----- パーフェクト


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 生徒会室に向かいながら、椿の完璧人間ぶりを考えていた。確かになにやるにも涼しい顔して抜かりない。例え不安に思うことがあったとしても、椿は他の人には絶対にそんなことを悟らせない。
 誰にも侵されることのないようにぐるぐると見えない糸を張り巡らせてまゆを作り、気持ちを押し込めてしまう椿はずるいと思う。椿に対して壁を作ってるのは周りの人間じゃない。椿自身だ。
 だからあたしがこうしてみんなの窓口になってるの、椿は分かってるのかな。あたしを介して椿に頼み事をしてきたりすることも少なくない。先生が言づてを頼んでくるのも結構あった。このままいくと将来、椿が社長とかになろうもんなら、有無を言わさず秘書にされそうな気がする。
  いや、今でも充分秘書か。


 時計は7時半を回っていた。冷たい風が吹き抜けるグラウンドは静まり返って、辺りは闇に包まれている。静かなのは外だけじゃなく、校舎もそうだ。生徒会室に続く長い廊下は、無機質な蛍光灯の青白い光に照らし出されてぼうっと浮かび上がっている。ひと気のない校舎は気味が悪い。足音がひたひたと響いて余計にそれを強調する。
 この階の一番奥の明かりが漏れている部屋にたどり着いて、あたしは戸に手を掛ける。
 その瞬間、明かりが急に消えた。
 体がびくついて、手に力が入った。でも戸はがたんと音を立てるだけで開かない。誰かが帰るから明かりが消えたんじゃないの? なのになんでもう鍵が掛かってるわけ? 冷や汗がじわりと出てきた。開けようとした手を離し、あたしは一歩後方に下がった。
 ぽん、と突然肩を叩かれてあたしはすっとんきょうな声を上げた。思わずしゃがみ込んで頭を抱え込む。
「なんだよ、俺だってば」
 聞き覚えのある声にゆっくり顔を上げると、椿が「なにやってんのアンタ」と言いたげに見下ろしている。途端に体の力が抜けた。
「いきなり脅かさないでよっ」
「どっちがだよ。帰ろうと思って電気消したら戸ががたがた鳴り出すし、心臓止まるかと思った」
 そう言いながらも別に驚いた風には見えない椿は、手をあたしの目の前でぷらぷらと振る。その手に掴まって弾みをつけて立ち上がった。
「なんで反対側から出てくるのよ」
「だって怖いし」
 澄ました顔でしれっと言うと椿は歩き出した。
「どこが怖がってんのよ」
 スカートの裾を払うと椿を追いかける。
「ねえ、1人でやってたの?」
「そうだよ」
「手伝って貰えばいいじゃない」
「手伝うもなにも、俺がやんなきゃいけない仕事が残ってただけだよ」
 ぶっきらぼうに椿は言った。
「今日は先に帰ってると思ったのに」
「そしたらまたカップ麺とかで晩ご飯済ませる気でしょ」
 図星といわんばかりに椿の歩くスピードが速くなった。
「今日こそは必ず連れて帰って来いってママから言われてるの。逃げようったってそうはいかないんだから」
「別に逃げてない」
「ママが心配してんの。椿1人なのに、ご飯なんてまともなの食べてないんでしょって…、ねえ、人の話聞いてんの?」
「聞いてるって」
 自転車置き場に向かいながら、椿はまるで聞いてない様子で適当に相づちを打つ。
「あれ、チャリは?」
「今日はバスで来た」
 そう言いながら椿のママチャリのかごに、椿のと一緒に鞄を押し込むと、後ろの荷台に座る。椿は何も言わずに漕ぎ出した。
 自転車は緩やかな下り坂を滑るように下っていく。風が冷たくてマフラーを口元まで引っ張った。もうそろそろ雪が降るはずだけど、今年はまだだ。その寒さを想像したら鼻がツンとした。椿の背中を見た。真っ黒いコートに包まれた後ろ姿が、何となく痩せたような気がする。腰に置いた手がコートに吸い込まれていくようだった。
「ママの言うとおりだな」
「何が?」
「なんでもないよ、独り言」
「おばさんに心配されてんの分かってるけどさ、しょっちゅうゴチになってると悪いだろ」
 信号待ちで椿はぼそぼそとそう言った。
「なに今さら遠慮してんの」
「いや、そういう訳じゃないけど」
「分かってないな、ママはそうやって遠慮されるのが気に食わない人なの。タダ飯にありつかないとは何事よ? てな勢いなんだから。おかげでここんとこ椿のための献立になってるのに、ちょっとはあたしのことも考えてよね」
「なんで」
「カロリー計算無視されて、すごいんだから。椿が来なかった日は、おかずがそのまま次の日のお弁当になるのよ。冗談じゃないよ」
「へえ、美哉は増量キャンペーン中ってか」
 椿は振り返るとニヤニヤしながらあたしのお腹のあたりを見る。
「誰のせいだと思ってんのよ」
 ムッときてあたしは椿の足をけっ飛ばした。
「いてっ」
「ほーら、信号青だよ」
「ったく、振り落とすぞ」
 椿はあたしを軽く睨むと再び自転車を漕ぎ出す。
「大体ねぇ、椿が減量キャンペーン中じゃなかったら、あたしだってこんなこと言わないよ」
「誰が減量キャンペーンだよ」
 椿が低くつぶやく。
「もともと細いんだから、ママは心配してるの。1人で住んでてもむくむく太ってれば文句言わないよ。まったくもう、頑張ってるあたしの立場ないじゃん」
「飯の後にお菓子食ってるからだろ、自業自得だね」
 痛いとこ突かれてあたしはぐっとなる。椿は勝ち誇ったようにスピードを上げた。


「もうー、あたしだって好きで引っ張ってくんじゃないんだからね」
 家まで後百メートル、というところであたしは駄々っ子のように椿のコートを揺さぶった。
「危ねっ、分かった、行くからよせって」
 よろけながら家の前に自転車を止めると、椿は呆れ顔であたしを見下ろす。明らかに幼稚な手だっていうのは分かってたから、これ以上何も言えなかった。自転車に鍵を掛けると椿は顔を上げた。あたしの顔を見ると、仕方のないヤツめ、というようにうっすら笑みを浮かべて腰のあたりを鞄で叩いてきた。あたしも照れくささを隠しながら、笑って叩き返した。
 ドアを開けると、ちょうどお姉ちゃんが2階に上っていく途中だった。まだ帰ってきたばかりなんだろう。スーツ姿だ。お姉ちゃんは振り返ってあたし達を見ると、オヤ? という顔をしてから椿に向かってニッと笑った。
「久しぶりじゃない」
 椿はわずかに戸惑っていたけど、すぐにいつもの顔でコンバンワ、と小さな声で言ってキッチンの方へ向かう。
「あら、お帰りなさい。お腹空いてるでしょ、今、お味噌汁温めるから」
 ママは椿の姿を見るとあからさまに嬉しそうな顔をした。椿は6人掛けのテーブルの端に座る。あたしは冷蔵庫から出したウーロン茶をコップに注ぐと1つを椿に渡した。
「ねえ、お姉ちゃんは?」
「食べて帰ってきたみたい」
 ママはご飯とお味噌汁と用意すると、自分用にお茶を入れる。
「飲んでたのかな」
 椿はもくもくと肉じゃがに箸を伸ばしながら、ぽつりと言った。ママはさあどうかしらと笑う。
「お姉ちゃん、お酒飲んで帰ると必ず椿にポーカーふっかけるもんね。今いくら勝ってる?」
「さあ、3万くらいかな。美哉もやれば? 儲かるぞ」
 あたしは横目で椿を睨む。
「あたしが二人に勝てるわけないでしょ。破産するって」
「まーね、レベルが違うもの。椿、早くご飯食べちゃいなさいよ」
 お姉ちゃんが着替えて下りてきた。あたし達の向かいの席に座るとテーブルに頬杖を突いてにっこり笑う。
「美千代(みちよ)、そんな急かさないの。椿くんお代わりあったら言ってね」
 ママはお姉ちゃんをたしなめるとエプロンの紐を直しながらお風呂場の方へ行った。


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 椿は叔父さんと二人で暮らしている。一ヶ月ほど前から叔父さんが単身赴任で留守なので今は1人だけど。両親は4歳の時に交通事故で亡くなっている。それから椿のお父さんの妹夫婦に引き取られたけど、叔母さんは体の弱い人で、あたし達が中学に上がる前に亡くなった。
 初めて椿に会ったときは、人見知りが激しくて大人しいコだった。打ち解けるとお姉ちゃんと徒党を組んで、腹立つくらいの悪ガキになった。あたしはしょっちゅういたずらの標的にされていたけど、叔母さんが亡くなってからはまた昔に逆戻りで、人前で感情をあまり出さなくなった。
 たぶん椿が心を開いている他人は私たち家族くらいだ。それでも優等生な椿はパパやママに遠慮しているところがある。最近それがやけにひどいので、ママは水臭いとご立腹なのだ。ママが怒るのも分からなくはないけど、学校に比べたら家にいる椿はまだましな方。
 成績が今ひとつとか、運痴とかならまだかわいげがあるのにな。ご飯を綺麗に平らげてお姉ちゃんとリビングに向かう椿をぼんやりと見る。
 彼女いない歴17年は、その隙のなさに女の子が手を出せないでいることもあるけど、きっとあたしの存在もあるはずだ。放っておくうちに、椿の彼女はあたしということに一部ではなっているらしい。椿は我関せずだから、芋づる式にあたしまで彼氏いない歴17年の道を歩んでしまっている。
 園子から聞けば、あたしに好意を寄せてくれた人がそれなりにいたらしいけど、あたしの背後に椿がいることに耐えられなくて諦めてゆくんだそうだ。ああ、一言、言ってくれればばっさり否定してたのに。


「じゃいくよ」
 椿が鮮やかな手つきでカードをさばく。
「レイズ」
「コール」
 確かに椿のポーカーフェイスは途中まではその通りなのだ。
「何よ?」
「何も?」
 ああ、椿の目が笑った。お姉ちゃんはムッとする。
「…コール。スリーカード」
「ストレート」
 椿はその長い指でさっとチップを自分の手元へ寄せる。この瞬間、椿は嬉しそうにくすっと笑う。そしてこれがお姉ちゃんの闘志を燃やす。
「椿、ほんとに一度お金貯めてラスベガスで勝負してみる気ない?」
「だったら美千代姉ちゃん、チップの上限上げてくれなきゃ。金貯まんないよ」
「誰がスポンサーになるって言った?」
 また静かに椿が笑う。ポーカーしてるときの椿って特別嬉しそうだ。いくら感情の表現が乏しくても十年以上も一緒にいればそれなりに喜怒哀楽は分かる。
 例え明日数学の問題が当たっていようと、英語の小テストがあろうと、お姉ちゃんからのお誘いは断らない。
 椿はお姉ちゃんのことが好きだ。
 だからといって、これまでそんな素振りを見せたことはない。あくまで幼なじみとして振る舞う椿はすごく健気だと思う。
 お姉ちゃんは7つ年が離れてて、お姉ちゃんと言うよりもう1人ママがいる感じ。しっかり者だし、美人だし。それに叔母さんがいなくなった後、お姉ちゃんは椿をずっと支えてきた。お姉ちゃんに対する気持ちが特別なものに変わったって、ちっとも不思議なことじゃない。
 お姉ちゃんは椿が自分のことを好きなのを知っている。知っていて、知らない振りをしてあげている。そのせいか椿との会話に恋愛の話が出てくることはあまりない。歴代彼氏のことも、椿には絶対言わない。
 だけど、椿はそういうお姉ちゃんの事情を勘付いている。実らないのを分かってて、まるでこの状況を楽しんでいるように見えるときすらある。学校でどんな噂が流れようと椿が平気なのは、そんな噂はお姉ちゃんの耳にまでは届かないからだ。ほんとはしんどいはずなのに。お姉ちゃんを奪おうとか思わないのかな。
 なんだか端から見てても、この二人の関係はどうしようもなくて切なくなってくる。あたしはせっかちだから、きっとこんな関係になったら耐えられないだろうな。
 ポーカーをしているときだけ、椿はお姉ちゃんと対等でいられる。だからあたしは邪魔しないように、テレビかなんかを見ることにしてる。どっちにしろ、下手に参戦するとお小遣いなんてスッカラカンになってしまう。
 椿はお姉ちゃんから3千円巻き上げて帰っていった。
 誰にも気付かれず、何も残らず、今日もお姉ちゃんのものを奪っていった。そこまで椿が考えているのか、お姉ちゃんは気付いているのか、分からないけど。


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