-----  少年は恋をする




 バスケの練習試合の帰り道だった。
「蝦沢ーっ。帰んぞー」
「んー」
 その時、相手高校のエースの麻生と目が合った。
 麻生は俺の方を見て、嬉しそうににやっと笑った。負かされた相手に向かって笑うなんて、妙な奴だと思った。
「蝦沢のカットすげえなぁ」
「どーもアリガトウ」
「試合、すげー楽しかった」
「はあ…」
 大抵、ぎらついた目を向けて次は覚えてろよと言わんばかりに舌打ちされるから、俺はそのあっけらかんとした笑顔に拍子抜けしてしまった。
「麻生君!」
 振り返ると、マネージャーらしき子が仁王立ちで立っていた。
「ミーティングあるって言ったでしょうっ」
「あ、そうだっけ? ごめーん」
 じゃ、またなっ、と爽やかに笑いながら麻生はマネージャーの元へ行く。俺らがでかいのか、その子が小さいのか、なんだか随分とアンバランスに見えた。茶色がかった髪をひとつにまとめているのが歩調に合わせて跳ねているのを、俺はぼんやりと見送った。
 高校に入って、初めての試合出場。一年でレギュラーは俺だけだったけど、麻生も確か同じ一年でレギュラーのはずだ。お互い似たような境遇なのかもしれない。
 校門の両脇に、びっしりとコスモスが咲き乱れている。そのそばをトンボがすっと通り過ぎていった。のどかな印象の学校だなと思いながら、再び呼ばれて俺は声の元へ駆けていった。

「つーばーきーくん」
「…なに」
 背中にぺったりとのしかかられて、俺は低く呻いた。
「あのさぁ、俺、勉強してんだけど」
「そんなのあとでいいじゃない」
 俺のノートを覗き込みながら学校でやれば? とのたまってくれる。それじゃ宿題じゃないだろ、と思いながらしぶしぶシャーペンを机の上に放り投げた。
 一見へばりついてるように見えて、実はヘッドロックをかけられていたりするから迂闊なことは言えない。どうしたの、となだめるように言うと、珍しくあっさりと答えが返ってきた。
「今晩なにが食べたい?」
「えーと、わざわざ俺に訊くってことは、父さんは今夜帰らないんだ?」
「そーなの。寂しいなぁ」
 って、船乗りじゃあるまいし。明日には帰ってくるだろうが、なんてことを言えるはずもなく。
「じゃあ、肉」
「却下」
 訊いたクセに、という非難の目で振り返る。
「昨日は試合前の筋肉に栄養を与えるためだって理由だったわ。今日は何」 
「試合で摩耗した筋肉に栄養を与えるため」
「…可愛くない子だなぁ」
「ごめんなさいねぇ、父親譲りで」
 口元を緩めながら見上げると、母さんは悔しそうに腕組みをしながら俺を見下ろした。
「龍司さんはそんなに小憎たらしくないわよ」
「わかんないよ?」
「昔はもっと素直でかわいかったのに」
「仕込まれりゃ、こっちだってしたたかになるってば」
 フン、と鼻を鳴らすと母さんはキッチンへ消えていく。それまで俺の足元で寝ていたゴールデンレトリーバーの三船君が、母さんの後を尾を振りながらついていった。

「今度の週末、秋良の家に行くからお供してね」
「なんで」
 ショウガ焼きを黙々と口に運んでいると不意に母さんが口を開いた。
「沙苗ちゃんの三回忌だから」
「…ああ、そっか」
「秋良ひとりじゃ親戚連中の世話するの大変だろうから、前日から手伝いに行くからね」
 母さんのハトコにあたる秋良おじさんの奥さんであり、父さんの妹でもある沙苗おばさんは俺が中二の時に死んだ。この家の家系図はちょっと複雑だ。
「前日からって、さくらがウルサイから面倒くさ…ってぇ」
 すかさず鉄拳が飛んできて俺は唸った。
「面倒くさいじゃないの。アンタの方がお兄ちゃんなんだから面倒見てあげなさい」
 さくらは秋良おじさんちの一人娘だ。正確には養子なのだけど。多感な年頃に母親を亡くして辛かろうというのは分かる。いや、正直どのくらい辛いかなんてよく分からないけども、まあ想像でカバーできる範囲だから、分かることにしておく。
 そうはいっても面倒くさいものは面倒くさい。
 はっきりいってウザい。
 中学に入った途端にませやがって、彼女はまだいないのかとしつこく付きまとう。
 悪かったな、まだいなくて。
 …というと、にたりといやらしい笑みを浮かべやがるから、興味がないと流している。ホントに今のところ興味はないから、嘘は言っていない。学校で、俺の回りで騒ぐ子達もウルサイだけで惹かれはしない。
 たいして会話も交わさないのに、どうして俺のことを好きになったりするんだろう。悪いけど、告白されても薄気味悪いと思ってしまうのだ。
 そういう俺を友達はアホだと罵るけれど、正直な気持ちなのだから仕方がない。
 母さんは、分からなくはないわ、と笑っていた。
 そう思ってくれる人間もいるってことは、間違ったことではないんだと解釈してるけれど、正しくはないんだろうな。

 母さんは助手席でふてくされていた。
 理由は簡単。後部座席で三船君が俺の膝に頭を乗せて寝ているからだ。
「純、仕方ないでしょう。三船君の頭にはもうキケンだってインプットされちゃったんだから」
 父さんが苦笑しながらハンドルを握っている脇で、母さんはバックミラー越しに俺を睨みつける。
「…妙なところで椿に似ててむかつくわ」
 おいおいおい。自分の暴走癖を棚に上げてそういうことを言うか。
 母さんが運転する車に乗ると三船君は必ず吐く。ヘタではないけれど、飛ばし屋だからだ。三船君自身はもちろん、同乗してる方はたまったもんじゃない。ある時から三船君もいい加減学んだのか、運転席に母さんが座っているのを見ただけで絶対に車に乗ろうとはしなくなってしまった。
 父さんの性格通りの穏やかな運転に安心しているのか、三船君はのんびりとあくびをした。流れる景色をぼんやりと見つめながら、この間の試合後のことを思い出していた。
 さくらは車から降りてきた三船君を見ると叫び声を上げた。女好きの三船君も、ちぎれんばかりに尻尾を振ってさくらに向かってまっしぐらに駆けていく。
 これで俺に構ってくることもないだろう。俺は腕組みをしながら一人と一匹がじゃれ合う様子をよしよしと眺めて、車から荷物を下ろすのを手伝う。
 さくらの叫び声で俺達が到着したことを知ったのか、秋良おじさんも家から出てきた。
「いらっしゃい。椿君、また背が伸びた? いまいくつよ」
「健康診断の時に測ったら185だった」
「龍司さん、抜かれちゃったねぇ」
 にやりと秋良おじさんが父さんの方を向くと、父さんは肩をすくめて苦笑した。
「だね、まだ伸びてるらしいよ」
「へぇー、ま、一年生でレギュラー入りするくらいだからそんなもんなのかもね」
「身長とレギュラーはあんまり関係ないよ…」
「なにげに上手いって言いたいのよ」
 冷やかすように言いながら、荷物を抱えた母さんが肩で俺を小突いていく。
「相変わらずの溺愛っぷりでなにより」
「は? 誰が誰を?」
「あなたが息子をに決まってんでしょうが」
 家の中に入っていく母さんに、秋良おじさんが呆れながら続いていく。キッチンの方から、はあ?! と叫ぶ声がした。
「あたしが溺愛してるのは龍司さんだけよ。ねっ?!」
 俺の後ろにいた父さんは、何も言わずに笑っている。小さい頃は要らない子だったのかも、なんてまともにショックを受けてたこともあった。だけど、授業参観や運動会なんかのイベントごとはやたら張り切って欠かさず参加するし、スキンシップは激しいし、ほかにもいろいろとあるけれど、普通なんだと思っていたことがどうもそうではないらしいと気付いた辺りから二番目でもいいと思うようになった。
 今は溺愛してくれなくても結構です、って感じ。夫婦で好きにやっててくれよ、と俺は溜息をついた。
「やーん、みふねくんふさふさー」
 その声の方を向くと、もう構われることに飽きてるっぽい三船君にさくらはまだしがみついていた。
「さくら、三船君はしつこい女は嫌いだぞ」
 冷ややかな目でさくらを見ると、さくらはムッとした顔をこちらに向けた。その隙に三船君はするりとさくらから離れて俺の足元へやってきた。ソファに座って三船君の頭を撫でていると、さくらは腕組みをしてふんと鼻を鳴らした。
「椿にそんなこと言われたくない」
「それはご愁傷様」
 ううっと唸るとさくらは母さんの方へ行く。きっとイジワルされたとか何とか、告げ口でもする気だ。荷物を運び終えた父さんもソファに座って新聞を広げ始めた。キッチンでは母さんとさくらと秋良おじさんとが騒いでいた。
 なんだかこの家に来ると時間の流れが緩慢になるような気がする。世の中とは違って、独自の時を刻んでいるというか。それはきっと秋良おじさんの醸し出す雰囲気がそうさせてしまうのかもしれない。母さんも秋良おじさんも、意味合いは微妙に違うけどマイペースな人たちだ。別に兄妹なわけじゃないのに、この二人はよく似ている。昔から腐れ縁だとお互いぼやきながらも仲は良い。
「あーっ、しまった」
 突然母さんが素っ頓狂な声を上げた。
「どうしたの?」
 父さんが新聞から顔を上げる。
「黒ストッキング、途中で買っていこうと思ってたのに忘れちゃった」
「近所にコンビニあるし、買ってくれば?」
 秋良おじさんにさらりと解決案を出されて、そっかと母さんは呟いた。
「椿、ゴー!」
「はあっ?!」
 なんで俺が。そう言うと母さんは問答無用、とのたまった。
「三船君の散歩のついでよ。行って来い」
 俺は“取ってこい”で遊んで貰う犬と同じ扱いかよ。足元にいる三船君に目を向けると、確かになにかそわそわしてる様子だ。
「サイズはMねーっ」
 確信犯じゃなかろうかとも思える楽しげな声が背後から聞こえた。

「コンビニっつったって、どこだよ。なあ? 三船君」
 リードに繋がれた三船君はそれどころじゃない。知らない匂いを嗅ぐことで頭がいっぱいという感じだ。閑静な住宅街。土曜日のせいか時折、通り過ぎる家の中から子供のはしゃぐ声が聞こえる。
 溜息をついた途端、三船君が駆けだした。突然のことで制御できずに引っぱられて顔を上げると、三船君はちょうど門から出てきた女の子に飛びつこうとしていた。リードを引いても間に合わない。
 …いや、三船君は飛びついたのではなく。
 女の子のミニスカートの中に頭を突っ込んだ。
「いやあーっ、ちょっと、なんなの?!」 
「うわっ、このバカ犬!」
 首輪を掴んでぐいっと引き離しても、三船君は何が嬉しいのか、俯いてスカートを押さえていたその子に向かって尻尾をはたはたと振っている。
「あ、あのすいません。女の人見ると見境なく飛びついちゃうヤツで…。怪我とかなかったで…」
「「あ」」
 お互い顔を見合わせたとき、同時に声が上がった。
 この間、麻生を呼びに来た小柄なマネージャー。
 近くで見るともっと小さかった。

「なんだ、さくらちゃんちの親戚だったのか」
 その子はそういうとふふっと笑った。コンビニならちょうど行こうと思ってたから連れていってあげる、とその子は三船君の暴挙を許すばかりか、快くそんなことを言ってくれた。
「じゃあ今度、スーパールーキーの弱点を訊きだそうっと」
「スーパールーキー?」
「柘植高一年、蝦沢椿君じゃないの?」
「そうだけど…。それを言うなら君んとこの麻生でしょ」
「麻生君もそう言われてるけど、注目度から言えば蝦沢君の方が上だよ」
 ちらりと見下ろすと、今日は下ろしている髪がふわふわと揺れていた。なぜだか、急に心臓が波打って俺は慌てて目を逸らした。
 そうする間にも三船君は、よっぽど気に入ったのかさりげなくその子の方へ近付こうとする。
「こら、三船君。こっち歩いてろ」
「ミフネクン?」
 きょとんと俺と三船君とを見比べている。
「…ああ、こいつの名前」
 面白い名前だね、とくすくすと笑う。
「母さんが付けたんだ。三船敏郎が好きなんだよ。俺の椿も椿三十郎からとったし」
「ふぅん、いいこと聞いちゃった」
「え?」
「ウチの学校でもめちゃめちゃ人気あるけど、謎な人で有名だから」
 顔がほてる。確かに、普段は口にしないようなことを、なんで俺はするっと喋ってるんだろう。初対面なのに。
 コンビニに着くと、真っ先に手にしたものを見て彼女は不思議そうな顔をした。  
「黒いストッキング…。随分とそぐわない買い物ね」
「罰ゲームみたいなもんだよ」
 憮然とした顔でカゴに品物を放り込み、ついでに雑誌も放り込むと俺はレジに向かった。
「罰ゲームか、実はあたしもそうなんだよね」
 店の前に繋いでおいた三船君のリードをほどいていると、彼女は突然そう呟いた。
「なにが?」
「マネージャーやってるの」
「へえ、そうなんだ?」
 麻生と最初の中間テストの点数を競って、負けた方はなんでも言うことを聞く、という勝負に僅差で負けたらしい。
「じゃあ、嫌々やってるの?」
「ううん、そんなことない。今はすごく楽しいし」
 俺を見上げながら、その子は口の両端をきゅっと上げた。
「えっと、どうもありがとう。すげー助かった」
「あ、あの」
 その子の家の前まで来て、礼を言って歩き始めると呼び止められた。
「さくらちゃんに借りてたマンガを返しに行こうと思ってたんだけど、今日は親戚がたくさん集まってるのかな?」
「いや、まだウチだけだからいいんじゃないの。ていうか俺も三船君も持て余し気味だから相手してくれると助かるけど」
 ホント? と安心したような表情を浮かべている。こっちも助かった、と思って笑いかけると、聞き覚えのある声が背後からする。まさに噂をすれば影だ。
「みやちゃぁん!」
 さくらはばたばたと足音を立てながら走り寄ると、三船君のごとくその子に抱きついた。
「ダメよ! こんな極悪人と話してたら汚れちゃう」
「誰が極悪人だよ。調子に乗ってるとシメるぞ」
 うわぁ、汚らわしい! と言わんばかりの目を向けて、さくらはその子に抱きついたまま目を細める。
「さくらちゃん、借りてたマンガ返そうと思ってるんだけど…」
「あ、あたしも! お願いウチに来てー。一人のけ者で寂しいのー」
 俺の方をくるっと向くとさくらは眉間にしわを寄せながら言った。
「椿、早くウチに戻って。純ちゃんが椿帰ってきたら麻雀やるって張り切ってるから」
「…ったく、あのヒトは」
 溜息をつくと、その子は俺とさくらの顔を交互に見ながら笑った。

「遅い」
 玄関で母さんが仁王立ちになって待ちかまえていた。
「しかも女の子をナンパしてくるとはいい度胸じゃないの」
「ナンパしたのは三船君、それにさくらの友達らしいよ」
 コンビニ袋を母さんの腕の間にねじ込む。
「純ちゃん、お友達のみやちゃーん」
「は、初めまして。お邪魔します…」
 仁王立ちの母さんに気圧されたのか、その子は体を縮こませた。
「ソレが極悪人の母親。さらに極悪な面構えで悪いね。気にしないで」
「誰が極悪よ?」
「母さん以外に誰がいるんだよ」
 お互いの間に冷たい火花が散る。
「蝦沢君の、お母さん…?」
 はあ、とその子は溜息をついた。
「あら、愚息を知ってるの?」
「ええ、この間バスケの試合でウチの学校に来たんです」
 さくらはその子の腕にぎゅっとしがみつきながらはしゃぐ。
「純ちゃん綺麗でしょ? 子持ちには見えないよね」
「うん、…なんていうか、豪華な家族ね」
 母さんににっこりと微笑まれて、その子は戸惑うように何度も瞬きをした。

 二時間後。
「もう抜けていい? ていうか抜けた方がいいでしょ?」
 渋い顔をしてる大人三人を見回しながら、おれは臨時収入を握りしめて席を離れた。
 あとはドングリの背比べだから、そこそこの勝負になるだろう。俺は買ってきた雑誌を掴むとソファにごろりと寝転がった。三船君がテーブルの下から顔を上げて俺を見上げた。また床に顎をつけるとふぅと鼻を鳴らす。
 けらけら笑い声をたてながら、さくらとあの子が二階から下りてくる。
 三船君がぴくりと反応するのが目の端に映る。特に気にもせずに雑誌を読みふけっていると、いきなりあがったさくらの叫び声に俺は顔を上げた。そして目の前の光景にギョッとした。
 大人達もさくらの声の方を向いた。
 三船君は例によってあの子にじゃれついていた。
 が。
「人が犬に食われてる…」
「椿っ! アホなこと言ってないで助けてよ!」
 さくらに腕を掴まれて俺は慌てて立ち上がった。
 三船君はあの子の肩に両足をのせて、頭にかじりついている。たいていじゃれついても腰振る程度なのに、なんなんだこの異常な反応は。
「三船君いいかげんにしろ」
 なんとか彼女から三船君を引き離して睨み付けると、三船君はそそくさと母さんの足元へ逃げていく。
 ぺたりと両手を床について、うな垂れている彼女の頭はヨダレででろでろだ。 
「さくら、タオル持ってこい」
「犬に食べられそうになったの初めてだわ…」
「ホントにバカ犬でごめん」
 さすがに申し訳なくなっていると俺を見上げて大丈夫、と彼女はうっすらと笑う。
 三船君を再び睨み付けると、三船君ははて、なんのことやらと顔を逸らせた。
 さくらの持ってきたタオルで髪のヨダレを拭う。怪我してないよね? とさくらが不安げに覗き込む。
 間近で見るともっと小さく感じた。これなら三船君に食われそうになるのも無理はないかも、と不謹慎なことを考えてしまう。
 母さんのと違う、柔らかな髪。三船君のヨダレまみれとはいえ、その髪に触れているのはなんだか妙な気分だった。
 さっきの話じゃ、かなり麻生と仲が良さそうだった。やっぱり、ああいう人当たりのいいヤツに惹かれたりするんだろうか。案外つき合ってたりして。だから、罰ゲームのマネージャーも苦じゃなくなってるのかもしれない。
「椿? もういいんじゃない?」
 さくらに突っ込まれて、我に返った。
 なに考えてるんだ俺は。
「ありがとう。どうせお風呂に入れば綺麗になるし、大丈夫だから。気にしないで」
 さくらに大丈夫? とまとわりつかれながら、そろそろ帰るね、とその子は立ち上がった。借りてたの持ってくるっと言って、さくらが二階へ駆け上がっていく。
「悪かったね、マジで、ごめん」
「ううん、ホントに気にしないで。今日は貴重な体験だったから」
「犬に食われたのが?」
 靴を履く姿を見つめながら眉をひそめる俺に、彼女は違うと吹き出した。
「蝦沢君と話せたのが」
「え?」
「ずっと話してみたかったんだ」
 どくん、と心臓が高鳴った。
 どたどたとさくらが下りてきて会話が遮られる。
「じゃあ、さくらちゃんまたね」
「え…っと。名前、なんだっけ?」
 ドアを開けかけてその子は振り返った。
「西田美哉」
「西田」
 名前を呼ぶだけで、なんでこんなに緊張してんだろう?
「…じゃあ、また試合で」
「うん。またね」
 そう微笑むと、彼女は帰っていった。
「椿? 美哉ちゃん怒ってないみたいだし、そんなにへこまなくてもいいんじゃない?」
 さくらが俺をつつきながら言った。
「バーカ、余計なお世話だ」
 さくらの腕を振り払いながら俺はリビングへ戻った。
 西田の笑った顔がずっと頭から離れないまま。
「椿、顔赤いよ?」
「飼い犬が人を食いかければ焦るだろ」
「ほーう」
 大人達は意味深に口元を緩めた。
「だめだよ、椿が珍しくへこんでんだよ。慰めてあげなきゃ」
 さくらが得意げにソファにへたりこむ俺の頭を撫でる。
 アホだこいつは。
 さくらのこの鈍さなら、案外、西田にアタックすべく行動に移したとしても気付かないままかもしれない。
 ぼんやりと天井を見上げながら、俺はさくらに頭を撫でられるままになっていた。
 ああ、やばい。
 こんなの興味を持つどころじゃない。
 これから先、不純な動機で試合に臨んでしまいそうだ。
 なんで人気があって、謎で有名なのか良く知らないけど。
 実際の俺はバカみたいに単純で、こんなあっさりと恋に落ちてしまう。
「椿?」
「ああ?」
 頭上を見上げると、さくらは窺うような目つきで俺を見ていた。
「眠いの?」
「なんで」
「目がとろんとしてるから」
「ほっとけ」
 この気持ち、オコサマなお前には分かるまい。


                                - 終 -



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