----- 汝の罪人を愛せよ


   >>> 9


 まさか半泣きにさせてしまうとは思わなかった。
 そもそも今日の目的は犯行現場へ連れて行くことだったのに、その前にこんな展開になってしまっては元も子もない。妃奈子は立ち止まったまま、ついてくる気配すらない。
 幸は何とかなだめられないものかとしばし考えを巡らせる。女の扱いに慣れていないわけではないけれど、それでも高校生を相手にしたことはない。やっかいな年頃だよなあと頭を掻いて、駄目で元々だと手を差し出してみる。案の定、妃奈子はぽかんとした顔で幸を見上げてきた。それでも妃奈子が恐る恐る手を伸ばしてきたので、これを逃したら後はないぞとばかりにその手を掴んで有無を言わさず歩き始める。
 端から見たら痴話喧嘩後のカップルにでも見えるのだろうかと幸は考えたが、すぐさまいやむしろ兄妹だよなと訂正する。だがそれも、いい歳して妹を泣かせる兄もどうだろうと思い直した。真っ先に怪しげな想像が浮かんでしまう辺り、花垣のことを言っていられないかもしれない。蓼倉が寄越した紙切れ2枚が頭をよぎった。
 それもこれもすべて直射日光のせいだ、と空を見上げて溜息をついた。太陽のせいで人を殺す理由に比べたら、なんと煩悩に溢れていることか。
 自分の背後でごめんなさいと小さな声がしてヒヤリとする。いったい何に対して言っているつもりなのか? ある意味、妃奈子の言ったことは告白みたいなモノに当たるのだろうが、まさかそれを取り下げる意味でのごめんなさいなのだろうか。それとも、単に自分が困惑していることに気付かれてしまったのだろうか? ごちゃごちゃと悩んでいる間にも、蚊の鳴く声でまたごめんなさいと聞こえる。
 それを聞いた途端、理由なんてもうどうでもいいと思った。まだ子供のような彼女の言葉をさっくりと切り捨ててしまうように返したのは自分自身だ。罪があるのは彼女ではない。幸は引かれているだけでくにゃりとした妃奈子の手を握り直した。
 あの角を曲がれば、例の公園にたどり着く。果たして妃奈子はどういう反応を見せるのだろう。ちらりと見下ろすと不意に顔を上げた妃奈子と目が合った。慌てて前方へ顔を逸らせた妃奈子はいきなり立ち止まった。
 妃奈子の手が、幸の手の中で次第に汗ばんでくる。嫌悪と、恐怖と。妃奈子の瞳の奥でそれらが渦巻いている。この感覚はよく知っている。今の妃奈子がどんなにここから離れたがっているかも、手に取るように分かっている。
 それでも。
 妃奈子が振り解こうとするのを幸は逃すまいと握りしめた。妃奈子が顔をしかめて幸を見上げる。目には非難の色が浮かんでいた。妃奈子を強制的に連れていくような術は最初の時点ではなかった。もちろん、それをだしにするつもりもなかった。咄嗟に口をついて出たとはいえ、こんなことで試されるとは妃奈子自身も思わなかっただろう。うそも方便、騙してなんぼの商売とはいえ、これはさすがに卑怯だよなと幸は心の中で愚痴る。
 それでも。
 彼女を傷つけていると分かっていても、終わらせたかった。彼女の中に巣くうものに比べたら、幸が付ける傷などかすり傷程度のはずだ。そう自分に言い聞かせてでも終わらせてやりたかった。
「また悪夢を見なきゃいけないのなら、終わらなくていい」
 妃奈子の口からそう発せられた言葉は幸の脳天を直撃した。絶句したまま、妃奈子を見下ろす。 
「ごめんなさい」 
 妃奈子は後ずさりながら言う。
「これが、罰なら、もう言わないから」
「罰?」
「ごめんなさい、手を離して」
 幸はしばらくためらったが、渋るように手を離した。妃奈子はその手をもう片方の手で包み込むように握ると俯いた。
「その子に何を聞いても無駄です」
 突然背後から声がして二人は振り返る。そこに立っていたのは加東だった。彼女は勝ち誇ったように微笑んだ。
「彼女は捜査に非協力的だと言ったはずですよ」
 妃奈子は加東の方へ顔を上げた。加東はにっこりと笑うと、妃奈子ちゃんお久しぶりねとやや威圧的に挨拶をした。妃奈子は一言、ご無沙汰してますと答えるとまた俯いた。
「ほんとに、ご無沙汰だったわね。定期的にお宅へ伺う時はいつもいないし。あの事件以来、少し痩せたのかしら? 元々ほっそりしてたけど」
「加東刑事」
 幸は腕組みをして加東を睨み付けた。加東は幸に向かってうっすらと笑う。
「さすがですね」
「何が?」
「彼女から事件の解決は望んでないことを聞き出したんですもの」
「それが本心かどうかは分からないだろう」
 幸は目を細める。どうも加東の引っかかるような言い方が釈然としなかった。
「大体、この子だって被害者だ」
「ですがその被害者に事件を解決して欲しいという気持ちが見られないんですもの。どうしろと言うんですか」
 加東が吐き捨てるように言うと幸は鼻で笑った。
「分かり切ったこと聞かないで欲しいね。ホシを挙げる、ただそれだけだろ」
「ですが…」
「それじゃアレか? この子も死んでたらそれで捜査やめんの? たまたま助かって、見た目がピンピンしてるだけでしょ」
「どういう意味ですか」
 加東は眉をひそめた。
「中身は事件以来死んだままってことだよ」
 ひと際声のトーンを落として幸はそう言った。妃奈子の体がぴくりと反応する。
「なあ及川、そうだろう?」
 妃奈子は二人を見比べた。訝しげな表情の加東と、妃奈子の心を見透かすように鋭い眼差しの幸と。
「…ごめんなさい」
 その視線にいたたまれくなった妃奈子は大きく頭を下げる。二、三歩後ずさると、もと来た道を逃げるように走っていった。
 それを見て今度は加東が鼻で笑う。
「結局、あの子は逃げるだけなんだわ」
「誰だって逃げたいさ」
 幸は妃奈子の後ろ姿を見つめながら呟くと加東の方を振り返った。
「協力拒んでるからってそう目くじら立てるなよ」
 嘲笑するような笑みを浮かべた幸に、加東は途端に顔色を変えた。幸はそのまま公園へ向かう。公園を取り囲むようにして覆い繁っていたと記述されていた木は、事件以降、枝をかなり伐採されたのか辺りはずいぶんと見通しがよくなっていた。お陰で涼を取れそうな木陰はまるでない。
 幸は犯行現場に立つと辺りを見回した。
 蝉ががなり立てるように鳴いていて幸は思わず目を細める。午後の日差しがちりちりと肌を焦がすように熱い。妃奈子はちゃんと家にたどり着いたのだろうかとふと考えて、幸はタバコに火を付けると大きく吸い込んだ。そのままゆっくりと煙を吐きながら、周囲を再びぐるりと見渡す。
「まあ、なんもないのは当然だよな」
 独り言ちると幸は口元を歪めて小さく笑った。入り口のところで幸の顔色を窺うように加東が立っていた。幸はそのまま気にもとめずに歩く。
「あの、どこへ?」
「事件掛け持ちしてるんで、もう一方へ顔を出しに。じゃあお疲れさま」
「あ、あの車で来てるんでよかったら」
「いや、結構です。作戦失敗してちょっと腹立ってるし」
 それを聞くと後を追っていた加東の足が止まる。幸は振り返ると言った。
「だから俺言ったでしょう? 彼女が平気って言ってても、恐怖心がないわけじゃない」
「あなたが本当に企んでることは、なんなんですか」
 幸は僅かに眉間にしわを寄せた。
「別に、何も。だいたいなんで彼女があんな状態なのか、探ろうとは思わないのかな。それとももう知っている?」
「いえ…」
「あなたなら、女性だからと言う理由で担当に付けられたのなら。とっくにその鍵を掴めてたはずなんじゃないの」
 幸は静かにタバコを吹かす。
「それをしなかったのは、怠慢? それとも誰かの差し金?」
 加東は何かを言いかけて開いた口を閉じた。だめ押しのように幸は続けた。
「お宅の署はそんなに暇なの? やる気ないならさっさと担当外してもらいなよ。こっちはお宅らのペースに合わせてるほど暇じゃない」
「そういうあなたは好奇心でこの件についたんじゃないんですか?」
「そうだよ」
 幸は冷ややかな表情で加東を見据えた。
「なんでこんな事件がほったらかしにされてるのか、興味があった。好奇心だったとしても、事件が片づけばあなたも解放されてせいせいするでしょ?」
 にっこりと笑みを浮かべて、幸はそれじゃあときびすを返す。加東は握っていた拳に力を入れると唇を強く噛んだ。


◇ ◇ ◇


 妃奈子は二人の姿が見えなくなるところまで走り続けた。少しでも早く二人から離れたかった。ある程度まで走ったところで一度立ち止まった。胸に手を当てて整えるように大きく息をする。
 あのままあそこに居続けていたら公園へ連れて行かれたのだろうか。なかなか手を離そうとしない幸は、学校の非常階段で詰め寄られた時を思い起こさせた。やはり彼は刑事なんだと妃奈子は思った。どんなに優しい目をしていても、ふいにああして否応なしに扉をこじ開けに来るのだ。しかも妃奈子を試すように。
『俺を本気で好きだって言うなら』
 落ち着き掛けた心臓が再びスピードを上げ始める。
 幸の目が熱っぽく見えた。そしてそんな目でまともに問い返されると、風船から空気が抜けるように急激に自信がなくなった。そもそも本気がどういう状態なのかも分からない。証明するためには足を一歩踏み出さなくてはならなかったのだろう。だがそうやって自分に強いなければいけないほどの気持ちは、果たして本物と言えるのだろうか。
 今の妃奈子が確信できるのは、それでも幸を嫌いになれないことだけだ。まだ本気で好きだとは言えない。怖くもある。それに幸に好きだと言って欲しいのか、それすらも曖昧だ。求めるものがあるとすれば”嫌わないで”ということだろうか。
 妃奈子は呼吸を落ち着かせるために、何度も深呼吸をした。そうするうちに加東の顔を思い出した。加東は初対面から何となく苦手だった。その後は極力会うのを避けていたが、今日は格別に嫌味っぽく言われたような気がする。幸が遮ってくれなければ、あのままチクチクと続いたかも知れない。幸のお陰ではあったが滅多に見ることは出来ないであろう、加東の引きつった笑みを見ることが出来たのは意外だったが、幸の言葉は加東だけでなく妃奈子にも打撃を与えた。
 あたしの中身は死んだまま?
 妃奈子はのろのろと歩き始める。あの場所からマンションまではそう遠くない。ほどなくたどり着いて、マンションのエントランスを通り抜けた。
 何となく意味が分かるような、分からないような。
 事件の記憶は当時も今も、まるで人伝えに聞いた話のように曖昧なままだ。だからこそ、何を聞かれても分からないとしか言いようがなかった。加東のようにあからさまに胡散臭い目で見られても仕方がないと思った。自分でさえ不思議でしょうがないのだから。
 どうして思い出せないのだろう。
 どうして思い出そうとすることが怖いのだろう。
 まるでパンドラの箱のように、その部分は触れてはいけないのだと体中が訴える。
 どうしてあの時、殺されたのは自分ではなく兄だったのだろう。絡まれるような隙のあった自分が悪いのだ。何も両親の期待を一心に受けていた塙志があんな目に遭わなくても。何度いろんな人からそう囁かれるのを聞いただろう。自分も同じように可愛がられていたけれど、どこかで長男だから、跡継ぎだからという特別な思いが塙志には注がれていたはずだ。
 もし自分だったら、あんな風に悲しんでもらえていただろうか。昔だったらなんの疑いもなく、自信を持ってそうに違いないと言えただろう。でも今は? それすらも考えるののが恐ろしかった。
 今でもはっきりと思い出せることといえば、意識が戻ったときに真っ先に視界に飛び込んできた、目の前に横たわる塙志の変わり果てた姿だけだった。目が覚める前に、一体何をされて塙志はあんな風になってしまったのだろう。

 ヒナが悪いんだよ?

 玄関のドアを開けようとした瞬間、突然ざっと吹き込んできた風に妃奈子ははっとして振り返った。紛れるように塙志の声が聞こえた気がした。妃奈子の心臓が跳ね上がる。慌ててドアを開けて逃れるように中へ滑り込む。
 自分の部屋へ駆け込むと妃奈子は肩で大きく息をした。
 どうしたらいいんだろう?
 どうしたら、許してもらえるんだろう?
 妃奈子は床にしゃがみ込んで膝の上で両手を握りしめた。
 いっそ懺悔室みたいなモノが、塙志に対してそういったモノがあればいいのに。
「懺悔室…」
 その言葉で妃奈子ははたと思いだした。確か、幸はそう表現してはいなかっただろうか。妃奈子は立ち上がると机の引き出しを探る。幸から渡された一枚の名刺を引っぱり出した。
 『村上心理診療所』
 恐ろしく簡素に、住所と電話番号、名前だけが明記されているだけだ。それを妃奈子は角を持ってバネのように弛ませてみる。
 なんとなく幸が拒むような表情を見せたのは、幸にとって自分は死んだままだからなのだろうか。妃奈子はベッドに体を預けると天井を見上げた。恐怖にも似た悲しみがふつふつと沸き起こる。このままじゃイヤだと妃奈子は思った。


◇ ◇ ◇


 幸はぼんやりと電車に揺られながら、流れる景色を見るともなしに眺めていた。
 果たしてあのまま加東に邪魔されていなかったら、妃奈子は公園へ足を踏み入れただろうか。これが罰なら、と言う妃奈子の顔が、建物の切れ間に何度もフラッシュバックで浮かんだ。いったい何の罰だというのだろう。幸は眉間にしわを寄せた。
 次はどうやって引っぱり出したらいいものか考えを巡らす。だがそれもつかの間で、普段頭の奥底に鎮座していることがじわりと頭を浸食し始める。
 自分が犯人を捕らえるたびに、妙な不安感に苛まれるようになったのはいつ頃だろうか。刑事なんて言っても、結局のところ犯罪者を捕まえるだけだ。結果として刑務所に放り込めたとしても、いつかまた出てくる。その事に気付くのに時間はかからなかった。蓼倉はそれが宿命だね、とあっさりと笑い飛ばしていたが、そうやってどこかで見切りを付けていかないとやっていけないのかもしれない。実際、事件後はしこりのようなものが、程度は違えど積もっていく。
 まだ遭遇したことはないけれど、自分に逆恨みを抱いているかもしれないことだってある。以前に比べれば仕事としての充実感はあるけれど、町の安全と引き替えに自分の安全を手渡しているような感覚。それは体がえぐり取られていくかのようだった。
 自分の周りに安全だと感じるバリアのようなスペースがあるのならば、幸のそれは確実に失われていっている。他人と自分との、目に見えない境界線のような、心理学でいうところのパーソナルスペースは日に日に大きくなっていくのに、である。自分のバリアが失われ続けて、いつかむき身の、神経がむき出しになったような状態になったときにはどうなってしまうのだろうか。
 今でさえ死角の背後に神経を尖らせているのに、出歩くことすら苦痛になったりするのだろうか。
 刑事になった頃から漠然とそのような考えがつきまとう。その考えに囚われ始めると必然的にたばこの本数が増えた。雨が降ると余計に憂鬱だった。
 幸は手持ち無沙汰気味に、妃奈子から受け取った紙袋を肩に掛けると腕を組んだ。
 あの日のことを思い出すと芋蔓式に傷も痛む。
 妃奈子の傷はどういう瞬間で痛むのだろうか。
 幸は考え事に意識を集中させるように目を閉じた。


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