----- 汝の罪人を愛せよ


   >>> 11


 妃奈子は背もたれに体を預けてくるくると椅子を回転させながら、どこを見るでもなしにぼんやりとしていた。
 ここへ来て3回目になるが、ずいぶんと落ち着く場所なのだと分かってきた。鞠子も言いたくないことは言わなくていいと言ってくれる。前回は鞠子のきちんと手入れされた控えめなネイルアートやアクセサリーの話で終始した。帰り際にそのことで気が咎めた妃奈子に、だけど妃奈子ちゃんのことはだいぶ知ることが出来たわ、と鞠子は笑った。
「うわっ、酔ってきた」
 そう呟きながら慌てて足でブレーキを掛ける妃奈子に鞠子はくすりと笑った。
「この間ね、家に帰ってママにピアス開けたいって言ったら怒られちゃった。別に今すぐ開けたいわけじゃないのにな」
「体に穴を開けるなんて、って考えの人もいるでしょうね。欧米ほど完全に定着してるわけじゃないから」
「高校卒業したら絶対開けるもんね」
 妃奈子はまた椅子を一度だけくるっと回転させる。動きを止めると何の脈絡もなく突然切りだした。
「あのね、保苑さんに『中身は死んだまま』だって言われたの」
「妃奈子ちゃんを?」
「うん。そういう子は…好きにはなってもらえないのかな」
「妃奈子ちゃんは幸君が好きなの?」
 妃奈子は慌てて背もたれから体を離した。
「ええっ、違っ…、そんな意味じゃないよ」
「じゃあどんな意味?」
「鞠子さんずるいな…」
 妃奈子は真っ赤になった顔をぷいと庭の方へ向けた。
「好きっていうか、なんていうか、うまく言えないけど。保苑さんにそう言われたとき何だかすごく悲しくなっただけ」
「妃奈子ちゃんは自分でどう思う?」
「記憶がないから死んでるって言われたのかなって。自分でもお兄ちゃんがいなくなってずっとぽっかり穴が開いてるって思うから」
「寂しいってこと?」
 妃奈子はふるふると首を振った。
「もちろん寂しいけど、そういうのとはちょっと違うぽっかりなの。それまであった何かの気持ちがなくなっちゃった感じ。それがないからなのかなって考えたの。そしたら何だか悲しくなって、そういう風に見られてるなら、イヤだと思ったの」
「それがここに来た理由?」
 妃奈子は鞠子の方を振り返った。小さく頷くと鞠子はそっか、と微笑んだ。
「どういうシチュエーションで言ったのか分からないけど、少なくとも妃奈子ちゃんのことは嫌じゃないと思うわ。『中身が死んだまま』の妃奈子ちゃんが見ていられないのよ」
「事件の被害者だから?」
 妃奈子はムッとした口調で言った。見ていられないという言葉で自分を可哀相だと表現しているのだと思った。そういうときは大抵”事件の被害者”という括りで腫れ物に触るように扱われることが多かった。そういえば加東はいつもその言葉を口にしていたような気がする。だが鞠子はいいえ、とそれを否定した。
「自分に似てると思ったのかもね」
「え?」
 妃奈子はキョトンとした。
「幸君が前に自分のことをそう表現してたのよ」
「あの、保苑さんもここに通ってたって言ってたけど、何かあったの?」
「それは本人に聞いてみたら?」
 鞠子は含んだような目で妃奈子を見る。
「教えてくれるかな?」
「どうかな。幸君てケチだからね」
 神妙な顔をして頷いた妃奈子に鞠子は吹き出した。
「妃奈子ちゃんも思い当たることがあるってワケね」
 妃奈子もつられて笑い出す。ひとしきり笑うと鞠子は仕切り直すようにお茶を一口飲んだ。
「そういえば、妃奈子ちゃんのお兄さんはどんな人? まさか幸君みたいにひねくれてたりはしないんでしょうけど」
「お兄ちゃん?」
 妃奈子の顔が急に曇った。
「うん、そうだね。優しいし…」
 椅子の上で膝を引き寄せて抱え込むと妃奈子は顔を埋める。
「私は一人っ子だから羨ましいわ」
「妹を庇って死んじゃうようなお兄ちゃんでも?」
「そんなお兄さんだからこそよ」
 鞠子は微笑んだが妃奈子は床に目線を落としたまま低く呟いた。
「でも、お兄ちゃんはあたしの代わりに死んだことを怒ってる」
「どうしてそう思うの?」
「お兄ちゃんの声が聞こえるの」
「声?」
 そこで妃奈子ははっとしたように庭の方を向いた。
「どうしたの?」
 妃奈子は無言で首を横に振った。
「…あのね、この話もうおしまいにしていい?」
「そうね。でも一言だけ」
 鞠子は時計を見ると立ち上がった。妃奈子の側へ行くと肩にそっと手を置く。
「だから妃奈子ちゃんは罪人で、お兄さんから許して欲しいのね?」
 妃奈子は椅子に座ったまま鞠子を見上げる。小さく頷くと俯いて目を伏せた。
「一度には無理でも少しずつなら前へ進めるんじゃないかな」
「ホントにそう思う?」
「ここへ来たことがまず小さな一歩だと思うわよ」
 鞠子はそう言うと庭の方を見つめた。
「今日はこれでおしまい」


◇ ◇ ◇


「ねえ、『中身が死んでる』って?」
 後日、同じ部屋でネクタイを緩めてタバコを吹かす幸に鞠子は尋ねた。
「何それ」
 不愉快そうな表情を浮かべて幸は答えた。あら、と笑いながら鞠子は椅子の背もたれにゆったりと凭れる。
「妃奈子ちゃんから聞いたんだけど」
「気にしてんのか…。勢いとはいえ、まずったな」
「ねえ、多少なりとも自分と重ねて彼女を見てる?」
 幸は目を細めて鞠子を見た。
「多少はね。でもだからってワケじゃない」
 そう言いながら、幸は加東から言われたことを思い出した。鞠子の言うとおりなのか、瞳に映るどんよりとした影を取り除きたいだけなのか。妃奈子にこだわる理由なんて自分でもはっきりとは分からない。
 鞠子は物足りなさそうな様子で話題を切り替えた。
「妃奈子ちゃんね、ほんとは全寮制の学校に行きたかったらしいわよ」
「へえ…。それが何でまた」
「残念ながら全寮制の高校は受からなかったらしいの。寮のある今の高校は他県から進学してくる子を優先にしてて、今年は既にいっぱいで入れなかったんですって」
「地元の高校に通うどころか、家にさえ居たくないってことか?」
「やっぱりそうなのかしらね」
 顎に手を当てて、幸は今までで得たデータと照らし合わせるように一点を見つめて黙り込んだ。
「お兄さんは本当に妃奈子ちゃんを助けに入って殺されたのよね?」
「そうらしいけど?」
「じゃあどうしてお兄さんの怒る声が聞こえるのかしら?」
「はあ?」
 幸は呆れたような声を上げた。
「オカルトじゃあるまいし」
「でもそう言うんだもの。恐怖心はそこから来るのかしら?」
「それがホントだとすると状況は微妙だよな…」
 妃奈子が催眠状態で語った被害状況はそれ以外にも何かあるのだろうか。妃奈子がとりわけ兄について触れたがらないのはそれが原因なのだろうか。幸は吹かしていたタバコを部屋の真ん中に置かれていたテーブルの灰皿に突っ込むと、ソファに座って両手を顔の前で組む。 
 鞠子は手にしていたカルテに目を落としたまま呟いた。
「妃奈子ちゃん、少しの間だけでも家から離れてた方がいいのかも」
 幸は怪訝な顔をして鞠子の方を振り返った。
「夏休みだし田舎でノンビリってか」
「それは無理ね。ご両親の実家は近所なんですって。それに、なにかとストレスになるんじゃないかと思うわ」
 鞠子は立ち上がるとお茶を入れる。幸に渡しながら言った。
「あまり眠れてないみたいだしね。貧血がひどいのもそのせいじゃないかな」
 幸は再びくるくると頭の中で考えを巡らす。心当たりがないわけじゃないけど、と呟くと鞠子は眉をひそめる。
「自分の部屋だなんて言わないでよね」
「アホか」
 ナニを考えてんだ、というような視線を幸から向けられて鞠子は笑った。
「学校に近いし、一人くらい増えてもどうってことないって家だけど、難点は野郎が多いことなんだよな」
「どこよ、そこ」
 幸はそれには答えずにううーん、と顔をしかめただけだった。


back    index    next


Copyright (C) 2002 Mutsu Kisaka All Rights Reserved.