----- 君たちは嘘つき


   >>> 9


 先ほどからどうにも落ち着かない。立て続けにタバコに火を付けるが、今の幸には本当に気休めにしかならなかった。
 踏み込む瞬間、神田のクラスは何の授業だっただろうか。ふとどうでもいいようなことを思い出し、幸は咥えタバコで机に向かって時間割表を探す。今の時間は生物らしい。踏み込むときは数学だった。なぜか安堵の息が漏れる。椅子に座って体を背もたれに預け、仰ぎ見た目線の先にコピー機があった。
 怒ったような顔をしてここへやって来た妃奈子の姿が思い浮かんだ。
 昨日の妃奈子は何に対して何もできなかったと言っていたのだろう。彼女の兄は普通の死ではなかったのだろうか? あの言い草では、まるで兄を見殺しにでもしたかのようだ。思わず頭をなでたときの、すがるような眼差しが幸の脳に強く焼き付いていた。あの時、確かに黒く澄んだ瞳の奥にうごめくどんよりとした影が見えた。
 それなのに彼女は頑なに救いの手を拒み続けていく気なのか。収まりつつあった苛立ちがふつふつと甦ってきた。
 その時、今度こそはっきりと幸の耳に叫び声が聞こえた。
 幸は立ち上がる。耳を澄ますがそれっきり静かになった。幸はタバコの火を揉み消すと部屋を飛び出し、確信もないまま自分がいた真上の教室へ向かって走り出した。蓼倉の早まるなという言葉が脳裏を掠めたが、もしかしたら今この瞬間にも誰かが殺されるかもしれないのだと思うと、自分を止めることは出来なかった。


◇ ◇ ◇


 どのくらい経ったのだろうか。妃奈子はゆっくりと目を開けた。
 起きあがろうと片手を突くが意志に反してぐにゃりと床に倒れ込み、妃奈子は我に返った。一体なにが起きたのか理解できない。自分の体の下敷きになっている、さっき手を突いた腕の感覚がまるでないことにようやく気付いた。おかしな体勢で寝ていて痺れた時と感じが似ていたが、痺れるほど長時間倒れていたとは思えない。
「意識が戻ったようだね」
 反対の腕には感覚があることを知って、妃奈子はそちらの腕を支えに起きあがる。ぼうっとする頭を動かすと、校長が実験用のメスを弄びながら、自分のすぐ近くにしゃがみ込んで様子をうかがっているのが目に入った。すぐ脇の机の上に注射器が転がっていた。
 倒れている間に何をされたのだろうか。
 手をさしのべてくる校長に、思わず妃奈子は短い叫び声を上げた。
 校長は反射的に妃奈子を殴りつけた。床に激しく叩きつけられ、口の中にじわりと鉄の味が広がった。睨むように校長を仰ぎ見る。校長は荒い息をしながら妃奈子を見下ろしていた。
「叫んだな?」
 妃奈子は四つん這いになって逃げようとするが、片腕が麻痺していて思うように動けない。校長は妃奈子の髪を掴み、引きずるようにして妃奈子を手元へ引き寄せようとする。
 妃奈子は髪を引っぱられた痛みでまた声を上げた。再び殴られる。校長の目は血走っていた。
「どうして? どうしてこんなこと」
 妃奈子は痛みを堪えながら振り絞るようにそう言った。校長は床にうずくまる妃奈子をあざ笑っていた。
「どうしてだって? 新しい論文を完成させるためだよ。私の研究では、あとはもう生きた人間を実験台にするくらいじゃないと何の面白みもないからね」
「そんな、生徒を利用するなんて…」
「生徒を使って何が悪いんだ?」
 悪びれる様子など微塵も見せることなく校長は言い切る。
「おかしい。…気が狂ってるわ」
 妃奈子は俯くと吐き捨てるように呟いた。口から流れる血がぽたりと床に落ちた。
「私が狂ってるだって?」
 校長は笑いながら、メスを振り上げると、妃奈子に向かって振り下ろした。メスは妃奈子の肩先を掠め、切れた制服の隙間から白い肌が覗いた。そこからうっすらと血が滲む。妃奈子は身をよじって小さく呻いた。
 もう一度、メスが妃奈子の頭上に振り上げられたとき、ドアを開けようと誰かが戸をがたがたと揺するのが聞こえた。二人ともハッとしたようにドアの方を向く。二人の間に張りつめられた緊張感がさらに高まった。
 校長が振り上げた手を止めたまま、額に脂汗を浮かべて入り口の方を凝視しているのを見て、妃奈子はドアの外にいる人間に向かって助けてと叫んだ。ドアの外で反応があった。その声に我に返った校長は激しく動揺した。妃奈子を突き飛ばすと自由が利く方の二の腕にメスを突き立てた。
 妃奈子は声にならない叫び声を上げる。
 その時、廊下側の磨りガラスの窓が派手な音を立てて割れた。割れたところから飛び込むようにして入ってきたのは幸だった。幸は叫び声の主が妃奈子だと知ると一瞬立ち止まった。
「ったく、三上の逮捕で大人しくなってるかと思いきや…」
 低く呟く幸に校長は狂ったように笑った。すかさずそばでうずくまっている妃奈子の髪を掴んで引き寄せると新たにメスを取り出して妃奈子の喉元に当てた。
「来るな。こいつを殺すぞ」
 妃奈子が唇を噛みしめて幸を見つめる。幸も妃奈子の顔を真っ直ぐ見つめた。
「君さえやってこなければ全て上手くいってたんだ。これからもずっと」
「そうだな。けど俺はあんたのやって来たこと全てをぶち壊すために来たんだ」
 校長は君のせいだ、君が犯人だとぶつぶつ呟く。
「あんたがあの子達を殺したんだろう」
「私じゃない。彼女達が逃げようとしたんだ」
「自分から飛び降りたとでも?」
「ああ。させたいようにしたまでだ」
「ヤク漬けにしておいてか?」
 幸は校長と妃奈子の元へ一歩近付く。
「殺すぞ、それ以上来るな」
「殺してみろよ、お前の命もないぞ」
 校長の額から汗が流れ落ちた。幸は一歩ずつゆっくりと近付く。校長は舌打ちをすると、妃奈子を突き飛ばした。後ずさりながら尚もメスを振り回す。その手からメスを取り上げようとして、刃先が幸の頬を掠めた。
「くっ…」
 幸は小さく呻く。校長の手が幸の顔を通り越した瞬間に顔を殴りつけた。校長の体が派手な音を立てて倒れ込む。どうにか校長の腕を掴むと今度は逆に掴んだ腕を取られる。しばらくそのままやり合っていたが、不意を付いて幸が派手に頭突きを食らわした。校長は目が眩んだのか、一気に大人しくなった。メスをもぎ取ると床にうつぶせに押し倒した。
「傷害罪の現行犯だ。逮捕する」
 手錠を掛けると校長は驚愕して幸を見上げる。その顔を幸は冷ややかに見下ろした。

 頬の傷から流れる血を拭いながら、幸は妃奈子の方を振り返る。
 妃奈子は二の腕にメスを突き刺されたまま、前のめりにうずくまっていた。
「及川」
 幸が駆け寄ると、妃奈子はホッとしたように小さく息を吐いた。
「センセイに教えて貰ったこと、ちゃんとやったのに…刺されちゃった」
「まず逃げなきゃダメでしょうが」
「そっか…」
 妃奈子は苦痛で顔を歪める。幸は校長の方をちらりと見る。後ろ手に手錠を掛けられ、身動きがとれないのか、幸に向かってなにやら喚き散らしてはいたが、起きあがってくる様子はなかった。
 幸はスーツの上着を脱ぐとそれで妃奈子をくるみ、抱え上げた。部屋を出て保健室へ向かって階段を駆け下りる。

「センセイ、痛い。痛いよ」
 自分の腕に刺さったままのメスを見て、今にも泣き出しそうな顔をして妃奈子が呻くように呟く。
「及川、見るな。見ると痛いから。悪いけど、救急車来るまでこれ抜けないんだ」
 幸は妃奈子の顔をちらりと見る。
「痛いよな。ごめんな」
「死ぬくらい刺されてたらきっともっと痛いんだよね」
 目を伏せて、妃奈子が小さな声で言った。
「みんな、もっと痛かったんだよね」
「もういい。なにもしゃべるな。俺の顔でも見てろ」
 幸はいたたまれなかった。いっそ、自分が泣き出したいような気持ちに駆られる。保健室へ行く途中、職員室へ寄ると幸は戸を開けて叫んだ。
「救急車呼んで下さい。それから警察も」
 血だらけの顔をした幸と、真っ青な顔をして幸に抱きかかえられている妃奈子を見て職員室にいた教師達が何事かと一斉に立ち上がる。
「急いで下さい、早く!!」
 幸が叫ぶと、慌てたように教頭が電話の受話器を取り上げた。
 その様子を確認すると幸は保健室へ急ぐ。

「センセイ…」
 目を閉じていた妃奈子が重そうにゆっくりと目を開けた。しばらく幸の顔をまじまじと見ている。
「なに?」
「センセイって、顎の下にほくろがあるんだね」
 ふふっと妃奈子が笑ったような気がした。
「はあ? アンタ何言ってんの」
「だって顔見てろって言ったよ」
「もういいから、黙ってなさい」
 幸は呆れたように息を吐いた。
 ふいに蓼倉の顔が浮かんだ。
「あーあ、始末書もんだよな」
 思わず口をついて出た。
「どして? センセイはあたしを助けてくれたのに?」
 妃奈子が虚ろな目で幸を見上げていた。幸は妃奈子を見つめて、そして立ち止まった。
「及川? アンタあいつに何飲まされた?」
「え?」
 妃奈子の瞳孔は周りが明るいにも関わらず、大きく開いたままになっている。何らかの薬物を飲まされていることは明らかだった。
「なに? やだ、センセイ?」 
 怪我による痛みで苦しいはずなのに、妃奈子の表情が和らいでいるのも変だった。
「あの野郎…」
 幸は低く呟くと再び歩き始める。救急車のサイレンの音が微かに聞こえてきた。徐々にその音は大きくなってくる。それを聞いて幸はホッと溜息をついた。
 保健室へ行きかけていたが、正門へ出る廊下へと向かった。
「ああよかった」
 妃奈子は小さくそう呟くと、幸の胸に押し付けるように顔を埋めて目を閉じた。


◇ ◇ ◇


 妃奈子は窓際の席で風に吹かれながら、神田が期末テストの範囲を説明しているのをぼんやりと聞いていた。
 あの事件の後、目が覚めたら知らない天井が見えた。いつの間にか病院に運ばれていたらしいが、その間のことがさっぱり思い出せなかった。
 麻痺したように動かなかった腕は時間が経つと元通り動くようになったし、刺された傷も思ったより深くなかったらしい。三角巾で吊られた腕は見た目は痛々しいものの、実際はそんなに不自由ではなかった。
 校長の逮捕は三上の時以上に連日ワイドショーを賑わせた。大学教授時代にも生徒を使って実験をしていたことが発覚し、まだ余罪の追求が続いているようだった。不祥事続きに転校していく生徒も何人かいたが、大半はそのまま残っていた。大きな膿を吐き出し尽くしたのか、校内からは薄気味の悪い爽やかさが抜けた。

 幸が実は刑事で、中尾同様に、潜入捜査の為に教生の振りをしていたことを知って一番驚いていたのは神田だった。無理もないだろう。中尾の正体が明かされたとき、共にドラマみたいだなあと笑い合っていたのだから。
 妃奈子が救急車で運ばれていった後も、応援が来るまで現場の指揮をしている幸を見た生徒達は、幸の本来の姿を見て一様に目を丸くしていた。
 幸がここへ教師となって戻って来る日は一生かかっても来ないことを実感したのか、あの日以来、女子生徒達は何だか魂を抜かれたように静かになった。

 あれから幸の姿を見ていない。亜美は校長を送検するときにテレビにちょっと映っていたよと言っていたが、妃奈子はもう一度、面と向かって幸に会いたいと思った。
 妃奈子は頬杖を突いて、空を見上げていた目線を地面まで引き下ろす。見覚えのある車が門の近くの駐車場に止まっていた。それと同時に校舎から出てくる人影に気付いた。
 弾かれたように妃奈子は立ち上がった。
「及川? どうした」
 神田が急に立ち上がった妃奈子を見て呆気にとられたような顔で尋ねる。教室中の生徒の目が妃奈子に注がれた。
「すいません、トイレに行かせて下さい」
 妃奈子は咄嗟にそう言うと神田の返事も待たずに教室を飛び出した。
 

「これで終わりですね」
「そうだな」
 幸は車に向かっていた足を止めて、振り返って校舎を仰ぎ見た。太陽で強く照らされた校舎はまだ威厳を保ってはいたが、荒廃した土地に立つ寂れた古城のように見えた。
 だが実際に荒廃していたのはその中で生活する人間だ。
 幸は風を遮るようにしてタバコに火を付ける。保苑さんそろそろ、と花垣に呼ばれて幸はああと答える。歩き始めた途端に誰かが走ってくるのが目の端に見えて、幸は再び立ち止まった。
「及川」
「センセイっ」
 妃奈子は幸の元まで駆け寄ると、肩で息をしながら幸を見上げた。大きな瞳が真っ直ぐ幸の姿を捉えていた。
「具合はいいの?」
 思ったよりも元気そうな姿に、幸は思わず微笑んだ。
「うん、もう平気」
「そりゃよかった」
 妃奈子は呼吸を整えるためにゆっくりと息をしていたが、最後に一つ大きく息を吐くと幸に手を差し出す。驚いて目を瞬かせる幸に妃奈子はふんわりと笑った。それが一層、幸を戸惑わせた。
「ありがとう、助けてくれて」
「…ああ」
 幸は引きつるような笑みを浮かべる。そう答えるのが精一杯だった。妃奈子が不思議そうな顔をしたので、幸は慌てて妃奈子の差し出した手を握った。
 ひんやりとした小さな妃奈子の手が、幸の温かな大きな手に包まれる。その感触に驚いたのか妃奈子の体がわずかに動いた。妃奈子がじっと手を見つめる。もう一方の手にしていたタバコもそのままに、幸は固まったように動けなかった。
「じゃあ」
 ようやく幸が振り切るように切りだす。
「うん」
 妃奈子も我に返ったように答えた。
 ただの握手なのに迂闊に手を離してはいけないような気がして、二人ともなかなか手を離せない。ゆっくりと名残惜しむかのように互いの指先が手をなぞっていく。
 手が離れる瞬間、二人の心の中に小さな電流のようなものが走った。


 車に乗り込み、サイドミラーの中の妃奈子を見る。
 ふと、いつもとは違う幸の様子をうかがいながら、車を発進させていいものかどうか迷っている花垣に気付いた。ふふっと笑いながら出していいよと言うと、花垣は安堵の色を浮かべて車を発進させる。
 幸は新たにタバコを取り出すとそれを咥え、シートに深く体を預けた。
 これで本当に終わったなあと幸はぼんやり考える。
 サイドミラーに映る妃奈子の姿が見えなくなるまで。
 署に戻る頃には妙な火照りも車内の良く効いたクーラーで冷やされているだろう。
 幸は目を閉じた。


                             - 終 -



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