----- 汝の罪人を愛せよ


   >>> 13


 どんよりした曇り空は、連日の猛暑をほんの少し和らげていた。
 村上診療所の最寄り駅にたどり着いたときにはぱらぱらと小雨が降り始めて、妃奈子は手にしていた傘を広げた。
 白地にベージュのギンガムチェックの傘をくるりと回すと、鞠子と食べようと買ってきたケーキの箱を持ち直した。兄のことを鞠子に話して以来、ほんの少しではあるが気が楽になった。幸の言う「懺悔室みたいなもの」というのはあながち嘘ではなかったのだと妃奈子は思った。
 鞠子と気兼ねなく幸について話すのも楽しかった。そして鞠子から幸のことを聞かされるたびに、会いたくて胸がちりちりと痛んだ。過去の幸に何があったのか、それも訊いてみたかった。
『俺を本気で好きだって言うなら』
 不意にその言葉が甦って妃奈子はパチパチと何度も瞬きをした。結局そう言われて逃げてしまった。嫌いなわけではないはずだと鞠子はフォローしてくれたが、そんなのは本人の口から聞かない限りは想像の範囲でしかない。妃奈子は小さく溜息をついた。そして無意識のうちに幸のことばかり考えていることに気がついた。
 なんで保苑さんじゃなきゃ駄目なんだろう?
 自分でもよく分からずに妃奈子はまた溜息をついた。
 

「保苑さんが来るの?」
 鞠子にケーキを手渡しながら妃奈子は目を見開いた。その途端に顔が火照るのが自分でも分かった。鞠子はよかったわね、とにっこりと笑う。バレバレなのだと知って妃奈子はさらに顔が熱くなった。
 急に落ち着かなくなって辺りをそわそわ眺め出す妃奈子を見て、鞠子はもうすぐ来ると思うから座って待ってたら? と笑いながら促した。妃奈子は慌ててお気に入りの椅子に座った。ゆらゆらと椅子を左右に揺らしながら入り口を凝視する。3分も経たないうちに、見覚えのある大きな人影が現れて妃奈子は弾かれたように立ち上がった。
 鞠子から予告を受けてはいたものの、実際にその姿を目にすると妃奈子は急に胸が息苦しくなるのを感じた。辺りをうかがいながらそろりと部屋へ入ってくる幸の仕草は、猫のようだと妃奈子は思った。髪から滴をしたたらせ、妃奈子が電車に乗っている間に予報通りに降り始めた雨に幸は思い切り降られてしまったらしい。
 困ったような笑みを浮かべて、鞠子に差し出されたタオルで頭をがしがしと拭きながら幸はぼやいた。
「降るだろうってのは分かってたんだけど、タイミング悪すぎた」
「髪がくるくるしてたなら傘くらい持ってなきゃ」
 苦笑する鞠子に幸はうんざりしたようにああホント、と溜息をついた。
「髪がくるくる…?」
 意味が分からなくて思わず呟いた妃奈子に鞠子は笑い声を上げた。
「ほら、幸君てくせ毛でしょう? だから雨が降りそうな湿度の高い日は毛がくるくるしちゃうんだけど、その辺の天気予報なんかよりずっと確かなの。夫もそうだからよく分かるのよ」
「へえ…便利だね」
 妃奈子は素直に感嘆して目を見開く。その言葉に反応して、幸の目がくるっと自分の方に向けられる。妃奈子は思わず目を伏せた。
「幸君、服を乾かしましょうか? ウチの人のでよければ着る物も貸すけど?」
「あー、サンキュ、助かるわ。今日も家に帰れそうにないから」
 すでにネクタイを外し、ワイシャツを脱いで下に着ていたTシャツ姿になっていた幸は躊躇することもなくそのTシャツも脱ぎ始める。その姿にギョッとして、また椅子に座っていた妃奈子は慌ててくるりと幸に背を向けた。
「幸君…」
 夫の服を手に戻ってきた鞠子が呆れたように声を低くして呟く。幸はきょとんとした顔で鞠子を見た。
「うら若きオトメが目の前にいるんだから少しは気を使いなさいよ」
「え? ああ、悪い。濡れてんのが気持ち悪くて、なんっも考えてなかったわ」
 鞠子に言われて妃奈子の方を見ると、いつの間にか自分に背を向けて体を縮こませていた。それをちらりと見やりながら幸はぼそぼそと呟く。
「そうは言うけどさ、親父とか兄ちゃんいるんだから上半身裸くらいどうってこと…」
「身内と赤の他人とじゃ大きく違うの」
 鞠子が息巻いてやり返すと、幸はあーそうですかと横目で睨み付ける。
「て言いながら、なんでオマエは堂々と見てんだよ」
 鞠子から渡されたTシャツに腕を通しながら幸は毒づく。
「あーそっか、もううら若くは…」
「人妻の私が、幸君みたいなへなちょこの裸に今更恥じらったってしょうがないでしょう?! まったくそういうとこって昔からホントに無頓着よね」
「随分な言われようだな」
「どっちがよ?」
 心底呆れた口調で鞠子が言うと、二人の脇で小さく笑い声が漏れる。その笑い声の方に二人が目をやると妃奈子が肩を揺すらせて笑っていた。
「妃奈子ちゃん…?」
 ぴくっと妃奈子の体が揺れた。
「あ、あのごめんなさい。可笑しくて」
 妃奈子はそう言うと、一度は収まりかけた笑いが再び沸き起こったのか、またくすくすと笑い出す。幸は戸惑ってまだ湿った頭をばりばりと掻いた。
「ちなみにもう着替え終わってるからこっち向いてもいいぞ」
「さてと、今日の本題にそろそろ移りましょうか」
 鞠子の声に妃奈子の笑いがぴたりと止んだ。恐る恐る振り返る妃奈子に二人は意味ありげに微笑んだ。そこで妃奈子はなぜ幸がここにやってきたのかを急に思い出させられた。鞠子は詳しいことは何も言わなかったが、幸がわざわざここに来たということは何かがあるのは一目瞭然だ。
 着替え終わった幸はTシャツにジャージ姿で濡れた髪も相まって、湯上がりのようだった。ソファに座ってタバコを吹かしているものの、今まで見た中で一番あどけない印象を受けた。
 だがそれでも幸は鞠子と同い年で妃奈子の過去を探る刑事なのだ。
 そしてその真っ直ぐにこちらを見つめてくる茶褐色の瞳だけでなく、今や存在すべてが自分を惑わす。
 妃奈子は幸から見つめられていることに耐えられなくて目を伏せた。その間に鞠子から一時的によそで暮らしてみたらどうかと提案されて、妃奈子は慌てて鞠子の方を見た。
「それでね、幸君の知り合いの刑事さんのところがいいんじゃないかって」
 妃奈子は不安げな表情を浮かべて幸の方を振り返った。
「及川も知ってると思う。佐久間っていって聴取とりに病院に来てたやつだよ。家が及川の学校の近くで、空手の道場やってるんだけど…」
「どうして?」
 再び鞠子の方を見た妃奈子は動揺していた。
「家にいると、兄ちゃんの声がするんだろ?」
「話したの?!」
 妃奈子は立ち上がった。
「一応、事件に関係あるからな」
「妃奈子ちゃん、これが解決策になるとは言い切れないわ。でも妃奈子ちゃんが感じてるお兄さんの気配からしばらくの間だけでも離れてみて、それでもまだ感じるものなのかどうか確かめてみたらどうかしら?」
「なんで…?」
「兄ちゃんに文句言われっぱなしだと許しを請う暇もないだろ? 夏休みの合宿だと思ってさ」
 穏やかな口調で諭すように幸がそう言っても、妃奈子は首を振るだけだった。鞠子はそう、と呟いてうっすらと微笑んだが、その顔には心残りがあるように見えた。妃奈子は困惑しきった表情で口を開く。
「ごめんなさい、今すぐには…」
 それを聞いて、幸は妃奈子の意志を無視して勝手に話を進めていたことに、今更ながら気付いた。何を焦っていたんだろうと自責の念に駆られながら、幸は俯く妃奈子を見上げた。
「そっか、そうだよな。悪い」
「あくまでも提案だから。強制はしないわ」
 そうだ、と鞠子は努めて明るい声で言いながら立ち上がった。
「妃奈子ちゃんが買ってきてくれたケーキ食べましょう」
「あっ…」
 椅子に座りかけた妃奈子が慌てて立ち上がって、鞠子と幸は何事かと妃奈子の方を振り向く。二人分しか買って来なかったことを妃奈子が恐る恐る告げると、幸はくすっと笑った。
「俺はいいから、気にすんな」
「でも…」
「じゃあ、アンタのを一口くれればいいからさ」
 それでも申し訳なさそうな顔をする妃奈子に、幸はタバコに火を付けながらまたうっすらと笑った。
「甘い物は女子の特権なんだから、俺に遠慮することないって」
「そうそう。急に押しかけてきた幸君が悪いのよ」
 鞠子が紅茶と共に冷蔵庫に入れておいたケーキを運んでくると、幸は背もたれにもたれかかっていた体を起こした。
「あ、結構うまそう」
 ほらやっぱり、と妃奈子は再び眉を寄せる。先にどうぞ、とフォークを渡すと幸はお言葉に甘えて、とタバコを灰皿に一端置いた。
「そんじゃ一口ね」
 そう言いながら幸はいきなりケーキに載っているイチゴにフォークを突き立てた。 
「あっ!!」
 思わず叫んでしまってから妃奈子は慌てて口元を手で押さえる。まさか第一刀がそこに行くとは露ほども思わなかったのだ。とはいえ、露骨な反応をしてしまって恥ずかしくなった妃奈子はなんでもない、と真っ赤になって俯いた。
「ウソウソ」
 妃奈子の反応に笑いをかみ殺しながら、幸は突き刺したイチゴを妃奈子の前に差し出す。
「ほら、あーん」
 その行為にさらに妃奈子は顔を赤くした。
「幸君…」
 鞠子がたしなめるように幸を睨む。
「冗談だって。俺はホントにいいから」
 そう言いながら妃奈子にフォークを渡すと、幸は再びタバコを取り上げる。
「まったくしょうがないわね」
「だってからかい甲斐があるんだもん」
 それを聞いてイチゴに囓り付きながら妃奈子はぷいとそっぽを向いた。これ以上幸の思うままにされて頬を赤らめてしまうのが悔しくもあったが、こうして構ってくれることが嬉しくもあった。この気持ちにどう対処して良いか分からずに、まだにやにや笑っている幸を妃奈子は軽く睨み付けた。


◇ ◇ ◇


 鞠子と三人で話をしていた時は和やかだったのに、村上家を一歩出た途端、二人は急に無口になった。
 雨はもう止んでいて、妃奈子はたたんだ傘をゆらゆらと振りながら歩いている。幸のスーツは完全に乾いていたわけではなかったが、Tシャツとワイシャツは洗濯されていた上に、丁寧にアイロン掛けまでしてくれていたので別段気にはならなかった。
 及川、とようやく幸が口を開いた。妃奈子は幸の方を見上げた。
「あのさ、『起こってしまったこと』はもうやり直せない。特に死んでしまった人に対してはね」
 それを聞いた妃奈子の目が軽く見開かれた。妃奈子は何も答えなかったが幸はそのまま続けた。
「アンタが周りのオトナに不信感を抱く気持ちは分かるよ。俺もそうだった」
「保苑さん」
 妃奈子は真っ直ぐ前を向いたまま、遮るように口を開いた。
「何?」
「保苑さんは、過去に何があったの?」
 幸は僅かに戸惑った。なかなか答えない幸を訝しんだのか、妃奈子が顔を向けてきた。その固い表情を見た途端、幸は開きかけた口を閉ざした。妃奈子は好奇心で尋ねたのではないと思った。これは一種の交換条件だ。もし適当なことを返して誤魔化してしまったら、妃奈子は本当に自分を信頼してはくれなくなるだろう。
 もう潮時なのかもしれないな、と幸は意を決した。
「俺はね、子供の頃に警官に撃たれた」
 案の定、妃奈子の顔色が変わった。どうして、と小さな声で再び妃奈子は問いかける。
「もちろん誤射だよ。俺を狙ったわけでも犯人を撃つつもりでもなかったらしい。新人警官でね、強盗犯が人質とって抵抗する場面に初めて遭遇して、動揺してたんだそうだ。雨もひどく降ってたし、威嚇で構えてたのが手でも滑ったんだろうな」
 自分でも驚くくらいにすらすらとあの日のことを口にしていた。時の経過は解決になりはしないと思っていたが、さすがに二十年近くも経てば変わるのだろうか。幸はそんなことを考えながら、さらに続けた。
「皮肉的なことに、撃たれた傷を犯人が咄嗟に押さえて止血をしてくれたお陰で、俺は失血死になるところを救われた」
 不意に妃奈子がシャツの袖を掴んだ。
「もう…」
 それだけ言うのが精一杯なのか、あとは首を横に振った。このことをどれだけ長い間、自分の中で封印し続けてきたのか、恐らく妃奈子には分かったのだろう。
 幸はそれでも構わず、自分を嘲りながら言った。
「善悪の基準がひっくり返されりゃ、こんなひねくれたオトナになるわけさ」
「ごめんなさい、もう訊かないから。ごめんなさい」
 引き留めるように尚も妃奈子はシャツを引っぱる。幸は立ち止まるとそっと腕を掴んだ。シャツからその手を離させると微笑みかけた。
「助けた相手がちゃんと無事なのに、自分が殺されたからってぐちぐち恨むようなヤツは忘れちゃえよ」
 妃奈子は眉をひそめかけたが、俯いてからこくんと小さく頷いた。幸は目を細めて、いい子だというようにそっと頭をなでた。
「それはそうと今何時だ? 会議あるの忘れてたわ。間に合うかな」
 そう言いながら幸は時計を見た。妃奈子もつられて自分の時計を見る。幸はその妙に不釣り合いなそれに気付いた。
「その時計は? 兄ちゃんの?」
「分からない。気付いたら手元にあって、なんとなく大事にしてるけど」
 幸は妃奈子の腕を取ってその時計を間近で見る。妃奈子の頬がまたうっすらと赤くなる。
「ふーん、限定品だな」
「なんで分かるの?」
「んー? この手のデザインはけっこう好きだからさ」
 そう言いながら幸は妃奈子に外すように促した。幸は妃奈子から受け取った時計を手にすると、改めて注意深く眺める。裏蓋に目が行くと小さく呟いた。
「シリアルナンバー入りだな。借りていい?」
 妃奈子は複雑そうな表情を浮かべた。
「元の持ち主を調べるだけだよ」
「でも…」
 それでも妃奈子の表情はすっきりしない。幸はしょうがねぇなあ、と言いながら自分の時計を外して妃奈子に渡した。妃奈子がつけていたのと同じクロノグラフでデザインは似ていたが、メタルベルトだった。ベルトの調節が利かないので妃奈子の腕にはつけることは出来ない。妃奈子は困惑したように幸を見上げた。
「これを借りる質草。それならいいでしょ?」
 ちゃんと返すから、と言い聞かせるとようやく妃奈子は承知した。


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