----- 汝の罪人を愛せよ


   >>> 14


 妃奈子は家に戻ってからも、幸の時計をずっと手にしていた。
 眺めながら頭の中で幸の言葉がぐるぐると繰り返される。
 努めてなんでもないことのように言ってはいたが、その裏では今の妃奈子以上に身を切るような思いがあったに違いない。言葉の端々にそれを感じてシャツを掴んで引き留めないではいられないほど、妃奈子には痛々し過ぎた。
 撃たれたということは体に傷が残っているはずだ。きっと忘れたくても、その傷がある限り縛られ続けてきたのだろうと妃奈子は考えた。彼が『過去に引きずられている』と言っていたのはこのことだったのだ。
 それなのになぜ似たような境遇の自分を助けようとしてくれるんだろう? 自分に接すれば必然的に過去を思い出してしまうはずだ。そもそも、そういう経験を経たのに今の仕事に就いているというのが不思議でしょうがなかった。
 だがお陰で妃奈子ははっきりと確かめることが出来た。
 保苑幸は信ずるに値すると。
 彼なら、妃奈子の心の中でもやもやと燻り続ける思いを消す手助けをしてくれるだろう。幸に出会ってから、妃奈子は急速にこの苦行のようなしがらみからなんとか自分の力で逃れたいと思うようになっていた。
 幸に出会わなければ、逃れたいと思うこともなかったかもしれない。時が解決してくれると思っていたが、それは自分で動き出さない限り、先へは進まないのだ。それを幸は気付かせてくれた。
 妃奈子は幸から質草と言う名目で手渡された時計の針が、正確に時を刻んでいくのを見つめる。同じ時計でも、この時計は一歩一歩妃奈子が前へ進んでいくのを後押ししてくれるように感じた。
 言うなればあの時計は手枷みたいな物だったのだろうか? 
 最初は他人の手に渡ってはいけないと思っていたが、幸に手渡した途端に何か解放されたような気分だった。
 妃奈子は目を閉じた。時計の針の音に集中して耳を澄ます。
 はっきりと言葉には出来ないが、きっと本気で好きになるとはこういうことなのかもしれないと妃奈子は思った。腕を取られたり、頭をなでられたりするだけでもいい。触れられると迷いが晴れるような幸福感に包まれた。
 妃奈子はベッドに横になっていたが、急にベッドの脇に誰かが腰掛けるような気配を感じた。
 保苑さんだったらいいのに。
 妃奈子は目を伏せたまま考える。
 相手がゆっくりと振り返って、手がこちらに伸びてくるのが分かった。ひんやりとした手が首筋に触れて妃奈子は驚いて目を開けた。
 目の前には塙志がいた。
 憂いを湛えた瞳で妃奈子を見下ろしてはいたが、塙志はゆっくりと妃奈子に馬乗りになった。手は両方とも妃奈子の首にあてがわれている。
「ヒナが悪いんだよ?」
 妃奈子は身動きすら取れなかった。小さく開いた口からは声を出すことも出来ず、渇いた口の中が微かに痛んだ。
「ヒナが悪いんだ、こうさせる妃奈子が」
 そういいながら塙志は手に力を入れた。
 苦しさのあまり妃奈子は塙志の手を払おうと手を掴む。だが塙志の手はびくともしない。息も絶え絶えになり、涙が出てきた。助けてと叫ぶ代わりに掠れた咳が出る。
 もう一度、大きな咳が出た。
 そこで目が覚めた。
 いつの間にか眠っていたらしく、薄暗い部屋の天井が見えた。
 こめかみの辺りを涙が伝って落ちていく。
 声が聞こえたことはあっても、こんなことは初めてだった。
 どうしようもなく怖かった。
「助けて」
 声にならない言葉が口をついて出る。
 妃奈子は手の甲で口元を覆って鼻をすするともう一度呟いた。
「保苑さん助けて」
 妃奈子は体を縮こませるようにして横向きになると、手にしていた時計を握りしめた。


◇ ◇ ◇


「保苑君、待って。保苑君!!」
 幸は呼び止められて振り返る。
 あれから直ぐに電車に飛び乗って妃奈子の家の最寄り駅まで一緒に向かい、駅前で妃奈子と別れた後、幸は警視庁の所轄署へ急いだ。鑑識へ妃奈子から預かった時計を大至急調べるように頼んでいたが、幸の名前を呼んだその鑑識課の男は渋い顔をして駆け寄ってきた。
「もう分かったんですか。早いですねえ」
「あの時計、ホントにあの女の子が持ってたって?」
「ええ、そうですけど…」
 それがなにか、と続けようとした幸を彼は辺りを窺うようにした後、廊下の隅へと追いやった。
「なんであの子があんな物持ってんの」
「それが分かんないからお宅に預けたんでしょう?」
「持ち主の身元はすぐに分かったよ」
 男はさらに声を落とした。
「防衛庁長官の息子だった」
 幸は一瞬大きく口を開きかけたが、きゅっと唇を噛んだ。男から時計の入った袋を取り上げると、ありがとうございますと答えて再び歩き始めた。
「保苑君、ちょっと、どこ行く気?!」
「どこってお隣の県まで」
「これがどういうことか分かってんのか」
「あの子に確認取った後で任意同行でしょう」
 構わず歩く幸を署の刑事が引き留めた。
「それがなんの物証になるって言うんだよ」
「アリバイを訊くだけでも?」
「保苑!!」
 幸は掴まれた腕を振り払うと、血相を変えて後を付いてくる輩を睨むように見渡す。
「話聞くだけでしょう、何をためらうことがあるんすか」
「関係があってもなくても、マスコミに知られたら大事だぞ。軽々しく動くことは許されん」
「あなた方は犯人と知りつつ野放しにすることと、たかが政界トップの息子ごときと、どっちを気にしてるんですか。もともと世間から忘れ去られようとしてた事件なんだ。今更マスコミが騒ぐわけもない。そんなに誤認逮捕にビビってるんなら布石を固めりゃいいんでしょう?」
 啖呵を切った幸に、一同は一瞬水を打ったように静かになった。途端にふざけるなと言う罵倒と共に拳が降りかかってくる。幸はそれらを器用に避けながら叫んだ。
「あんた達はなんのためにこんなことやってるんだよ」
 尚も殴りかかろうとするのを押さえる人間と、幸をそれらから離そうとする人間とでさらにごった返す中、幸は努めて冷静に、だが怒りを煮えたぎらせながら言った。
「俺は犯罪者を捕まえる為にやってる。少なくとも蓼倉さんからはそう教わってきた。あんたらは違うのか?!」
「ならやってみろ」
 不意に騒ぎの外から声がして一斉に振り返る。老年の刑事が咥えタバコでニヤニヤと笑っていた。
「お前らそんな暇があるなら仕事しろ、仕事」
 そう言いながら、その男は幸の側まで行くとにやりと笑った。
「蓼倉も面白い子分を持ったよなぁ」
 幸が訝しげに目を細めると、男は幸の二の腕をぽんと叩いた。
「丸山がよろしく言ってたって蓼倉に伝えといてくれや」
 一同は拍子抜けしたように、各々の持ち場へ戻っていく。幸も唖然としたように丸山を見つめた。丸山はデスクに戻りかけた刑事課長に向かって叫んだ。
「課長、俺がこいつに付いてもいいかね」
「なっ…、丸さん、俺はどうなるんすか」
 それまで幸と一緒に組まされていた刑事が目を丸くする。
「足引っぱってばかりのお前じゃ、進むもんも進まねぇだろうが」
「そんな…、課長!!」
 課長と呼ばれた中年の男は渋い顔をしていたが、一言、丸さんよろしくと言うと部屋に戻っていった。そのやりとりを黙ってみていた幸に、丸山はにっと笑って行こうかと歩き始めた。
「あの…」
「なんだよ、確信があるんだろう?」
「ありますよ」
 新たにタバコを取り出した丸山に幸はライターの火を差し出した。
「おお、すまねぇ。…ま、今まで継続捜査とは名ばかりでほとんどほったらかしにしてたのが事実だからな。お前さんが短期間で物証持ってきたことにみんなビビってんのさ」
 丸山は煙を吐くと幸を眩しそうに見上げた。
「お前さんが本店イチ押しの男か。やり方は乱暴なとこもあるらしいが、蓼倉直伝じゃしょうがねえやな」
 幸も黙ってタバコを吹かした。
「その蓼倉も俺直伝だから、文句を言えた義理じゃねえってわけだ」
 幸がぴくりと反応して丸山を見下ろすと、まあそういうこったと丸山は不敵な笑みを浮かべた。幸は納得したようにふっと笑った。
 神奈川県警の所轄署に赴くと、差し出した時計と書類を見て加東の顔は引きつった。
「彼は今もこの近辺に住んでんのかな」
「ええ、確か」
「じゃ、居場所確認しといて下さい。俺は写真見せに行きますんで」
 加東は分かりましたと硬い表情で答えただけだった。幸はその様子を見て去り際ににやりと笑う。丸山はそれぞれの顔を見比べていたが鼻で笑って幸の後に続いた。


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