----- 汝の罪人を愛せよ


   >>> 12


 妃奈子の事件とは別件で、重要参考人の聴取に追われて幸は焦燥していた。取り敢えず今日は警視庁へ出向かなければならない。憮然とした顔のまま入り口を通り抜けると、前方を見覚えのある人物が辺りを見回しながら歩いている。エレベーターの前まで来ると、向こうも幸に気付いたのか声を上げた。
「あ、あの時の」
 その相手、麻薬取締官の中尾(なかお)は露骨に嫌そうな表情で幸を見る。幸と共に高校へ潜入捜査をしていたときは、幸以上に大学生らしく見えた中尾だが、スーツを着ていても余り変化がないと言うことは歳も幸よりは下なのかもしれない。
 結果的には幸が挙げたホシの方が世間を大々的に騒がせたのだから、中尾にとってはあまり面白くはないだろう事は容易に推測できた。幸はにやりと笑った。
「本日はご来店まことにありがとうございます。ご利用フロアはどちらでしょうか?」
 途端に中尾はぴくりと頬を引きつらせた。
「刑事部は何階なんだ?」
「6階、刑事部。上へ参りまぁす」
 幸は扉が開くと先に乗り込んで中尾を促すと、エレベーターガールよろしく目的地を告げた。扉が閉まって動き始めると中尾は不機嫌そうに鼻から息を吐いた。
「また君に会うなんて。あの時は僕の勝ちだと思ったのに」
 唐突にぼそりと呟く中尾に、幸は笑いをかみ殺すようにしながらとぼけてみせる。
「勝ち? 何のことでしょう」
「あああっ、むかつく男だ」
 ぎりぎりと悔しそうに歯を食いしばる中尾に堪えきれずに幸はくっくと笑う。ふと今日は来客があることを思い出した。
「あ、まさか、参考人に面会って」
「君のとこなのか?」
 中尾は弾かれたように幸の方を仰ぎ見た。幸は緩んだ口元を手で覆いながら、案内しますよと答えた。
「俺、まとりの皆さんになんかしましたっけ?」
「何だよ急に」
 今度は幸が唐突に口を開いて中尾は眉をひそめた。幸は誤魔化すようにあさっての方を向いた。
「イヤ、別に」
 中尾は苛立ちながら、点灯している階数の数字がゆっくりと変わっていくのを見上げて答えた。
「僕の個人的な見解だよ。保苑幸は憎たらしい男だってね」
「はあ」
 教生のフリをしていた頃はそれなりに親しみを持たれていたような気がしたのだが、お互いの正体がばれるとこうも一転してしまうものかと幸は呆れた。
「君はいつもいつも僕が追ってたホシを横からかっさらってるんだよ」
「まとりの管轄なら敵は生活保安部でしょうに」
「僕もそう思うんだけどね、何がどうなってんのやら、被疑者からヤクの仕入先の情報を入手しようと赴くと君らのところへ回されるんだよ」
「そう言われても」
 さすがにそれは幸のせいでは無いはずだろうに、これでは単なる八つ当たりじゃないかと幸がちらりと中尾の方を見ると、中尾は扉を真っ直ぐ見つめたまま声を荒げた。
「なんだって強盗してまでヤクを買おうとするんだかね!」
「強盗事件なんか起こす前に摘発してくれれば俺も仕事が楽なんですけどネ」
 あくまでも飄々と相づちを打つ幸に我慢が出来なくなったのか、とうとう中尾は幸の方を振り向いて叫んだ。
「ほんとにむかつく野郎だな君はっ」
 その時、タイミング良く扉が開く。幸は声を上げて笑いながら、再び中尾を促した。
「6階、刑事部でございまぁす」
 中尾が一際渋い顔をして幸を睨み付けながらエレベーターを後にした。
 幸は咳払いをすると気を引き締める。こちらです、と先導する幸の真面目な表情に中尾も慌てて後に続いた。
「滅多に会えるもんじゃない人間に嫌われるのも光栄なことかもな」
 麻薬取締官は全国規模でみても二百人足らずしか存在しない。関東が一番多いといってもせいぜい50人足らず、幸のように警視庁にいたってそうそう会える連中ではないのだ。ぼそりと独り言のように呟いた幸に中尾は鼻で笑った。
「それは皮肉?」
「いえ、こういうことは今に始まったことじゃないし。慣れてるんで別に気にしちゃいませんよ」
 幸は静かに笑って答えたが、ふとあることを思い出した。
「つかぬ事を訊くけど、一発で記憶の一部分が抜けるような薬物って存在します?」
「一発で?」
 中尾は首を傾げた。
「睡眠薬を乱用していれば薬が効いてる間の記憶が脳に記録されにくいことはあるけど。たった一度じゃなぁ」
 そうですか、と幸は溜息をついた。もしかしたら中尾なら何か分かるかもしれないという微かな期待はあっという間に消えてしまった。
「ああ、もしかして例の校長の?」
 中尾の問いに幸は頷いた。
「すっぽり抜けてるんですよ。唯一の証人になり得るのに、記憶がなきゃ意味がない」
「それを知ってか知らずか、否認し始めたんだってね」
「まあ、あとは検察任せなんですけど。ヘタすると単なる傷害罪になりかねない」
 中尾はあの時のことを思い出したのか苦笑した。
「確か三上からブツを奪ってきた子でしょ? 彼女も運が良いんだか悪いんだか」
「ええ、ホントに」
 幸もつられたように苦笑いをした。
 確かに言われてみれば、何度も事件に巻き込まれているのに不思議と命だけは無事だ。自分と同じように悪運だけは強いということだろうか。普段は貧血気味で青白く大人しそうな彼女が、三上の所へ単身で乗り込んで証拠を奪ってくるくらい度胸があるというギャップも興味深かった。そのくせ兄のことになると頑ななほど弱気になる。一体どちらが本当の彼女なのだろう。
 知れば知るほど気になってしまう。まるであの漆黒の瞳に吸い込まれるかのように、ずるずると引き込まれている自分がらしくなくて妙に歯がゆかった。
 ただのワケあり女子高生だろう?
 幸は自嘲しながらそう言い聞かせた。


◇ ◇ ◇


 禁煙の部屋なので火のついてないタバコを咥えながら幸はいらついていた。フィルターは既に甘噛みされてよれよれになっているが、どうせこのタバコに火を付けるつもりはない。一向に気にする気配もなく、再びフィルターに八つ当たりを始めていると少し離れたところにいる蓼倉が手招きをした。
 以前食らったように行儀の悪いことは止めなさいと小言を言われるのかと思い、幸は首をすくめつつ蓼倉のもとへ行く。
「なんすか」
「幸、あの件ヤバイかもしれないわ」
「ヤバイって?」
 思惑とは外れた蓼倉の第一声に幸は拍子抜けしたが、この場合、小言を食らう方がまだましだったかもしれない。
「もう関わらない方がいいかも」
 幸は今ひとつ歯切れの悪い蓼倉の腕を掴むと部屋の隅まで引きずっていく。
「どういうことっすか」
「この間、牽制をね」
 僅かに幸の顔つきが変わる。咥えていたタバコをようやく外すとそれはつまり、と言い淀んだ。
「上が絡んでる」
「なんて言われたんです」
「キミが飼い慣らそうとしてる子犬の面倒はちゃんと見てるのかってね」
「それで蓼倉さんは? 裏で手を回したのがバレたら…」
「もちろんすっとぼけたに決まってるでしょう。生憎僕はそう尻尾は出さないんでね」
 安堵の息をついた幸に、蓼倉はそれにと再び口を開いた。
「『僕に何かある』わけないでしょう?」
 含みを込めた笑みで返すと幸も口の端を僅かにゆるめた。
「じゃあ、今回は俺のこと切り捨てて下さい」
 蓼倉は幸を見た。幸がなにやら不穏な事を考えている様子なのは目つきで一目瞭然だった。
「一部からしたり顔される程度とはいえ、それに見合うお仕置きはさせて貰うかもよ?」
「そんなの承知の上です」
 幸は目を細めてうっすらと笑った。
「なあ幸、なんだってそんなに追っかけ回すの」
「蓼倉さん、前に俺に訊いたでしょ? なんでこの世界に来たのかって。たぶん及川妃奈子は俺がずっと引きずってるものと同じものを今引きずろうとしてるんです」
「それが杞憂に終わっても?」
 幸は無言で頷いた。
「…そう。なら僕は黙って見ててあげるよ。共に這い上がれるか、落ちるか」
 蓼倉は静かに笑った。
「落ちたときはどうなるんだろうね」
 幸の頬が僅かに引きつった。思わず見た蓼倉の目は冷ややかに幸を見据え、口元には笑みをたたえていた。蓼倉の言わんとすることはなんなのか、幸は咄嗟には判断が付きかねた。
 ただ確信できたのは、あの時自分を揺り動かしたときの表情と同じだということだけだ。試されているのだろう。幸はそう考えた。自分に課されている役割を思えば、こんなことで落ちるのは許さないと。
 幸の心の中に初めて明確な形で一抹の不安がよぎった。


◇ ◇ ◇


「ハイ?!」
 佐久間は口をぽかんと開けたまま、両手を膝の上に乗せて身を乗り出すようにテーブルの向かいに座る幸に声を上げた。
 何人かが応接セットに座る二人の方にちらりと目線を向けたが、すぐに自分たちの仕事に戻っていく。相変わらず部屋の空気は澱んでいた。警視庁での用事を済ませて真っ先にこうして佐久間に会いに来たのだが、佐久間は連日の捜査でぐったりとしていた。それだけに幸の言葉がすぐには理解されなかったらしい。
「今なんて仰いました?」
「だから、及川妃奈子をしばらくお前んとこで預かってよ。なんとかなんない?」
 佐久間は口元に手を当てて眉間にしわを寄せた。
「あんな子鹿のバンビみたいな子を、ウチの道場の門下生達の中に放り込ませたいんですか?」
「それを言われると返答に困るけど。寮とかあるんだろう?」
「ありますけど…男性恐怖症がひどくなっても知りませんよ。ただでさえ暑苦しい連中ばっかりなのに」
 幸は目を細めて腕組みをしながら、灰皿からゆらゆらと上るタバコの煙を睨んだ。
「それが一番のネックなのは分かってるけどさ。それでも一時的に家から離すために預かってもらえそうなのって、佐久間のとこくらいしか浮かばないんだよな。事情も知ってるし、学校も近いし」
「ご家族と何かあったんですか?」
「家族と、というより本人の心理的な問題らしいけど」
 珍しく覇気に欠ける幸の様子にほだされたのか、しばらく考え込んでいた佐久間は分かりましたと意を決したように言った。
「門下生でもないのに寮に入れるのは抵抗あるので出来ませんが、幸い兄が使ってた部屋が空いてることだし、そこを使って貰うということなら」 
 それを聞いて幸の顔が一気にほころんだ。立ち上がると佐久間の肩をぽんと叩いた。
「サンキュ、この借りは絶対返すから」
「え、保苑さんもう行かれるんですか?」
「うん、悪いけど。さっそく話しつけてくるわ」
「今からですか?!」
 呆気にとられて立ち上がった佐久間に、幸は片目をつぶってごめんと手を挙げた。悪巧みを見逃してくれと言いたげな、どこかいたずらっぽい少年のような表情に佐久間は肩の力が抜けた。ああいう仕草を何気なくぽろっと見せるから、あちこちで騒がれていることに本人はどのくらい気付いているのだろうかと佐久間は思った。
「確信犯なら相当なタマよね」
 幸が来た途端に廊下で無駄にうろうろし始めた、交通課の婦警達をかき分けていく幸の後ろ姿を見つめながら、佐久間は小さく呟く。携帯を取り出すと窓の外を見下ろしながら溜息をついた。 
「あ、もしもし。お母さん?」


「もしもし、俺だけど」
 その頃、警察署を出た幸は駅へ向かう道中で鞠子に電話を掛けていた。
「及川と会うのは次はいつ?」
『今日の午後三時よ。どうしたの?』
 あまりのタイミングの良さに幸は心の中でガッツポーズをとった。
「あの件、話ついたから俺もそっちに行っていい?」
 鞠子はもう? と驚きの声を上げる。
「早い方がいいんだろ?」
『ええ、そうだけど』
「そんじゃ、三時ね」
 手早く告げて電話を切ると、幸は一段落ついて息を吐いた。 
 公園へ連れていこうとして逃げられて以来、気が咎めて連絡を取りづらくなってはいたが、これで妃奈子に拒まれたらどうなるのだろう。鞠子の話では妃奈子が自分に嫌悪感を抱いているような素振りは見られないらしいが、それでも自信がなかった。 
 まあ、しょうがない。
 なるようになれだ。
 心の中でそう言い聞かせながら幸は駅への道を急いだ。


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