのアルバムがよぎった。
「あのさ、今度…」
 言いかけてやめた。こういうときに美哉を頼るのは間違っている。きっと口にすれば美哉は二つ返事で了解するだろう。だけど、それじゃダメだ。これだけは一人で解決しなくちゃ意味がない。そう思い直した。
 美哉は、なあにと小首を傾げるようにして続きを待っている。
「なんでもない」
「デートのお誘いかと思ったのに」
「は?」
 俺の面食らった顔を見て、本当にデートの誘いじゃなかったことを知ると、美哉はなーんだと拗ねるように言った。そういえばまともにそういうことをしたことがなかったかもしれない。
「あ、じゃあ、来週の日曜」
「“じゃあ”?」
「なんだよ文句ある?」
 すぐには答えずに、美哉はしばらく俺の顔をじっと見る。
「いいよ。空いてる」
 なんだか、お互いに、踏み絵みたいに何かを確かめているようだった。
 体はふとした瞬間に繋がるのに、心はそれに満足しない。満足できない自分がどうにも浅ましく思えていやだった。


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