----- 汝の罪人を愛せよ


   >>> 5


 幸は資料室の机で物思いに耽っていた。机の上には幾つかの資料が積まれていた。
 あの高校での事件は6月下旬だったからすでにひと月近く経っている。学校ならもうそろそろ夏休みになる頃だ。
 事件直後、妃奈子を救急車まで連れていった後で、幸は応援が来るまで現場の指揮を執るために校舎へ戻った。確かに自分の腕の中にいるときまでは、意識が朦朧としていたものの、妃奈子は落ち着いていた。てっきり妃奈子に投与された薬物は鎮痛剤の類だと思っていた。
 ところがその後の話では、自分がいなくなった途端、まるで発作でも起きたように妃奈子は救急隊員達を怖がって暴れたというのだ。もともと男性恐怖症の気があるとはいえ、薬物の幻覚作用によって恐怖は倍増されたのか、その暴れ方は尋常ではなかったらしい。
 それは病院に運ばれた後も続いた。
 落ち着かせようにも薬を使うことは出来ない。複数の薬物投与の疑いもある上に、いったいどんな種類の薬物をどのように投与されたのか確定できないので、ほとんど何もできなかった。
 自分の頬の傷の手当もあって、後から現場を抜け出して病院に駆けつけた際に、廊下まで妃奈子の声が響いているのを耳にする。幸は思わず足が止まった。廊下の長椅子に座って待っていた佐久間から、せいぜい成分を薄めるために輸液を行うことしかできないのだと説明を受けた。時間の経過によって薬物の効能がなくなるのを待つだけだと知って、幸は愕然とした。
 病室から絶え間なく妃奈子の叫び声が聞こえる。学校で彼女に詰め寄ったときの怯えた顔が浮かんだ。今の妃奈子の頭の中にはいったいどんな恐怖が居座っているのだろうか。
「あれはいったいいつまで続くんだ?」
「さあ…。薬の種類によって差があるのでなんとも言えませんが、長時間作用する物でなければ、普通は6時間から8時間ほどで幻覚作用はなくなるそうです」
 幸は思わず面会謝絶の札が下がっているドアに手をかけた。
「保苑さん、ダメです」
 佐久間がその手を押さえる。ドアノブを握った手に力が入る。
「ダメです。男の人は、ダメなんです」
 それを聞いて幸は佐久間の方を振り返る。
「過剰に反応してしまうので、女性しか近づけません」
 だが、自分なら大丈夫かもしれない。幸は佐久間の制止を振り切ってドアを開けた。
「保苑さん!」
 佐久間の声に妃奈子に付いていた母親らしき女が振り返った。幸は構わず妃奈子に近付く。
「及川?」
 妃奈子の顔を覗き込むようにして幸は呼びかけた。うつろな目をして何か叫んでいた妃奈子が幸の声に反応したのか、定まらない目線でわずかに幸の方に顔を向ける。ホッとしかけた瞬間、妃奈子の口から絶叫が漏れた。
 激しく身を捩って暴れる妃奈子の腕が幸の頬を掠める。
「及川…」
「部屋から出て下さい!」
 妃奈子の声を聞いて駆けつけた看護婦に引き剥がされた幸は、部屋の外に追い出された。再びぴしゃりとドアが閉ざされた。
「保苑さん」
 佐久間に腕を取られて幸はようやく我に返った。 
「…なんだよ、あれは?」
 幸は聞き取れないほど小さな声で呟いた。
「事情聴取は私がやります」
「…ああ」
「保苑さん、大丈夫ですか?」
「ああ、いったん署に戻るわ。なんかあったら連絡して」
 幸は心配そうに見つめる佐久間から顔を逸らせる。それだけ告げると病院を後にした。
 あれはいったいどういうことなのか。自分はまた振り出しに戻ってしまったのだろうか? それとも一時的に錯乱しているだけなのか?
 幸は病院の門を出るとタバコを吸おうとして、上着がないのに気が付いた。妃奈子をくるんだ上着は病院にあるのだろうか? 今は引き返して尋ねてみる気にもなれなかった。幸い、普段は内ポケットに入れている手帳は手元にある。別に今すぐに引き取りに行かなくても支障はない。
 幸はタクシーを止めた。乗り込んで、ぼうっと窓の外に目をやる。外はもう日が落ちようとしていた。遠くに見える高層ビルの群がオレンジ色に染まっていた。
 ほんの数時間前、妃奈子がああよかったと呟いて自分の胸に顔を寄せたのを思い出す。 あれこそいったい何だったのだというのだろう。 

 幸は閉じていた目を開けた。
 佐久間の調書によると、妃奈子は校長に刺されたことまでは覚えていたらしい。だがそれ以降のことはすべて曖昧だった。医者によると薬の作用で幻覚を見ることはあっても、記憶がなくなることはないらしい。不思議なことに、妃奈子は救急車に乗り込んでから病室で大暴れしたことに関しては一切記憶がないと言った。
 そのせいだったのだろうか? しばらく経って学校に出向いたときに、妃奈子から差し出された手に幸はひどく動揺した。振り出しに戻ったのではないことは分かったが、どうにも腑に落ちなかった。さらに妃奈子に微笑まれたときは一層、混乱した。あれはむしろ進歩といってもいい。
 記憶が抜け落ちたあと、彼女に残った俺の残像は何なのか?
 大きく溜息をつくと、幸はこれと思しきファイルに片っ端から目を通し始めた。いくつか目を通していくうち、一つに目が止まった。
「これか…」
 幸は思わず呟いた。


「ぐはー、あやや、萌えー」
 先ほどから花垣は超売れっ子アイドル、松木あやの写真集を眺めてご満悦である。その様子を見ながら、花垣と同じ所属の佐久間鹿恵(さくまかえ)はすっかり呆れ返っていた。
「花垣君ヨダレたれてるわよ」
 花垣はエー? そうっすかー? と言いつつも全く気にしていない様子だ。
 部屋に戻った途端に嬌声を聞かされて、幸はタバコの煙をワザと花垣に向かって吹き付ける。それでも花垣の顔のゆるみは元に戻らない。恍惚としたような表情で顔を上げると花垣は言った。
「僕もあやちゃんの通ってる高校に潜入捜査してみたいなぁ」
「動機の不純なオマエにゃ一生無理だな」
「保苑さんは女子高生堪能しまくってうらやましいっすよ」
 それを聞いて佐久間が思い当たるフシがあるのかくすっと笑う。幸は眉をぴくりと動かした。
「…花垣。一つ言っておくぞ。普通の高校に松木あやはいない」
「はっ! そんなコト言って。ちょっと高校生活を垣間見れたからって」
 花垣は鼻で笑った。幸はいいか、と続ける。
「確かにアイツらは短いスカート翻してぱんつ散々ひけらかしてたけどな、そんなのあの環境にいると三日でどうでもよくなるぞ」
「ぱっ…?」
「シロとかピンクとか色々あったっけかな」
「ぱんつですか!!」
 花垣が目を輝かせながら叫ぶ。幸はやかましいと頭をはたいた。
「それよりもだな。驚愕の事実は昨今の高校生の体操服はぶるまではないということだ」
「はっ?!」
 途端に花垣の顔から笑みが消えた。
「もちろん、短パンみたいなのでもない」
「そんな、…保苑さん」
 幸は勝ち誇ったように椅子の背もたれに体を預ける。
「はーふぱんつだ。はーふぱんつ。膝まであんぞ。一体誰だあんなモノ考えたヤツは」
「嘘だと言って下さい」
 花垣はすがるような声を上げる。佐久間はアタマ痛くなってきたわ…と手の平を額に押し当てた。幸は体を起こすと、苦笑しながらタバコを灰皿に突っ込んで揉み消した。
「おまけに最近の女子高生の体のでかいことと言ったら。初日に集団で襲いかかってこられたときにゃ俺は死んでしまうかと思った」
 それを聞いて佐久間がぽつりと呟いた。
「でも花垣君なら女子高生にもまれて死ぬって本望なんじゃないかしら」
「……ああ」
 幸は遠い目をしながら言った。
「ああって。ああってなんですか、ああって」
 花垣は抗議の声を上げる。幸は天井を仰ぎ見ながら、思わず妃奈子の体操服姿を想像しかけて慌てて妄想をかき消す。おそらく妃奈子は花垣には格好の餌だろうと幸はぼんやり思った。
「女子高生ねえ…」
 それまで横で大人しく話を聞いていた蓼倉がぽつりと呟いた。
「そう言えばあの事件。校長も化学教師もそいつらなりのお楽しみがあったみたいだけどさ、無抵抗な状態でいろいろやってもつまんないだろうにねぇ。あんなの抵抗されるからこそやりがいが…」
 そこまで言いかけて蓼倉は視線に気付いた。三人が固まったように自分の方を見つめている。周囲にいた人間は顔を下に向けて必死に聞いていないフリをしていた。
「や、失敬」
 蓼倉はあははーと笑った。
「蓼倉さんも同類っぽそうだから侮れないよな…」
「…幸、あんたホント失敬だねぇ」
「そういうコトを言う人がわざわざこんなのプリントアウトしてくれるとは涙が出るね」
 幸は2枚の紙を蓼倉に向けて突きつけた。蓼倉はにっこりと微笑んだ。
「ああ、それ? 神奈川県は厳しいってこと知らせておいた方がいいかなって」
 幸は、あははははと乾いた笑い声をあげる。
「どこまで知ってんすか」
「そりゃ。アンタの考えなんて全てお見通しなのよ、僕は」
 幸は目を細めて蓼倉を睨み付ける。机の上に放り投げたのを佐久間が覗き込んだ。
「『東京都青少年の健全な育成に関する条例』と『神奈川県青少年保護育成条例』ですか…」
 佐久間は幸の顔をちらりと見るとすーっと体を引いた。
「コラ待て。なんで青少年からとうに卒業したお前が逃げる」
「右も左も頭の中は煩悩だらけだわ…」
 やれやれと佐久間は首を振る。
 そう言いつつも幸の言うとおり、佐久間は署内でもダントツに大人の女の色気を放出している。今日も胸元が大きく開いたノースリーブのニットに何人が釘付けになっていただろうか。だが佐久間の場合、棘のあるバラと同じで眺めることしかできない。触れようものなら即座に腕をへし折りかねないほど、空手の腕前は確かだった。
 蓼倉は上着の内ポケットから扇子を取り出すとぴっと広げて扇ぎ始める。越後屋よろしくにんまりと笑った。
「まーたまたそんなこと言って。君がピンヒールで踏んづけて、そういうプレイが好きなひったくりの現行犯喜ばせちゃったって話、僕が知らないとでも思ってるの?」
「ナニ?」
 一斉に部屋中の人間が佐久間の方を振り返った。佐久間のこめかみがぴくっと動く。
「ご希望なら額を陥没させてあげてもよろしくってよ」
「ああ、その時はもちろんミニスカートで、だよな?」
 幸がにやりと笑うと、佐久間は冷ややかな笑顔でお望みならと返す。 
「冗談、その前に命が持たねーわ」
 幸は両手をあげて降参のポーズを取ると、佐久間は鼻をフンと鳴らした。幸は花垣に向かって先ほどの紙を放り投げた。
「お前の方が今一度これをよーく頭にたたき込んでおいた方がいいかもな」
「そうそう。あんまり女子高生って連呼してるとあらぬ誤解を受けるかもよ?」
 花垣は罰金50万すか…としげしげと見入り始める。
「バカたれ、そういう問題じゃねーだろうが」
 中年の刑事に新聞で頭をはたかれて花垣はエ? と周囲を見渡した。佐久間がやれやれと溜息をつく。
「懲戒免職でいなくなっちゃう花垣君なんか見たくないわ…」
 
 幸は蓼倉の隣に近付くと手近な椅子を引っぱってきて座った。そして周囲を憚るように小声で話し始める。
「ということは例の件、手を打ってくれたんでしょうね」
「まだだよ。ただでさえ敷地を越える上に、場所が場所でしょうが。アンタ本気なの?」
 蓼倉は口元を扇子で覆い隠しながら幸をちらりと見た。
「…だって未解決なんでしょ?」
「そうだけど、正規の手続き踏んだようにみせるために、お願いしなきゃなんないとこたくさんあるからめんどくさいんだよねー」
「裏ルート取れとは…」
「いやあ、けっこうやっかいな人が取り仕切ってるからさぁ」
 蓼倉はそこまで言うとしばし幸との間に視線のみのやりとりを交わす。
「ま、いっか。いろいろと貸しがあるヤツらがいるから。そいつに頼んでみるよ」
「毎度どうも」
「今回の貸しは高いよー」
 含み笑いで立ち上がる幸に花垣が気付いた。
「保苑さんどうしたんすか」
「ちょっとね」
「ああっ、まさか本気で条令に引っかかるようなこと…」
「花垣、風穴が開くのは額とハラとどっちがいい?」
 いやらしい笑みを浮かべた花垣のネクタイを引掴んで引き寄せると、幸は手を銃の形にして花垣の鼻先に突きつけた。花垣の顔から笑みがさっと引いた。
「ヤダなー冗談ですってば」
 幸はにっこりと微笑んでみせると、手を離してポケットを探った。あちこちからその辺の紙に走り書きしたメモが出てくる。
「領収書は早く提出しないと、うちの会計課うるさいっすよ」
「それは花垣君が何ヶ月も前のをごり押ししようとするからでしょ」
「あれ…、ない」
「どうしたんです?」
 花垣と佐久間の夫婦漫才のような会話を聞き流しながら、なおもポケットやら鞄を漁っていた幸はぽつりと呟いた。
「実習の時に名簿見て書き写しておいたのに…あ」
 机に手をついて独り言を言うと、幸は宙を見つめて小さく叫んだ。
「アレのポケットの中かよ…使えねーな」
 幸は電話の受話器を取り上げた。
「警視庁の保苑と申しますが…、ええ、先日はどうも。…ハイ。いえ、一年二組の及川妃奈子さんの連絡先を教えて頂きたくて」
 幸の会話に耳をそばだてていた花垣はぴくりと体を起こした。
「なんなんですか! やっぱフル活用してなんか企んでんじゃないっすか!!」
 電話を切った幸にそれ見たことかと得意げに叫ぶ。幸はそれには何も答えずに目を細めただけだった。静かに指先を花垣の額に向けると小さくバン、と呟いた。


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