----- 汝の罪人を愛せよ


   >>> 10


 両親は胡散臭げに名刺を見つめていたが、それでも妃奈子が事件に関して初めて自分からアクションを起こしたこともあって、思ったよりはあっさりと承諾した。事件以降、すっかりふさぎ込んでしまった娘が以前のように明るくなるなら、という期待も多少はあったのかもしれない。
 妃奈子はFAXで送られた地図を片手に、住宅街を心許ない様子で歩いていた。何とか地図通りの場所にたどり着いたが、どう見ても普通の家だ。表札に村上と書かれていることでかろうじて此処なのだろうと窺い知ることが出来る以外は、とても診療所には見えない。さらには門戸の周りには来客を知らせるチャイムすらなかった。
 妃奈子は恐る恐る門戸を開けて中へ足を踏み入れた。玄関のドアの脇に『診療所へご用の方は庭へお回り下さい』という注意書きを見つけ、そろりと庭へ向かう。庭に面してサンルームがあり、さらに奥に診療室に当たるのだろうか、十畳ほどの部屋があった。
「あのう、二時に予約を入れた、及川と申しますが」
 サンルームの入り口の近くの椅子で、半開きの口から寝息を立てながら白髪の穏和そうな男が寝ていた。男は一向に起きる気配もない。妃奈子はもう一度、あの、と声を掛けた。不意に奥の方のドアが開いて二十代後半と思われる女性が入ってきて、妃奈子はぴくりと体を強張らせた。
「あの、二時に…」
「及川妃奈子ちゃんね」
 その女性はふんわりと妃奈子に笑いかけると手招きをした。妃奈子が寝ている男にちらりと目をやると、彼女は父なの、気にしないでと再び笑った。
「初めまして。村上鞠子です」
 差し出された手に妃奈子は慌てて手を伸ばして握手をする。
「ここまで来るのに迷わなかったかしら? ご覧の通り、目印になるような物は何もないから」
 妃奈子は物腰の柔らかな鞠子の様子に、しばし目を奪われてぽかんと立ちつくしていた。
「あら、座って。駅から少し歩くし、疲れたでしょう」
 そういいながら鞠子はグラスに入った麦茶を妃奈子に差し出した。妃奈子はすいません、と小さく答えて受け取ると、側に置いてある一人掛け用のソファにぎこちなく座った。そんな妃奈子を見つめながら鞠子はふふっと笑う。
「幸君が紹介するから、どんな子かなぁと思って楽しみにしてたの」
 こんな可愛らしいとは思わなかったわと言いながら、鞠子はいかにも医者が座りそうな黒い革張りの椅子にちょこんと座った。妃奈子は戸惑うような笑みを浮かべた。幸とは一体どういう関係なのだろうか。医者と患者だけではないような匂いが鞠子の言い方から伺えて、妃奈子は体を僅かに固くする。それを感じ取ったのだろうか、鞠子は麦茶を一口飲むと言った。
「幸君はね、中学からの同級生なの。あんな風に気ままに生きてるから、こうしてまともに仕事してんだなって分かるとホッとするわ」
「中学生からなんですか?」
「そうなの。腐れ縁ね。もう十五年近くになるかしら」
 オヤ? と妃奈子は計算を始める。鞠子を見る限りは二十代後半で実年齢に伴う容姿なのだと分かる。だが幸は? 同級生? ということは?
「セッ、あ、ほ、保苑さんて、二十…」
「確か早生まれだったから七ね。あはは、その顔を見ると騙されてたわね」
「にじゅうななで大学生のフリ…?」
 妃奈子は眉間にしわを寄せながら呟いた。大学生といっても十分通用するけれど、刑事だと知ったあとはさすがにそれはないだろうと思って、少なくとも二十四、五だと踏んでいた。というより、どう見てもそれ以上には見えなかったのだ。学年ではばっちり一回り違うことになる。まさかそこまで歳が離れているとは思わず、妃奈子は僅かながらショックを受けた。
「大学生だって偽ってたの? 相変わらずやること大胆ねぇ」
「いえ、偽ってたって言うか、教育実習生のフリして、潜入捜査? っていうのをしに来てて…」
「なるほどね…。五つもサバ読めるなんてうらやましい限りだわ」
 鞠子は苦笑しながらセミロングの髪を掻き上げた。
「ところで…、そうだ、妃奈子ちゃんて呼んでもいいわよね?」
「え? あ、はい」
 再び鞠子ににっこりと笑い掛けられて妃奈子は慌てた。
「妃奈子ちゃんはどうしてここに来たのかな?」
 柔和な表情には変わりないものの、いきなり核心をつく問いに妃奈子は顔を強張らせた。
「妃奈子ちゃんの身の回りでいろんな事件があったってことは幸君から聞いてるんだけど、ここに来たいなって思った理由は妃奈子ちゃん本人に聞かないと分からないから」
 妃奈子は絶句して鞠子を見つめた。
「うまく言葉が見つからないかな? だったら、思いつくままでもいいわよ。私に話したいことを話して」
「あの、ここでのこと誰かに話す?」
「幸君から紹介されてる以上、事件に関することは勘弁してね。それ以外は秘密厳守よ」
 それを聞いて妃奈子はしばらく考え込んでいたが、強張らせていた表情をほんの少し緩めた。
「…保苑さんが、ここは懺悔室みたいな所だからって」
 鞠子の顔色を窺うように妃奈子がぽつりと言うと、鞠子はくすっと笑った。
「幸君にとってはそうかもね。うん、的を射てるかも。私達はさしずめ神父さんてとこかしらね」
「そしたらあたしは罪人(つみびと)だわ」
 間髪入れずに呟く妃奈子に、鞠子は何かを感じ取った。
「神父さんのお仕事は、罪人を許すだけじゃないわ。迷える子羊を導いたりもするのよ」
「罪人を許すの?」
「あら、そのための懺悔でしょう?」
 妃奈子は鞠子を見つめたまま、迷うように手にしたグラスをくるくると回していたが、俯くと小さな声で言った。
「あたしも、いつか許してもらえるのかな」
 鞠子は意外そうな顔をした。
「ううん、そうじゃなくて…本当は許して欲しいの」
「誰から?」
「お兄ちゃんから」
 妃奈子はそれだけ言うと後はそれきり口を閉ざした。


◇ ◇ ◇


 幸は所轄の刑事と共に資料を前に、聞き込み捜査への準備をしていた。加東と組んでいる、定年間近の前田がお茶を幸の前に置く。
「ああ、どうも」
 前田は加東が席を外しているのを確認してから幸の横に座る。
「こないだはうちの加東がなんかやらかしたようで」
「あー…」
 曖昧な返事を返すと前田は苦笑した。
「悪い子じゃないんだよ。ただ熱意が空回りするタイプというか。最初は妃奈子ちゃんにもマメに会いに行ったりしてたんだけどねぇ」
「…信頼を得ることが出来なかった、と?」
「まあ、そんなところだな」
 幸は資料に目を通したまま、ふっと笑った。 
「確かに、及川妃奈子はもともと人見知りするタイプが輪を掛けて人間不信になってるって感じですしね」
「保苑君はどうやって?」
 加東と同じく不思議そうな顔をする前田に、幸は首の後ろをかりかりと掻きながら困惑したような笑みを浮かべた。
「それが俺自身よく分かんなくて。たまたま気に入られたっていうか…。彼女なりに何かあるんでしょうけど」
「ははぁ、じゃ動物や子供に好かれるタイプだろ?」
 前田がにやにや笑いながら言った。幸はしばらく宙を見上げて、ああそう言えばと呟く。役得だな、と前田は言うと席を離れた。
 役得ねぇ、と幸は資料に落としかけた目線を引き上げてぼんやりと思った。言われてみれば妃奈子の懐き方は動物や子供のそれと近いものがある。この間の妃奈子の必死に訴えかける眼差しが思い浮かんだ。
『本気で人を好きになったら、って』
 つまりはまともに恋愛経験はないということだろう。妃奈子の言いたいことは分からないでもないが、あれでは卵から孵ったヒナが初めて見たものに懐くのと同じだ。せいぜい中高生の頃にありがちな、恋未満の”憧れ”というやつだろう。幸はそう結論づけた。
 だいたい、俺が幾つだか知らないであんなこと言ったんじゃないのか? 一回りも離れてると知ればあっという間に覚めるのがオチだ。
 何となくいらだちを覚えて幸は立ち上がった。そのまま部屋を出て廊下の自販機へ向かう。紙コップに入れられたコーヒーを取り出すと一口飲んでからタバコに火を付けた。
「保苑さん」
 呼ばれて振り返るとそこには加東がいた。
「この間は済みませんでした。あれからこちらにはいらっしゃらないので…」
「別件の方に進展があってばたばたしてたんで」
 目を合わせず淡々とタバコを吹かす幸を、加東は伺うように見上げる。
「どうしてこの事件に…」
 一度ためらうように言葉を切ってから、再び加東は口を開く。
「どうしてなんですか。あなただったらもっと大きな事件が…」
「事件に大きいも小さいもナイでしょ」
「そうですけど。何も掛け持ちまでしてあなたがやる仕事だとは思えません」
 幸は加東の方を振り向いた。
「噂で耳にしただけです。捜査一課でも群を抜いて優秀だって」
「そういうどうでもいいことには目ざといんだな」
 皮肉を込めた幸の言葉にも怯むことなく加東は続けた。
「どうして捜査一課以前の経歴がないんですか?」
「ナイ? そんなことはないよ」
「いいえ、ありませんでした。何があったんですか」
「別に何も。ごくごく普通に任務をこなしてただけだ。毎日、決められたとおりに、ルーティンワークを繰り返してた。それだけだよ」
 幸はコーヒーを飲み干すと歩き出す。加東はその後をついていく。
「そんな、所属は…」
「俺のことはどうでもいいじゃないか」
「彼女にこだわる理由はなんなんですか」
「理由?」
 幸は立ち止まった。
「聞けばあなたは裏で手を回してこの件に…」
「それこそほんとにどうでもいいだろ」
 吐き捨てるように幸は言うと部屋へ入っていった。加東は足を止めたまま、眉をひそめるようにその後ろ姿を見つめた。


◇ ◇ ◇


「皮肉なことだけど、あたしも幸君もやってることは同じなのよね」
「何が?」
「罪を犯した人について、裁いたりは出来ないの」
 そう言うと鞠子はカプチーノを一口飲んで溜息をついた。
 幸はハッと笑って窓の外を見る。
「ヤなこと言うよな」
 コーヒーショップの二階からの景色は慌ただしく行き交う人の群ばかりだ。妃奈子が来たと連絡を受けて飛んで来たのはいいが、鞠子が患者について具体的なことを言うはずがなかった。どちらにしろまだ何も分からないままだと鞠子にへらっと笑われて、幸は一気に力が抜けてしまった。
「彼女は被害者だったんでしょう? なぜあんな風に罪の意識に苛まれる必要があるのかしらね」
「それが分かりゃこっちも苦労しませんて」
 幸はタバコを取り出しかけたが、店が禁煙だったことを思い出して軽く舌打ちをした。
「記憶はないのに、漠然とした罪の意識だけが居座ってるみたいよね。それが何に対しての罪なのか分からないから、あんなに過剰になってる気がするんだけど」
「兄ちゃんを犠牲にしただけ、ってわけでもなさそうなんだけどな」
「そうなの?」
「いや…なんとなく」
 そう言いながら幸は時計に目をやって深々と溜息をついた。
「悪い、そろそろ行かなきゃ」
「あら、そう言いつつ行きたくなさそうね」
 幸は片方の眉をぴくりと上げる。
「深い意味はないわよ?」
 ほんとかよ、と呟きながら幸は上着を手にした。
「使えない人と仕事するのはそれだけで疲れるってだけ」
「毒吐くってことは相当なのね」
「興味を持つのは事件だけにしてくれりゃ楽なんだけど」
「じゃあ今の相棒は女性か」
 くすりと笑う鞠子に幸は立ち上がった。
「ああ、だからホントに悪気はないんだってば。いつものことでしょ?」
「そういうとこばっか冴えてるとダンナも大変だろうな」
「失礼ね、まだアツアツの新婚なんだから」
「ハイハイ、ダンナによろしく」
 幸は苦笑しながら片手を挙げると店内の階段を駆け下りた。


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