----- 汝の罪人を愛せよ


   >>> 6


「あのさー、事件の詳細は調べたからあえて聞かないけど」
 幸はコーヒーを飲みながら妃奈子をちらりと見るとそう切りだした。
 妃奈子はさっきからアイスティーを無駄にぐるぐるとストローでかき回している。一緒に注文したケーキにはまだ一口も手をつけていない。明らかに逃げ腰になっているところを、駅前のファミレスに無理矢理連れてきたのだから無理はないだろう。気休めにしかならないかもしれないが、幸は背もたれに体を預けてわずかでも妃奈子と距離を置いてやる。
 調書によると妃奈子の兄の塙志は学校帰りの公園で、高校生と思われる男数人に絡まれた妃奈子を助ける際、暴行されて死んだらしい。妃奈子はその場にいた貴重な目撃者だったのだが、塙志を目の前で殺されたショックで記憶をなくしてしまったとされており、医師による診断書には精神的なショックによる心因性健忘症と書かれていた。
 物的証拠もわずかで犯人は未だに捕まっていない。
 調書を読んで、幸はやっと妃奈子の中に潜むものの一部を掴み取ることが出来た。だが、心の奥に根付いているものはまだ伺い知ることは出来ない。おそらくこの間の病院での記憶喪失も同じ症状なのだろう。
 落ち付かない様子で、妃奈子は窓の外を見る。幸とは極力目を合わそうとしなかった。先ほどの嬉しそうな表情とは一転して、緊張してぴりぴりしているのが手に取るように分かる。口も重く閉ざしたままだった。
「犯人がまだうろついてるのも気になるんだけど、俺が気になるのはむしろアンタなんだ」
 妃奈子の手が微かに動いた。
「兄ちゃん殺されて辛いのは分かるけど…」
「やめて、もう、言わないで」
「まだ何も言ってないでしょーが」
 幸はタバコに火をつけた。
「前にも言ったでしょ、一人で抱えててもしんどいだけだって」
「平気よ」
 妃奈子は顔を上げると幸の顔を見た。そう言っていても、妃奈子はまるで自分自身に言い聞かせているようだった。 
「こういうのって時間が解決してくれるんでしょ? だから、平気」
「時間は解決してくれないよ」
 幸は静かに、だがきっぱりと言った。妃奈子は睨み付けるように幸を見る。
「別にイジワルで言ってるわけじゃないよ」
 微かに笑うと幸は続けた。
「事実、今でも引きずってるしね。俺は」
「え?」
 妃奈子は軽く目を見開く。
 幸は再び笑ったが今度は自嘲するように口元を歪めた。
「ここに行ってみな。教会の懺悔室みたいなもんで吐き出せば少しは楽になれるよ」
 ポケットから一枚の名刺を取り出してテーブルの上に置くと、幸は妃奈子の方に向けて押しやる。妃奈子は不審そうにそれを取り上げた。
「…カウンセリングなんか行かなくても平気です」
 しばらくその紙を眺めていたが、妃奈子は不服げにそう答えた。
「カウンセリングとはちょっと違うんだけどね」
「だって、センセイなら、平気だもん」
「はあ?」
 幸は顔を上げた。妃奈子の頬が微かに赤くなった。
「こんな風にして向かい合ってても、平気だもん」
「そりゃ向き合うだけなら…」
「ちょっとずつ良くなってるんだと思う」
 妃奈子は幸を押し切るように言うと小さく息を吐いた。
「センセイは何を引きずってるの?」
「過去」
 幸は煙を大きく吐き出すとタバコを灰皿に突っ込んだ。俯きながら独り言のように呟く。
「忘れてたつもりだったのになぁ」
 妃奈子は何かを言いかけて口を閉じた。
 今までにも妃奈子のような被害者はいたが、幸が自分のことを口にしたのは初めてだった。なぜこんなことを彼女に言ってしまったのだろう。そう思いながら、幸はなぜか後悔はしていなかった。むしろ久しぶりに誰かに話してスッキリしたような気もする。直感が自分と同じタイプだと訴えているのだろう。そう結論づけると続けた。
「…そこはね、俺がガキの頃から通ってるから心配はいらないよ。今はじーさん先生の娘もやってるし」
「センセイじゃ、ダメ?」
「ダメ」
 幸はぴしゃりと突っぱねた。妃奈子の顔が曇る。
「どうして?」
「男だから」
 幸は妃奈子を真っ直ぐ見つめる。
「アンタ俺のこと信用してないでしょ?」
「そんなことない」
 幸は身を乗り出した。肘をテーブルにつくと、うっすらと笑みを浮かべる。途端に妃奈子は顔を赤らめる。幸を警戒するような目つきで唇を軽く噛むと身を引いた。
「…ほらね。しょせんは平気なフリで、そんなのは根本的な解決じゃない」
「ち、違っ…」
「平気なフリを続けててもね、今度はフリを続けてることが苦痛になるんだ」
 妃奈子は口元を歪めた。大きな瞳が潤んだように光る。
「ほっとくと潰されちゃうよ?」
「何でそんなこと言うの?」
 不意を突かれて幸は妃奈子を見つめた。妃奈子も真剣な面持ちで幸の答えを待つ。幸は頬杖をついていた手をずらして口元を覆うと窓の方に顔を逸らした。
「何でだろうね。実は俺にもよく分からん」
 妃奈子は眉をひそめて幸を見つめる。幸の瞳が今日は薄暗く見えた。
 どうしてなのだろう、こうしてさっきから自分の掘り返されたくないことを彼はざくざくと掘り返していくのに、それでも彼を拒絶できない。見つめられるたびに心臓が壊れそうになる。彼が身を乗り出してきて思わず体を引いてしまったけれども、いやなのではなくて彼に心臓の音が聞こえてしまいそうで恥ずかしかったからだ。今までにこんな思いをした相手はいない。
 彼は刑事なのに。妃奈子は自分に言い聞かせる。こういう会話をしていても、本当は事件のことを聞き出すためだけに神経が注がれているのかもしれない。今まで何人か刑事に会って話をしたことはあるけれど、どんな些細なことも見逃すまいとばかりに食いついてくるような目つきをしていた。だが幸の瞳からはそのような様子は見られない。鋭さはあるがどこか優しかった。
 そして今日は、信じられないことに自分が彼の過去をほじくり出している。ためらいながらもぽつりぽつりと返す様子が、それが嘘ではないことを物語る。時折その表情が曇るのを、妃奈子は痛いほど自分のことのように感じた。彼にはどんな過去があったのだろう。『通ってる』と現在進行形で言うのは今も通っているということなのだろうか? 
 妃奈子はこの人なら信じてみてもいいのかもしれないと、窓の外を眺める幸を見つめながら考えた。
「本気で人を好きになれなけりゃ、解決したとは言えないのかもな」
 ふいに幸が呟いた。妃奈子はぴくりを体を強張らせる。幸は目線だけを妃奈子の方へ向けるとうっすらと笑った。
「じゃないと俺みたいになっちゃうよ」
「センセイは本気で人を好きになったことはないの?」
「…どうだろうね」
 幸は再び目を逸らすと低い声で答えた。逸らした目線の先に、過去をリストアップして検証した結果、そんな相手は居ませんでしたとデータが弾き出されたような、そんな雰囲気が漂っていた。
 妃奈子は息が詰まりそうになった。彼を信じてみようという思いを拒絶されたような気がして、妃奈子は小さく息を吐いた。

「これから、俺が犯人を探すから」
 会計の前で財布を出しかけた妃奈子をさえぎりながら、ふいに幸が言った。妃奈子は手の動きを止めて幸を見上げた。幸の瞳から曇りが消えて、学校にいたときのようなピンと張りつめた表情に変わっていた。
「あの、ごちそうさまでした」
 店を出て妃奈子が小さな声で言うと、幸は妃奈子に先ほど取り上げたはずの紙袋を差し出しながらにっこりと笑った。妃奈子は戸惑いながら受け取る。
「どういたしまして。コレでチャラだから」
「チャラ?」
「クリーニング出してくれるんでしょ? 仕上がったら取りに来るから連絡頂戴」
 それが遠回しにまた会いに来ると言っているのだと分かるまで、しばらく時間が掛かった。レシートの裏に走り書きされた携帯の番号を渡されて、妃奈子はようやく気付いて目を見開いた。何か答えようと思っても上手く言葉が見つからない。金魚のように口をぱくぱくさせていると幸がくすっと笑った。妃奈子の頬がかっと熱くなる。
「女子高生と一緒にお茶飲んで、上着をクリーニングに出してもらえるってんだから、俺のほうがオイシイ思いをしてるんだろうけどね」
 いたずらっぽく幸が笑う。かと思うとタバコに火をつけながら含みのある目つきで妃奈子を見下ろす。
「さっきの俺の話、職場の人間はほとんど知らないんだよね」
「誰にも、言わない」
「へーそう?」
 すっとぼけたような言い方に妃奈子は頬を赤らめたまま幸を見上げた。途端に幸がにやりと笑った。
「取引成立だな」
 幸はそう言いながら片手を差し出す。妃奈子も差し出すと二人は固く握手をした。それじゃあと幸が駅に向かっていくのを見送りながら、妃奈子は何度も大きく溜息をついた。久しぶりに触れた彼の手は、やはり妃奈子の脳細胞のどこかを破壊していった。

『本気で人を好きになれなけりゃ、解決したとは言えないのかもな』

 頭の中で幸の言葉が何度もリフレインする。
 その相手は幸ではダメなのだろうか? 
 例え、幸自身が本気で人を好きになったことがないのだとしても。

 妃奈子は駅の改札を抜けていく幸を見送る。姿が見えなくなると唇をきゅっと噛みしめてきびすを返した。そして早足で駅前の人混みを縫うように歩き始めた。


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